大宮姉、やめられないとまらない
休日だった。夕方になって喉が渇いた僕は、自室を出てリビングに向かった。
リビングは薄暗かった。両親が出かけているのは知っていたけど、姉は出かけていないはずだ。隣の部屋がやけに静かだったから、てっきりリビングにでもいると思っていたけれど、部屋で何かに没頭しているのかもしれない。
リビングの電気をつけて、冷蔵庫のお茶をコップに注ぐ。一口飲んで振り返ると、リビングのソファにはうつぶせでクッションを挟んで寝転んでスマホをいじる姉の姿があった。
驚いてコップを落としそうになる。
「びっくりした。なんで電気もつけないの!?」
なかばキレ気味に言うと、姉は僕に向かって手を伸ばした。
「なっちゃん、助けて……」
さながらドラマで見る、死にそうになって手を伸ばして助けを求める人みたいだ。
「どうしたの? 足でもつった?」
「ちっがーうー」
僕の問いに、姉は不満げに言うとスマホの画面を僕に差し出してきた。
画面にあったのは漫画だった。おそらく同人誌と言われる類のものではないかと思う。描いてあるキャラクターの名前から、姉の持っている小説のものかと推測される。僕も前に読ませてもらったけど、かなりおもしろい小説だった。
二、三年前に十数年ぶりの本編の新刊が出ると言って、姉が狂喜乱舞していたことを思い出す。
「これが?」
「新刊が出ない……」
姉は死の間際に犯人の名前を絞り出すみたいに呟いた。
「この漫画の?」
「原作の!」
僕は首を傾げた。「一番近くの本屋さん」が年々遠ざかっていることに危機感を感じている姉は、書店での購入を心がけているらしいのだが、休日だった発売日がひどい悪天候で買いに行くのを諦めて、休み明けに仕事帰りに書店に寄ったと言っていたときのエピソードがよみがえる。
書店に行った姉はシリーズの既刊本がずらりと並ぶ中、新刊が見つからず、売切とわかった瞬間、その場でスマホを出してネットでポチッとしたという。帰り際に新刊のポスターを恨めしく三度は見つめた、と言っていた。
到着予定が一週間以上先で、書店に先に入荷したら買ってしまおうかとじりじりしていたそうだ。書店で見かけるより先に家に届いたようで、小躍りしていたのを覚えている。
僕がそのことを指摘すると、
「それじゃなくてー、出るって言ってる短編集が出ないのー」
姉はもはや半ギレ気味だ。ずっと同じ体勢でいたのか体が痛いらしく、呻きながら体を起こした。ソファに座り直しながら、隣に座るように促してくる。
正直座ったら最後、逃げられないという危機感があったが、拒否すると別の危機が訪れそうなのでおとなしく姉の隣に座った。
「ずっと待ってるのにー、出ないー」
クッションに顔をうずめて、泣き(真似を)始める姉。僕は記憶を辿る。そういえば姉は短編集の刊行されるらしいと喜んでいたことも思い出した。その中の一編が新刊購入の特典で読めたと言ってまた狂喜乱舞していたり、短編集の発売が遅れるらしいと言ってうなだれていたり、時系列のわからない記憶がよみがえってくる。
それにしても、振り返れば振り返るほど、情緒不安定がすぎないか。いつものことだけど。
「つらい……。いったいいつまで待てばいいの? この不足した成分をどう補ったらいいの?」
こういうときの姉はたいてい、支離滅裂だ。でもおざなりに聞いていると拍車がかかるし、ますます饒舌になるので僕は一生懸命話を聞いた。聞いた話をまとめると、おおむね次のようである。
新刊を待ち焦がれている姉は、新刊情報が出ていないかと検索したらしい。そこでキャラクターの人気投票の結果を発見、ランキングとコメントを読み、わかるわかる、わたしもそこ好き、と共感の嵐。ああ、読みたい。読み返したい。でもシリーズは長い。
そこで二次創作の存在を思い出した姉。前に好きな絵と話の人がいた。探して漫画を読み出す姉。表示される関連作品を読み漁り始める姉。際限なく続く関連作品。やめられない。とまらない。
ーーと、そういうことらしい。
「ねぇなっちゃん、わたしはどうしたらいいの?」
「えっと、原作ちゃんと再読したほうが終わりがあるんじゃ……」
「なっちゃんは何もわかってない!」
姉が怖い。姉はいささか芝居かかった口調で、恋人を責める彼女みたいに僕に絡んでくる。面倒くさい。でももちろん、そんなことは言えない。
「あのとき新刊を読み始めたわたしは、あまりに覚えてなくて、新刊を読みつつもシリーズ既刊本の再読も進めた。どちらも止まらなかった、おもしろかったから。わたしはついに、新刊四冊までも再読を終えたわ。でも、できるならもう一巡りしたかった。おもしろかったから。でも堪えた、エンドレス再読祭になってしまうから。
短編集が出た日には、再び再読祭が始まるのは目に見えてるのに今読めと言うの? いったい何冊あると思ってるの!」
まくしたてるように言う姉。どうやら変なスイッチを押してしまったらしい。失敗だ。
「それに、なっちゃんもわかるでしょ? 遅々として進まない前半がつらいんだよー。苦しい思いばっかでさ。怒涛の後半が待ってるとはいえさ。
わたしはね、ほしいものだけ読みたいの。見たいものだけ見たいの。手軽に成分を摂取したいの。なんなら読んだことないものが読みたい。こんなのがあったらなに出会いたい、それが二次創作の醍醐味ではないか」
なんかスピーチが始まってしまった。原作では絡みのないキャラが会っていたらとか、あのシーンの後こんなことがあるんじゃないかとか、そういう妄想を叶えてくれるものなのだ、と姉は言う。
姉は僕に解決策など求めていないし、姉の熱が冷めるのを待つしかないということだ。僕にできるのは、すべきことは、このまま絡まれ続ける前に、退散することだ。できるだろうか。やるしかない。
こういうときは、話を変えるに限る。
「昨日作ったブラウニーあるけど食べる?」
「食べる! なになっちゃん大好き」
「じゃあ持ってくるね」
僕はさり気なくソファから離れることに成功した。
姉のマグカップに紅茶のティーバッグを入れてお湯を注いでから、冷蔵庫に入れておいたブラウニーを出した。昨日のうちに切っておいたブラウニーをお皿に出すと、少しガトーショコラみたいだった。僕は少し悩んでから、市販の生クリームをお皿の隅にちょっとだけ出した。
お皿にフォークを置いて、マグカップからティーバッグを取り出した。おうちおやつセットができたことに満足しながら、お盆を使うのは面倒なので、そのまま姉のもとに運んだ。
テーブルの上に置くと、姉はカフェみたいと喜んでくれる。
「今日のはくるみとオレンジピールとチョコチップ入れてみた」
いただきます、と一口食べると
「うまー。幸せ。なっちゃん神ー」
褒め上手の姉はおいしいの言葉を忘れない。でもそれ以上に、幸せそうに食べてくれるのでおいしいが伝わってくる。僕はそれが嬉しい。
「冷蔵庫にまだ入ってるから食べてね。あっためて食べてもおいしいと思うよ」
「やったー、ありがとう」
姉は喜び上手でもある。もぐもしながら、おいしいおいしいと繰り返す。
姉の幸せそうな顔を見られたので、僕はさり気なく後ずさる。姉が気づかないようなので、安心して背を向けてリビングを出た。
姉を悩ますエンドレスループから、少なくとも食べている間は忘れられるだろう。どのみち飽きっぽい姉のことだ。たとえ再び無限地獄がやってきても、そのうち飽きるだろう。
それでも、姉が少しでも長い間、忘れていられますように。そして僕が巻き込まれませんように。そして、念願の新刊が早く出ますように。僕は願うのだった。
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