第20話

「先生は!?」


「さっき職員室に行くって……」


 集まった女子生徒達が口々に言う。


 椿はふらついて、脚から崩れ落ちた。今は地面に横たわり、長い髪が扇状に広がっている。


 俺が気付いた時には遅かった。


 汗が凄い、息が荒い、体が熱い。苦しそうに眼を閉じている。だが、意識はあるみたいだった。女子生徒の呼び掛けに時々反応を示している。


 今日は真夏日と同等の暑さに加え、雲一つ無い空から直射日光が降り注いでいる。


 熱中症だ。


 彼女は、長袖長ズボンで、熱が籠りやすい黒いマスクを着用している。もしかしたら、水分補給すらしていなかったのかもしれない。


「無人君、保健室へ」


 白鷺が緊迫した声で言った。


 力のある久遠やその一行は外部倉庫へ行ってしまっている。


 「誰にも触られたくない」と言った椿の言葉が反復した。だが、今はそんな事を言っている場合では無い。


「ああ、分かってる」


「背に担いだ方が運び易いかも」


 その提案に了承し、白鷺達に手を貸して貰いながら、彼女を背中に乗せる事が出来た。手を回す様に指示したが、彼女はもう満身創痍に頷いている。


「わ、私も行く……」


 そう言ったのは、純恋だった。


 別に誰が来たっていい。早く処置しないと危険な気がする。俺は構わず歩き出そうとした時、「きゃっ」と小さな悲鳴が上がった。


 何事かと思い立ち止まったが、純恋が何かに躓いて、転倒しただけだった。


 優先されるは椿の方だ。彼女も直ぐに立ち上がったようだし、出来るだけ急いで保健室へ向かった。


 だがその時、後ろから女性の笑い声が聴こえたような気がした。


⭐︎


 保健室へ向かう途中、廊下を歩く藤崎先生とすれ違った。西華先生を呼んでもらう様にお願いをし、熱中症の応急処置についても教わった。


「純恋さん、水を持ってきて貰ってもいいかな?」


「う、うん。そうだね……」


 純恋と別れた後、保健室へ到着し、椿をベッドに寝かした。壁と3方のカーテンによってベッドは囲われている。


 彼女は変わらず苦しそうにしている。マスクの所為で息がし辛そうだ。


「椿、マスクだけ外すぞ……?」


 伸ばした手は弾かれた。


「だめ……」


「……分かった。もう少しで、純恋が水を持って来てくれるからな」


 仕方なく俺はその間に、氷を探した。冷蔵庫があり、その中に業務用の氷が入っていた。更に上段には、スポーツドリンクが冷えた状態で入っていた。


「西華先生、流石だ」


 思わず声に出てしう程、西華先生の準備の良さを称賛した。


 急いで、椿にそれを持っていく。


「水あったから、飲めるか?」


「うん……置いて、おいて」


「分かった。ちゃんと飲めよ」


 俺はベッドの外にある机で、氷をビニール袋に詰め替えていく。


 すると、ゴトンッと鈍い音がした。


 そして、脚元にスポーツドリンクが転がってくる。


 カーテンの下から、椿の手が見えた。


「椿!?」


 直ぐに向かうと、彼女は起き上がる途中で力尽きていた。体は打つ伏せの状態でベッドからはみ出し、左手を地面にぶら下げている。マスクは片耳の状態だった。


「大丈夫かっ!?」


「う……」


 彼女を抱えて起き上がらせる。凄い熱気と汗の量だった。早く飲ませて、氷で身体を冷やさないと。


 体勢を戻す際、ポトッと、黒いマスクが床に落ちた。だが、俺はそれに気付かずに、彼女をベッドの背に座らせた。


 彼女が顔を上げ、眼を開く。彼女の手は耳を触り、マスクが無い事を俺と同時に認識した。


 初めて拝む葵椿の素顔。しかし、彼女の口や頬は酷く爛れていた。


 まず、皮膚が足りていない。特に左の頬にかけて大きく削がれていた。


 顎同士を繋ぐ筋肉、常に食いしるような白い歯が、皮膚の間から見えてしまっている。


 傷の周辺は蜘蛛の巣状の凹凸と赤みがあり、彼女の白い綺麗な肌が余計にそれを目立たせている。


 一見すると、口裂け女のような風貌だ。


 だがそれでも、幽霊の葵さんと同じ顔である事は、俺には分かった。


「椿……その傷は……」


 動揺は隠さなければならない。彼女はずっと俺を睨み付けている。これは彼女と初めて話した時よりも、遥かに強い敵意を感じる。気の所為では無く、強固な意思だ。


「と、取り敢えず水を……」


 彼女はスポーツドリンクを受け取ると、勢いよく飲み干した。口から水が垂れて、首を伝って胸元へ消えていく。


 空になったペットボトルは握り潰された。


 彼女は俺から顔を逸らすと、比較的痛々しい傷跡の少ない右半面を向けた。


 何をどうやったら出来た傷だろうか。


 だが、今は彼女の体温を下げなければならない。そう思った矢先、保健室の扉は開かれた。


「無人君、お待たせ。ごめんね、遅くなって」


 二人分の足音がした。声は西華先生だから、もう一人は恐らく純恋だ。


 カーテンを開ける前に、椿は俺の手を力強く掴んだ。なりふり構ってられない彼女は、力加減を誤っている。


「無人……誰も入れないで」


 許される極限の声量だった。息は上がり、辛そうにしている。


「わ、分かった。安心して横になっててくれ。直ぐ戻るからな」


 頷いた彼女を見て、俺はカーテンの外へ出た。


「椿ちゃんの容態は? 見せて」


 早速西華先生が尋ねてきた。


「あ、大丈夫ですよ。応急手当はしたんで、今は寝ています」


「そう? 有難う。でも、一応私が見ないと……無人君?」


 進もうとする先生の腕を掴んだ。


「駄目です先生」


「どうして? 何かあったら、無人君どうするの? 流石の私も怒るよ?」


 西華先生を止める言い訳が思い付かない。そもそも保健室の先生が、容態を見ない選択肢なんてある筈ない。


 だがそれでも、行かせる訳には行かない。


「あ、あの!! マ、マスクを外してるんです…….」


「え!? だから入っちゃ駄目って言うの……!?」

 

 西華先生は聞き入れる素振りは無い。その時、純恋が横から口を挟んだ。それは、おどおどしているいつもの彼女では無かった。


「いつもマスクを付けてるんです。今まで誰にも素顔を見せた事はありません。だから、その……私達には見られたくないのかなって」


 西華先生はそれでも怪訝に眉を顰めている。そして此方を向いた。


「……純恋さんの言う通りです」


「…………はあ、分かったわ。で、水分は取らせた?」


「はい、冷蔵庫のスポーツドリンクを飲ませました」


 水を持ってきてくれた純恋に謝罪をすると、手を振って愛想笑いをした。


「で、この氷は……?」


「あ、それはまだです」


 西華先生は溜息をついて、手際良く氷を袋に詰めタオルで包んだ。


「じゃあ、これ脇に置いて。このタオルで汗も拭いてね。後、頭にはこれを貼ってあげて」


 次から次へと、俺に手渡していく。保健室を任されてるだけあって、迷う様子は無い。


「有難う御座います」


「ていうか、無人君には何で見られても平気なのかしら」


 俺は笑って誤魔化したが、あんなのは誰にも見せたくなかった筈だ。恐らく母親にも。


 俺は細心の注意を払って、カーテンを開けた。


「椿、大丈夫か?」


「……頭痛い」


「ほら、これ。冷える奴貼れば楽になって」


「うん、貼って……」


 椿は頭に手を当てて眼を瞑っている。


「貼るから、手退けて貰っていいかな」


 椿は手を退ける。汗で濡れた前髪は束になっている。まずタオルでおでこを拭いた。綺麗な白い肌だった。それとは裏腹に、口元の爛れた傷は、眼を覆いたくなる程、悲惨だった。


 皮肉にも笑ったように見える。そう思ってしまった俺は最低な人間だ。

 

「冷たっ」


「気持ちいいだろ?」


 彼女は頷く。


「服、脱がしていいか?」


 また頷く。俺は長袖の上着のチャックを下まで外し、両腕を袖から脱がせる。そして、背中を持ち上げて、上着を引き抜いた。


 着込んだ薄い白シャツは汗で濡れて、下着を透かしていた。


 細い体躯に白い肌。だが、その体にも赤く爛れた傷跡が所々に広がっている。


 俺は黙って、両脇にタオルで包んだ氷を置いた。首元をタオルで拭き上げ、お腹や背中にも手を入れた。


 緊張以前の話だった。余りにも悲惨で、悲劇で、不憫な彼女に、劣情を抱く暇も無い。


「これ、火傷の跡」


 彼女は震えた手で、自分の口と体を交互に指をさした。


「確か父親は……」


「うん、そういうこと」


 火事で死んだ。その時に出来た傷か。


「そうか……」


 ここでチャイムが鳴った。これは、終わりでは無く、5限目の始まりの合図だ。


「無人君」


 カーテンの向こうから、西華先生の声がする。椿を一瞥してから、この場を出た。


 純恋は既に居なかった。


「椿ちゃんはどう?」


「少しは良くなったと思いますが、未だ動けそうにないです」


「今日暑かったから、無理ないわね。私の監督不足ね」


「いえ、そんな事は……」


「椿ちゃんのお母さんには連絡着いたから、後一時間位で迎えに来るわ」


「良かったです」


「無人君はそれまで椿ちゃんの傍に居てあげて。樹咲ちゃんに利用証明書持たせたから、安心してサボっていいわよ」


「分かりました。有難う御座います」


 西華先生への理解に敬意を込めて一礼し、椿の元へ戻った。彼女は安らかにしているが、傷の痛々しさは、やはり眼を覆いたくなる。


「醜いでしょ」


「そんな事は無いよ」


 彼女はギッと眼を見開いて、俺を睨み付ける。


「適当言わないで。貴方のその偽善な所は嫌いよ」


 偽善か。確かにそうかもしれない。


「ごめん…………でも、俺は椿の、傷の無い顔を知っている。綺麗で美しい顔だった」


 彼女は体を起こす。支えている腕が震えていた。眉を顰め、眉間に皺を寄せる歪んだ顔が、更に俺を睨み付けた。


「は? それ、最初に言ってた私に似た人の話でしょ? 重ねないでって言った筈だけど? 私とその人は違う。うざい、とても不愉快だわ」


「……確かに、違う。重ねようにも、全く重なる所は無かった。唯一の見た目ですら、今違うと気付いた。だからこそ、椿のその顔が好きだ。性格も、髪も、声も、喋り方も、椿の存在そのものが、俺は好きだ」


「…………もういい。出て行って」


 彼女は寝転んで、わざと傷の酷い左側を向けている。それはまるで「信用ならない」と言っている。


 今まで気の所為かと思える程の僅かな感情しか出さなかった彼女だが、これには強い怒りを感じる。


 半分八つ当たりも含まれてそうだが、俺の発言の所為だ。偽善の所為だ。責任を持って受け止めなければならない。


 だが、彼女のその怒りには、不思議と嫌な気はしなかった。彼女なら何をされてもいい、とそう思った。


「早く出て行って」


「ごめん、それは出来ない。西華先生の指示でもあるんだ……母親が迎えに来るまで我慢してくれ」


 俺を最後まで睨み付けた後、眼を閉じてそのまま眠ってしまった。顔は徐々に穏やかになっていく。


 彼女の父親は十年以上前に火事が原因で死んだ。その時に出来た傷は、感情の少ない彼女に大きな影響を及ぼしたのかも知れない。周囲からは恐怖され、彼女は後天的に「怒り」の感情が、増幅されていった。


 妄想に過ぎないが、そんなところだろうか。


 椿の母が来るまで、残り三十分。


 拒絶されようと俺は、これからも彼女の傍に居続けたい。

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