第29話
母親が取った電話から聴こえて来るのは、泣いている女性の声だった。音が割れていて、母親にしても何を言っているか聞き取れない様子だ。
「お、落ち着いて。如何したの!? 桜木さん!?」
俺と夜鈴に緊張が走った。明らかに只事では無い雰囲気の声が、知っている名前から発せられている。
それが意味するのは。
「え……!?」
と、母親が慄き、受話器の送話口を手で塞いだ。それから此方へ振り返り、言った。
「永海ちゃんが……行方不明だって……」
俺は思わず椅子から立ち上がる。反対に夜鈴は、痛みがある筈の脚をお構い無しに地面に付け、力無くしゃがみ込んだ。
「だ、だから……だから言ったのにぃっ!!」
母親は娘の反応に唖然としながらも、電話先に耳を傾ける。
「な、永海ちゃんって、確か映画鑑賞部の……」
「ああ、そうだ」
何故だ。今の状況について、一番理解をしている彼女が、何をしたらそんな事になる。森で遭難、誘拐、川で溺れる、考えられるとしたら、この辺りか。勿論、殺害後に遺棄されたなんて事もあるが、考えたくも無い。
俺の予想を否定するかの様に、夜鈴が誰に言う訳でも無く、ただ呟いた。
「だからあれ程、辞めといた方がいいって、言ったのに…………永海は、神隠しにあったのよ」
衝撃の告白だった。巫女をやっている純恋は、当然その事象について知っている為、驚きを隠せない様子で問い掛ける。
「夜鈴、そんな……どうして!? な、何をしたらそんな事……」
「祭殿の中を開けたって……私もその時一緒に居たから……もしかしたら、私も」
落とされた受話器が壁に激突した。母親はそれがすっぽ抜けた様に、手は依然耳元にあった。そして娘を見下ろして、眉を顰めている。あのハツラツとした母親とは思えない表情に、純恋ですら後退った。
「夜鈴、それは本当?」
夜鈴は母親の顔を見て、頷く。そして、「ひぃっ」と声を漏らした。それもその筈、母親の顔は歪み、失望の眼差しを向けていたのだから。
「あんた、もうずっと部屋に居なさい。外堀が冷めるまで、出て来ては駄目……お父さんにも、樹咲にも会わせない」
「そんなっ、お母さん!!」
「いいからっ!! 今すぐ行きなさい!!」
この状況を理解して居ないのは俺だけだった。
神委高校の中庭にある祭殿は神様を祀り、祈りを捧げる所。本殿は神委神社にあるから、そこは謂わば副次的な場所だ。
だが、その重要性については、目の前にいる二人の巫女が証明している。
純恋に連れられて、夜鈴は二階へ上がって行った。
「無人君、この事は口外禁止。お願い出来る?」
「は、はい……」
「有難う。それじゃあ、今日は樹咲を連れて帰って」
二階から降りて来た樹咲と一緒に、鏡家を後にした。純恋の家とは反対方向であった為、何も話す事無く俺達は別れて帰宅した。
⭐︎
週が明けた。
俺達のクラスである二年B組は、本日四名の空席があった。遠鐘久遠と宴土乙葉、そして雨後終夜。もう一人は風邪との事だった。
25名と、元々人数は多く無いクラスだ。教室はいつもより広く感じる。しかし、それを広々と手を伸ばして使う訳でも無く、殆どの生徒は休憩時間も席で大人しくしていた。
美妃虎子は、あれから久遠と「上手くいった」との報告が今朝あった。彼女のメンタルが回復したのは、呪いの元では良いニュースだ。
「浮かない顔ね」
合間休憩はいつも席で大人しくしている椿は、今日も読書をしていた。
「色々な事が有り過ぎて、頭がパンクしそうなんだ」
「そう」
彼女を横目で覗いてみる。ページを捲っては、眼球が上下に動いている。最近の彼女は、俺に感情を示す様になった。殆ど怒気なのは、単に俺が癪に触る様な事をしているだけかも知れないが、それでも嫌な気はしない。
いつか楽しげに笑ってくれる日が来る事を願っている。その為にも、神委家の言う磁場なのか、皆んなが噂する呪いなのか、どちらにせよそれを改善させなければならない。
「何ジロジロ見てるの」
「あ、ご、ごめん……良く気付いたね」
俺は、思考しながらもバレない様に見ていたつもりだった。だが、次の言葉で思考は停止し、急ピッチで心臓が鼓動し始めた。
「無人の視線は良く感じるから、分かるわよ」
「え!? そ、そ、そんなに見たつもりは無い、けど」
「一日の半分は、無人からの視線を感じるわ」
身に覚えがあり過ぎて、否定出来ないのが悔しい。椿は本に眼を通しながら、話をしている。そこに怒気が宿っているかは定かでは無い。
「あ、あのぉ」
「なに?」
「お、怒ってる?」
「そんな日もあったわね」
「ご、御免なさい……」
パタンッと本が閉じられ、椿は珍しく体ごと此方へ向いた。
「無人だけに限った話では無い。でも、最近は貴方の視線ばかりが気になる。他の人と違って……熱い、というか」
彼女は止まって一度眼を伏せた。そして、改めて俺を見て、
「私が無人を意識しているの?」
「え……?」
どれだけの時間、互いに見つめ合っただろう。突き刺すような彼女の瞳は、ピクルとも動かない。二つ並んだ涙ボクロは、相変わらず気を紛らわせて来る。ドクドクと速い鼓動が、脳にまで届いた。
すると何処かで、舌打ちと共に陰口のような陰湿な発言があった。ような気がした。
一瞬そっちに気を取られると、椿が言う。
「少しは気が晴れた?」
「えっと…….」
「永海が行方不明なんだってね」
純恋樹咲から聴いたそうだ。なるほど、この会話には、彼女なりの優しさ、ジョークも含まれて居た訳か。
「あ、ああ……純恋の友達は、神隠しだって……」
「神隠し……前から気になってたけど、あの中庭の祭殿には何が祀られているの?」
「そ、そりゃあ……土地神様って事になってるけど……?」
「私が来て約二ヶ月間、誰も祈っている様子は無い。無人はどう?」
「確かに……言われてみれば俺も、他の生徒も無いかも知れないな」
「何か変じゃない? 私の印象だと、神委市住人は土地神を崇拝している。私達の世代は、そうでもないけど。この前、神委神社に行ったら大勢の老人が祈りを捧げて居たわ。こういう宗教が盛んな街の学校なら、週に何度かあってもいいんじゃない? 祈る時間が」
「前の学校はそうだったし」と、椿は付け足した。
「つまり何が言いたい?」
「あそこは、本当に祈る為の場所なのかって事」
疑問に思った事も無かった。親世代より前が土地神信仰に執心しているのは、知っていた。だが、俺達に課せられた宗教による制約は、「神委市外へ出て行かない事」「土地神様を信じる事」の二つだけだ。前者は比較的守られているが、後者はまちまちだ。
俺達には土地神信仰を強要されていない。だから、祭殿に対して祈りを捧げる必要も無いし、求められてもいない。
椿の疑問は、外の人間ならではの考えだ。
だが、そうなると俺も疑問を持たざるを得ない。
「祈る為じゃないなら、何に使う場所かな」
「土地神の象徴や威厳、雰囲気作り。それ位しか思い付かない」
「俺もそれくらい、かな」
「ええ」
椿はまた本を開いた。
桜木の件は、もう学生がどうこう出来る範疇を超えている。後は、警察官である父親に任せるしか無いだろう。
祭殿については、保留だ。夜鈴の母親の反応を見るに、今はあまり関わらない方がいい気がする。
幽霊の葵さんの捜索は、毎日欠かす事無く行っている。存在が分かった以上、地縛霊である彼女は学校の何処かに必ず居る。
⭐︎
知らない天井があった。
保健室と似ているが、少し違う。消毒液の臭い、薄っぺらいベッド、右手には何か硬い物が握られている。頭痛と倦怠感が同時に襲ってくる。薄暗くて、心細い。
今しがた気付いた。左の視界が無い。
触ってみると、眼帯の様な物が付いている。左眼は開いているのか、閉じているのかすら分からない。
断片的な記憶がある。
キラキラと輝きを放つ大小の透明な破片。それが間近まで迫り、三階から聴こえるのは叫び声であった。左眼は熱を帯び、誰かの呼び掛けと救急車のサイレンの中、眩しい幾つものライトに照らされ、そして意識を失った。
ここは市立病院の病室の中だ。
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