第2話 過去

 2人でベンチに座る。彼女は両手を股に収め、キュッと肩を持ち上げている。スカートの上から露わになった太腿の輪郭は、俺の気を動転させている。


 気不味い雰囲気の中、俺は彼女の胸元に付けられた名札を思い出し、緊張を悟られない様、話を切り出した。


「……葵さん、でいいですか?」


「はいっ!?」


 彼女の上ずった声に、俺も背を立て直す。


「名前です。葵、と名札に書いてあるので、そう呼べばいいですかね」


「へっ!? ああ、そうですね。葵です。そう呼んでもらって、大丈夫だと思います。……そちらは、えっと。それは、何と書いてありますか?」


 彼女は前に屈んで、俺の名札を見つめている。上のボタンを外して、緩く着こなしている夏服のシャツが垂れて、自然と俺はそこを注視してしまった。


 水色の下着は、僅かな膨らみに密着している。


「……どうか、しましたか?」


 彼女が不安そうに眉を顰めて俺を見る。急いで眼を逸らした。


「い、いや、なんでも……なんでもないです。……えっと、そうだ名前か。これはカミスって読むんです」


 彼女は俺の苗字を何度か復唱し、笑顔で頷いた。


「神栖、君。宜しくお願いしますね」


 名前を呼ばれると、一層心臓が早く鼓動した。そういえば、心臓って鼓動の回数が決まっているらしいから、彼女と居たら早死にしてしまうかもしれない。


 そんなどうでもいい事が何故か頭に浮かんでしまった。


 俺はそっと眼を閉じる。


「それ、なんですか?」


 彼女がまた前屈みになって、俺の前まで体を寄せた。彼女が見たのは、花柄の包みだ。


「弁当箱です。まだお昼ご飯を食べていないので。……そういえば、葵さんもご飯食べてないですよね?」


 俺がここへ向かったのは、4限目のチャイムが鳴った直後だ。だから、彼女がご飯を食べている筈は無い。


「え? ええ、まあ……。で、でも大丈夫です。私に構わず食べちゃって下さい」


 葵さんはどうやら食べないらしい。そもそも、彼女は手ぶらだ。


 会話の妨げになってしまうが、午後の授業を考えると、食べておいた方がいいだろう。


「では、遠慮なく食べさせてもらいます」


「はい」


 今日の母親作の弁当は、昨日の残り物の生姜焼きと、冷凍のソーセージ、クリームコロッケ、ポテトサラダが入っている。ご飯には、梅干しが乗っていた。


 両手を合わせて食べ始めた。


「美味しいですか?」


「……そうですね。はい、美味しいです」


「それは、良かったです」


 彼女は微笑みながら此方を見ている。人に見られながらする食事は、とても食べ辛い。


 俺は出来る限り早く飲み込んでいく。


 大体半分程度弁当を消費した頃、最後のクリームコロッケを食べようとした。


 その時、彼女が声を漏らした。


「はぅぅ」


 声にもなら無い程、小さな声だった。だが、この静かな空間では、容易に俺の耳にそれは届いた。


「……はっ!!」


 彼女は勢いよく両手で口を塞いだ。俺は食べようとしていたクリームコロッケを一旦弁当に戻した。


 彼女は顔を伏せて、川面のような髪からはみ出る耳先を、赤くしていた。


「ど、どうかしましたか?」


「……な、なんでも、なんでもありません!!」


 彼女はすっと顔を上げて、外方を向いてしまった。


 俺がまた箸を持ち上げようとすると、先端に挟まれたコロッケを横目で凝視した。


 それは余りにも鬼気迫るような眼で、俺はまた箸を置いた。


「あの、良かったら食べます?」


「ええっ!? ……で、でも」


 一瞬太陽のように明るくした彼女だったが、申し訳なさそうに眼を伏せる。


「あっ! そ、そうですよね。流石に食べかけは嫌ですよね」


「ち、違います!! ……そうじゃなくて、その。神栖君がお腹を空かせてしまってはいけませんから」


「半分食べましたし、お腹は充分満たされてますよ」


 俺が笑い掛けると、彼女は弱々しく呟いた。


「……い、いいんですか?」


 彼女に弁当と箸を手渡して、遠慮なく全部食べるように促した。


「あ、ありがとうございます……じゃあ、食べます」


 あまり器用とは言えない手付きで箸を握る。眼を輝かせて、弁当を見る姿は些か大袈裟にも思えた。


 そして、彼女はクリームコロッケを掴み、恐る恐る口まで運んだ。それを箸ごと大きく舐め取って、悶絶する。


「んんんっ!!」


 左手を頬に当て、噛む度に幸せそうな声を漏らした。


「神栖君!!」


「は、はい……」


「これやばいです。凄く美味しいです。一体何なんですかこれ!!」


 きらきらした顔を俺に近付ける。長い睫毛をした黒い瞳に吸い込まれそうだった。


 俺は照れ隠しに顔を背ける。


「た、ただの冷凍食品ですよ。そんなに驚くことは無いと思いますが……」


 そう言ってる間にも、彼女は次々と食べ進めている。


 美味しい、美味しい、そう何度も感動しながら食べる姿は、一周回って清々しく、此方まで幸せな気持ちになれる。


「その食べっぷりなら母も喜びますね」


 彼女は最後にご飯を飲み込むと、満足そうに息を吐いた。


「これ、お母様が作られたんですか? 凄いです。もしかして、料理人の方ですか?」


「そんな大層な物じゃないですよ。殆ど冷凍食品です」


「なんですか、それ? 冷凍……冷たくはなかったですけど……」


 彼女は首を傾げ、眼を丸くした。


「えっと……え、知らないんですか?」


「あ、えっ!? た、たまたま……たまたま知らないだけです」


「そ、そうですか……簡単に言うと、予め作っておいた食品を凍らせて、必要な時に温めて食べるんです。保存が出来るのが利点ですかね」


「……へ、へぇ。凄いですね!」


 いまいち理解出来ていないような、曖昧な様子な彼女だが、嬉しそうに手を合わせているので、そのままでいいだろう。


「これ、有難う御座いました。凄く美味しかったと、お母様にも伝えて下さい」


 彼女は米一粒ない綺麗な弁当箱と箸を俺に手渡した。弁当箱に蓋をして、箸を仕舞おうとした時、とても不純な気持ちが湧いて出てしまう。


 間接的とはいえ、そういう事だ。


 俺はどうしようもなく気恥ずかしくなり、頭を抱え込んだ。


「こんな青空の下で、美味しいご飯が食べれるんですから、今私は幸せです」


 彼女は空を見上げていた。白い歯を見せて、瞳を輝かせている。


「大袈裟ですよ」


「……でも不思議です。そこら中に座るところがあるのに、誰も居ませんよ。何故皆さん、外で食事しないのでしょうか」


 体育館の直ぐ隣にあるのは旧校舎だ。一年の俺の教室がある。


 その周辺に近寄りたがらない理由は、たったひとつしか無い。


「……自殺した人がいるの、知りませんか?」


「そ、そうなんですか!?」


 幸せそうな顔から一変、彼女は眉を顰めて立ち上がった。


 俺も合わせて立ち上がり、手を招いて旧校舎が見える位置まで移動する。


「あそこから飛び降りたんです」


 右端から2つ目の教室に指を差して、列をなぞって屋上に差し直した。


「そんな、あんな高さから……お知り合いですか?」


 彼女は心底悲しそうに俺を見つめた。


 神委高校に通う生徒なら、全員が知っているであろう有名な噂だが、彼女は一端も知らない様だ。

 

「全く知らない人です」


 彼女は、「そうですか」と安心したように表情を緩めた。


「一人目は三十年前、二人目は十五年前です。顔も名前も知りません」


「二人も!? ……いるの、ですか?」


「そうですね。二人共同じ場所からです」


 彼女はやるせないような表情になっている。俺は説明を付け足した。


「二人目は一人目を追ったとされています。落ちた先はあそこなんですが、砕けた骨や歯が落ちてるだの、掘ったら遺品が出てくるだの、根も葉もない噂が横行しているので、真実は誰も分かりません」


更に、付け足す。


「今でも飛び降りの影を目撃する生徒が居まして、皆んな怖がっているんです。真下にあたる教室も全て使用されてません。ここも、もしかしたら……」


「もしかしたら……お化けが出るって事ですよね……」


 彼女はしゅんと縮こまって両手を震わせていた。


「神栖君は怖くないんですか?」


 俺は少し考える。


「怖くない、というと嘘になるかもしれませんね」


「……そう、ですよね。当たり前です。私も怖いですから」


「ええ。でも、そういう幽霊って俺と似ている気がするんです」


「彼らはきっと、誰かに気付いて欲しがっていると思います。人は1人で生きてはいけないですから。それは幽霊も同じ事です。だから彼らは飛び降りの影を見せて、ここにいるよって、アピールしている。そう考えれば、可愛いもんです」


「素敵な考えですね。ふふっ、でも幽霊は生きてないですよ」


「神委家は、魂が消滅する事を本当の意味での死と表現しています。肉体に魂が有るか無いかの違いだけ、らしいです」


 彼女は、ただ俺を見つめている。


「あ、全部幽霊が居たらの話です。そんなに真剣に聴いてもらう必要はないですよ」


 彼女は和かに笑う。


「神栖君も、誰かに気付いて欲しかったのですか?」


 俺は、ハッとなって眼を瞑る。まるで独り言のように自分を語ってしまった。

 

 言い逃れ出来る余地は無く、俺は濁しながら「そうかもしれないです」と返した。


「では、ここでお会いしたのは、運命なのかもしれませんね」


 彼女は上品に微笑むと、「戻りましょうか」と一言付けて、俺達はベンチに座り直した。


 さっきより彼女との物理的な距離が近くなっている気がする。


「……私は、本が好きなんです。いつも暇な時は、図書室に籠って本を読みます」


 彼女が話を切り出した。言葉を慎重に選びながらゆっくりな口調で話している。何だか大切な話のような気がして、遮らないよう相槌を混えながら耳を傾けた。


「私の知らない事は全て、そこや皆さんの会話から知りました……先程の話は、神栖君から初めて聴きましたが」


「私は一体誰なのか、どうして私は皆んなと違うのか、ずっと考えていました」


「手を出してみて下さい」


 彼女は、右掌を広げて俺に差し出した。俺は左手を差し出して、彼女の掌に合わせようとする。


 だが俺の左手は、彼女の右手をすり抜けた。


 もう一度、何度も彼女に触れようとするが、それに至る事は無かった。


「これは……」


「お察しの通り、私は幽霊です」


 彼女の言葉が反響する。受け入れ難いが、すり抜ける彼女の体が真実を物語っている。


「物語の中の幽霊は、自分の不幸を他人に振り撒く、恐ろしくて悲しい存在です。私を無視する皆さんを、いつか私はその様に呪ってしまうんじゃないかって、そう考えるようになりました」 


「それが怖くて、どうにか自分を見出そうと努力しましたが、日に日に気分は落ち込む一方です。誰も私を見ない、誰も私に干渉出来ない……でも、私は現実に干渉する事が出来るんです。だったら……」


 彼女は左手を俺の背に回し、右手は腹の位置、体を密着させ、顔を俺の肩に埋めた。


 不思議な感覚だ。彼女に重さは無いが、圧力は感じる。俺の体は彼女をすり抜けるが、服の上からなら触れるようだ。


 よく考えれば、弁当やお箸を持ち、ベンチにも座っている。生物以外なら干渉出来るのかもしれない。


「こうやって、絞め殺す事だって出来る」


 ギュッと、彼女の腕に力が入る。華奢な女性とは思えない。本当に実行出来そうな力だ。


 俺は耐え切れず、息を漏らす。


 すると手を緩めて、俺の体を服の上からなぞる様に触った。


「今日、神栖君と出会いました」


「神栖君が私を見つけ、私は神栖君を見つけ出しました。神栖君が言ったように、私は誰かに気付いて欲しかったんです」


「私は決して悪霊ではなく、神栖君に救われ神栖君を救う為に、今この時を生きているんだって……そう願っています」


 彼女は俺を抱きしめながら、耳元まで顔を近づけた。


「これから私の事を、宜しくお願いしますね……責任、取って下さいね」

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