もはや食後ではない

繕光橋 加(ぜんこうばし くわう)

導入:蛇の座る部屋

「―――ひとつ、中央アメリカ神話はもちろん、

    ふたつ、精神分析学においても、

    みっつ、ギリシャ神話においてもです。

 私もまた人間に知恵を与えるために、天から任を遣わせられた、一つの仕掛けなのでありました。どうか一度、私の立場を考えてみて下さい。蛇とは、神話と名のつけば事あるごとに、人間に対して農耕と生殖を与え授けることが、その役回りとして期待されているではありませんか。」

 おろおろとした様子で【誘惑の蛇】が弁解したが、あまり意味がない。それは演技に違いなかった。飽くまで外見だけを、いかにも弱い、揺り籠じみた調子でまとめあげたに過ぎないことは、その場にいたインタビュースタッフ二人にはお見通しなのであった。

 実際は砂漠とも荒野ともつかぬような、だだっ広い殺風景が、その内面に根を伸ばしていながら、恐ろしく寒々しい、寂れたブリキの心中を、空っ風でも吹いているのではないか。

 事実、蛇は深々と椅子上にとぐろを巻いていながら、その上下に揺れ動く尻尾は、音頭リズムでも取っているかのように規則正しい。上擦った声が私たちに届ける湿っぽさも、絡め捕るような言葉の運びも、あたかも作為的に繕われた…、いやそれだけでは足りない、発言主によって度々使いこなされた印象さえ、漂っていたのである。

「その象徴的な役回りっていうのは、いざ当て嵌めてみれば分かります。あまりに重いもので、いつの間にか種族に固有のアイデンティティーになってしまった。人と神との間で暗躍せよとの期待を背負い、私が企みを働かせることは、人間が望んだことです。元より神様もお考えになっていらっしゃらなければ、こちらが困りますなあ。

 …とはいえ、そんなことを聞きに来たのでもございますまい。いくらそれが事実とはいえ、過去の四方山事よもやまごとをひっぱりだして、ねえ貴方。あまり冒頭から、私を虐めないで下さいませ。」

 インタビュアーは呆れた。誰も虐めているつもりはないのだから。だが、嫌にさまになった突っ張り方は、ただ興冷めを誘うものではない。気を許すと感傷を持っていかれそうになる危うさを含んでいる。毒蛇の持つ、最も洗練された手札であった。

 彼を中心にして、埃を泳がせる空気が回転し出している。

 言わば話の枕として投げかけたに過ぎない雑談に、嫌味ったらしい長答弁をされた男たちは、随分辟易させられた。その上、蛇は声の調子ばかりをくねくね変えながら、表情の方はまるで変えない。

 インタビュアーはレコーダーを持つ助手に目配せし、早々に終わらせてしまうのが良さそうだな、といった意味の視線を表明した。

「そうですねえ、今日、誘惑の蛇さんに取材のお願いをしたのは、事前にお伝えした通りのことです。誘惑の蛇さんの例の事も、我々人間にとって重大な関心ごとではございますが、“蛇さんを追い詰めるのも思いますから、”ここはひとつ本題に入りましょう。」

 このインタビュアーは十分すぎるほど蛇の言い草を強調し、話を急いだ。蛇はまるで、子供から強引におもちゃを取り上げる大人の余裕の無さをあざ笑うかのように、かっかっか…などと賢しらぶる。例に漏れず顔つきばかりは鉄仮面で、そのくせどこから笑い声が出ているのか、とんと見当がつかなかった。その様子の異様なことといったらどうだろう。

 ペンと言葉を操る男は、経験豊富な業界人であった。コラムや記事を書くのはいつだって、その場の空気だ。自分たちだけでも、取材対象だけでも、需要だけでもないのだから。

「こんな時はむしろ、蛇の強烈なキャラを立ててやろう」とでも思ったようだった。普段の収録では決して控えるだろう、咳払いをひとつ、それも余計に大きく、威厳たっぷりにゴホンと決めた。レコーダーにあえて残しておくためである。助手も頷き身を乗り出したかと思えば、じわじわと距離を広げ、さも最初からそうであったようにマイクを蛇の眼前に置く形を自然に作る。

「えー、私たちがお伺いしたいことは、知恵の木の実を食べた、アダムとイブの様子です。これが本人たちへの取材であってはいけないのです。…知恵の木の実を食べる前と後での変化に、主観を持ち込まれることを、私たちは望んでいないからです。」

 赤いネクタイ、グレーの背広、そして主張する整髪剤。説明する彼の出で立ちは、どう見ても90年代のワイドショーから派遣されたようで、見ようによっては胡散臭いところが多分にあった。

 それに、指定した取材現場もかなりまずい。貸しオフィスなどの気の利いた部屋であったら文句も無かったのだが、予算担当者が「どうせ蛇だろう。オフィスなんて広い部屋、もったいない」などと舐めた態度で決めてしまった。やけに薄暗いホテルの、かび臭い部屋しか準備できなかった。灰色い部屋。思い出されるのは、体育館倉庫にうちやられた、リール知らずの延長コード。窓からは光が注ぐが、こんな光景などフェルメールでも切り取ろうとしないに違いない。

 古を知る朽ち縄に、「何でこんな処で我々の取材を受けようと思ったのか、さっぱり分からないですねぇ」とは助手の評論だ(かくいう助手もラフなTシャツ姿であった)。そんな理由なぞ、蛇のみぞ知るばかりであるが、それを尋ねようにもケチったのは自分達で分かっているので、幾分気まずい。気にせず男は早口で話し続ける。

「しかし、あなたは違います、誘惑の蛇様。あなたはイブを唆して知恵の実を食べさせておきながら、その前後に現場にいて、一部始終を目撃していたのですから。後にあなたは呪いを受けて、この子孫との間に相打ちになるという“因縁”を、神に規定されることになります。」

 唆す、現場、呪い――この赤ネクタイの、ずかずかと踏み込むような物言いは、傍から聞いているだけでさえ浮き足立つものがある。ところが、流石に蛇は面食らった様子も無しに、すまし顔で話者を見ていた。

「“貴方だからこそ”、お話しして頂きたい。いったい、知恵の木の実とは何ですか。それから、それを食べる前と後で、人間にはどんな変化がありましたか。」

**


 蛇は少しの間、黙ったまま何もない壁を見ていた。どんな言葉を出せば良いかを逡巡しているように見えた。男たちが見守っていると、蛇は頭を軽くひねり、とぼけるように語った。

「…私は、いやはやどうにも、あなた方が何か誤解しているように思えてなりません。やはり、アダムとイブの主観以上に適した報告者はいないだろう。私の取材内容は参考程度にしておいたらどうです。」

「と言うと?」

「知恵の木の実を食べて、そんなにすぐに効果があったと思いますか?あなた方人間であれば、完全に消化し終えるまでに、例えば果物であれば一時間、野菜でも二時間はかかるようです。」

「…ははあ。では外から見れば、緩慢な形で変化が現れた、と。」

「あなた方が欲している情報に限定して言うなら、そうです。バラエティー向きな急激な現象も、結果も、特別あった訳ではありません。まあそれをどう編集するかはそちら様の腕次第でしょうけれども。」

 蛇は大雑把ながら、観察していた様子を話した。主との邂逅前に巻き付けられたイチジクの葉。知恵の発現に伴って生殖にあたる機能的部位を隠す防衛に由来する慣習のきっかけ。古代ローマではイチジクがモデルとみなされていたが、その後イチジクの葉が特定的に記述されているのであるからこそ、それではない、などなど。それはそれは流暢な人間の言葉で話した。

 だが最後の最後まで、あるトピックについては口を割ろうとしなかった。アダムとイブの、主観的で、個人的な秘め事については。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る