第4話 過去
過去。幽霊の葵さんに敬語を使わなくなったある日の昼休み。
「今日も来てくれたんですね」
葵さんは、いつもと同じように青いベンチに座っていた。
「ま、まあね……ここは元々、良く来ていた場所でもあるわけだし……」
「相変わらず素直ではありませんね」
彼女はクスッと笑う。露出した白い腕は、なんとも背徳的で、直視し難い。
「それは……?」
「今日は葵さんの分のお弁当も用意してきたんだ」
それを見た彼女は、ハッと両手を口に当てた。大きな双眸は次第に水分を含み、大粒の涙が頬から腕が伝っていった。
「お、落ち付いて!! 幾ら何でも大袈裟だって…….」
「……だ、だって、嬉しくて。つい……」
彼女は鼻を啜り、その白い細腕で眼を何度も擦った。
純粋な彼女の嬉し泣きを見た所で、俺はピンク色の小包みを差し出した。
「これ、受け取ってくれるよね」
「……はい」
彼女が弁当箱を開けると、今度は太陽のように顔を輝かせる。
「こ、これ!!」
「……好きだって言ってたから」
彼女の好きな食べ物は、クリームコロッケと甘めの卵焼きだった。彼女の素敵な笑顔が見れるのなら、毎日でも入れて貰おう。
既に食べ始めている彼女の弁当は、凄い勢いで無くなっていく。俺は内心焦りながら、彼女と同等かそれ以上で食べ進めていく。
「はぁ〜……凄く美味しかったと、お母様にお伝え下さい」
「う、うん。喜ぶと思う……」
綺麗に畳まれた小包みを受け取る。俺は自分の残りの弁当をかき込み、そして飲み込んだ。
「そうだ……明日からは、毎日葵さんの分の弁当を持って来れると思うから、期待してくれていいよ」
「ほ、ほんとですか!? ……あ、いやでも。お母様の手を煩わせるのは、申し訳ないというか……私は何もお返しが出来ないというか……」
喜怒哀楽がはっきりと顔に出る彼女は、正しく萎んだ花のようになっている。
「……大丈夫だよ。それに……」
不自然な間を敏感に感じとった彼女が、顔を上げる。
「それに……葵さんの話をしたら、凄い嬉しそうな顔というか、ニヤけてたというか……ま、まあ、兎に角。母は物凄い乗り気だから」
「そ、そうなんですか? でしたら……はい、お願いしようかなって……」
彼女は、安心したように、そして恥ずかしそうに上目で俺を見る。
「そ、それはそうと……葵さんって、お腹はどれくらい、っていうか空いたりするの……?」
「えっ……!? お腹、ですか……」
「うん。ご飯の量とか、どうしようかなと思って……」
彼女はお腹をさすりながら、何処か遠く見て考えている。
「今、凄く満足感があります。……でも、私にその様な生理現象は無い、と思います……ト、トイレも行かないですし……」
突然彼女の顔が赤くなり、チラチラと此方を伺い出した。
「ど、どうかした?」
「あ!! い、いえ……えっと、今の私の気持ちは、美味しい物を食べられた事、お母様が私の為にお弁当を作ってくれた事、そして……無人君と会えた事による満足感、だと思います」
俺を見つめる彼女の眼は、今度は一切揺るぐ事がなかった。白と頬を赤らめる彼女は、改めて可愛いと思った。
「あっ!! でも、食べたい欲求はあってですね……それは人でいう空腹と同じ意味ですから。そ、そこは気にして頂かなくて大丈夫かと……」
彼女から笑みが消え、あたふたと焦りながら、そう付け足した。
俺はそんな彼女に自然と笑みを溢していた。
「無人君、有難う御座います」
改めて互いを見やった。俺は耐え切れなくて、眼を逸らした。そして。
「あ、あの……いつものいいですか……?」
少し間を置いて、彼女が両手を開く。俺はベンチに深く腰を掛け直して、背中を浮かせた。
俺が準備を出来た合図を出すと、彼女は嬉しそうにして、身体を寄せた。
初日にしたように彼女は、俺の背中と腹や肩に両手を回して抱きしめる。半袖のカッターシャツから出る俺の右腕は、彼女を透過しており、彼女の僅かに膨らみのある胸が脇腹を圧迫した。
彼女の顔が右肩から、徐々に首元まで近付き、息をしていない筈なのに、彼女の吐息を錯覚させる。
「直接触れたらいいのに……」
そう言うと、彼女の顔が俺の顔を擦り抜けた。側から見れば、まるでゲームのバグのようなシュールな絵面だろうが、そんな事で笑える筈も無く、心臓の鼓動を彼女に聴かれまいか心配だった。
「なんだか引き寄せられるような、そんな気がします……凄く心地が良いのは、何故でしょうか」
「さ、さあ……なんでだろうな」
彼女に恋愛感情という概念はあるのだろうか。現在彼女が抱いている気持ちは、俺たちで言うそれなのかもしれないが、彼女にとってはどうも違う様な気がしてならない。
ただの本能的な行動だった。
「そ、そうだっ……!! 今度俺の家に遊びにこいよ。母さんに会ってみたいって言ってたろ?」
撫でていた彼女の手が、ピタリと止まる。そして俺の両脇腹が、柔らかい彼女の肉厚によって締め付けられた。
「苦しい」と、冗談混じりで伝えると、彼女の圧が弱まる。
「……実は、外に出る事が出来ないんです」
「……と、いうと?」
「……名残惜しいですが、ちょっとお散歩でもしましょうか」
立ち上がると、彼女は歩き出し、俺はその後を追った。
青いベンチのある体育館から遠ざかり、旧校舎の上に自然と眼がいく。当たり前だが、屋上に人影は無い。
今度彼女を連れて、屋上へ登ってみるのもありかもしれない。幽霊の存在を知った今、残りの学園生活で噂話の解明をしてみるのも面白そうだ。
連れられた先は、赤い大きな鳥居が構える神委高校の正門だった。
鳥居には剥がれかけたお札と、神委家の紋章を象った紙製の何かが飾られている。紋章は、「V」に「○」を乗せたような形をしており、神委高校や神委神社の至る所で見る事が出来る。校長先生も身に付けていた。
何か意味ありげな形だが、それを知るのは神委家やその傘下の者達だけだ。
「外って、この先のことか……?」
「……はい。見ていて下さい」
彼女はそう言うと、鳥居の元へ歩きだした。あと少しで学校の敷地を出る。
その時、彼女は止まった。まるでそこには見えない壁があるように、彼女はパントマイムさながらに手や体を空間に押し付けている。
幽霊に物理現象が存在するのか不明だが、明らかに無理のある体勢をしても、彼女は鳥居の外へ行く事が出来ていない。
試しに鳥居では無く、敷地を囲うフェンスを乗り越えさせても、彼女はそれよりも向こうへは辿り着けなかった。
学校に見えない箱があるみたいだ。当然俺は出入り自由だから、これは幽霊を出さないもしくは侵入させない為のものだろうか。
そんな思考に至ったが、それは間違いだと彼女の口から告げられる。
「地縛霊……というらしいですよ。私の様な存在を」
地縛霊。詳しくは知らないが、その場所や土地に、鎖で繋がれた様に縛られている霊の事だったか。つまり、彼女は学校に縛られて、敷地外へ出る事は出来ないと言うわけだ。
「……何か心当たりは? 理由があるから縛られてるんじゃないのか?」
「分かりません」
校舎に設置された時計は、残りの昼休みがあと僅かに迫っている事を知らせている。
俺達は、体育館へ戻る事にした。
その道中。
「無人君は、高校に来る前は中学校に居ましたよね? その前も、更にその前も、産まれた時から無人君は続いていますよね?」
「あ、ああ。どうしたんだ、急に……」
「私は違うんです。私は無人君と出会う前の記憶は無いんです。目が覚めたら、この姿で神委高校に居たんです」
「つまり、最近の記憶しか無いと言う事か……」
「……はい」
彼女は俺と出会う前、図書室で知識を蓄え、他の生徒達の会話を聞く猶予はあった訳で、その期間は誰にも干渉されず、外に出る事も出来ずに居た。更に、自分が誰かも、何故存在してるかも、これからどうなるかも分からない。最悪、この学校が老朽化で潰れるまで、1人で居続けなければならない。俺の様に、彼女を観測出来る生徒が、今後現れるとも限らない。
初日に言っていた事を思い出した。
物語の大半の幽霊は悪霊。
もし俺が居なくなったら、本当にそうなってしまうのではないか。
太陽にさらされた彼女の髪が艶やかに煌めいている。様々な事象で一喜一憂する彼女が、この異常と思える宿命に対して不安を抱かない訳が無い。
「やっぱり、外に出たいよな……?」
「……はい、そうですね」
「ごめん、当たり前の事を聞いたな」
「いいえ、心配して下さるのですね。……でも、大丈夫です」
心配そうに俺を見ていた彼女は、眼を細めて静かに笑った。
「私は……将来の事はどうだっていいんです。私は今、とても幸せです。この今が有れば、私はいいのです。今後何があろうと私を支えてくれるでしょう。無人君を……ずっと心の中で感じる事が出来るなら、永遠にここで生きてもいい」
「いや、生きていたい。」
手をそれはもう大切そうに胸に当てて、その幸せな思い出が決して溢れたりしないように、心を塞いでいる。
記憶の無い彼女にとって俺は、初めてにして唯一関係を持てた人間だ。そんな俺が彼女の心を独り占めにしている。ある種の欲望が満たされる反面、俺は葛藤している。
彼女にはちゃんと明日を生きて欲しい。明日にはもっと素敵な事がある。外にはもっと美しい景色がある。
出来れば、それを俺と一緒に……
「凄く光栄な話だ」
彼女が微笑み、俺もそれに返した。
「神委市は山に囲まれた、一種の隠里のようになっていてな。山の向こうには、もっと沢山の建物や自然が広がっているんだ。人だ だって何百倍も多い。」
「素敵ですね」
「でも、今のお年寄りは神委市の外へ出る事を原則禁止にしている」
「ど、どうしてですか?」
「宗教上の問題かな。俗に土地神信仰って言われてるんだけど、詳しい事は中庭の祭殿か、図書室で分かると思う」
3つの校舎が平行するように並ぶ神委高校。その内の旧校舎と第2教室棟の間を丁度通りかかり、俺達はそこに顔を向ける。
そこには、園芸部のビニールハウスと花壇がある。中心には土地神様に祈りを捧げる小さな祭殿が設けられていた。
「俺を含む一部の生徒は、その信仰が邪魔をして一度も神委市を出た事が無いんだ」
彼女は眉を顰める、
「私と少し似ている……という事ですか」
「そうだね……だから、葵さん」
「は、はい! なんでしょうか?」
「俺が必ず……必ず葵さんを助けて見せるから! だから、その暁には……一緒に外の世界へ行って欲しい……」
彼女が脚を止め、眼を丸くしている。俺は歯を噛み締めて、彼女の返答を待った。少しの沈黙は、俺にとっては今までで最も長い時間となった。
彼女は相変わらず眼を丸くさせているが、徐々に潤いが増し、遂には涙が溢れ落ちた。
「は、はい……喜んで、同行させて下さい!」
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