第490話

 鉄の匂いが鼻を擽る。

 血を流しても浴びてもいないが、空間に満ちた血臭が服に染みついて匂い立つ。


 熱い吐息が漏れる。

 牙を剥き出しに体温と憎悪を一緒に吐き出して、尚も胸の奥が熱い。

 

 人間であることに拘っていたけれど、こうしていると、人間も動物の一種に過ぎないことを思い知る。


 散らばった人体パーツ

 ぶちまけられた内容物血と臓腑


 潮の香り。炭の匂い。


 二階建ての廃墟は、その内部を地獄に変えた。


 家具の無い、寝袋と本が散らばった居間に三人。

 台所へ逃げた奴、寝室に立てこもった奴をそれぞれ。


 子供部屋に寝かされていた重傷者に止めを刺して、合計六人。


 なるべく凄惨に。なるべく苦しめて。

 その原則を、フィリップは腕一本を封じられ重石を付けられた状態でも破らなかった。


 幸運に恵まれたのが、それを可能にした大きな理由だ。

 ここに居たのは単なる宗教家。一昨日遭遇した捨て身の剣士などもおらず、戦闘員不在の拠点だったからだ。でなければ、走るときにバランスを取るのも苦労する──拍奪どころかただの全力疾走でさえフルスペックを発揮できない状態で、六人もの人間を一方的に殺すことは出来なかっただろう。


 フィリップはそれから十分ほど、玄関を入ってすぐのところにある、二階へ続く階段に腰掛けて待っていた。

 何を、誰をなど言うまでもない。


 「おかえり。見回りかな、ご苦労様」


 玄関扉を開け、鼻を突く異臭と予期せぬ出迎えに驚いて硬直したように見えるのは、フィリップの待ち人。一昨日殺し切れなかった、十人長の四番セルベッド。


 彼女はフードの下で、僅かに目を見開いたようだった。


 「……まあ入りなよ。この辺りは無人だけど、アズール・ファミリーの影響力にも限界がある。“言い訳”が通じるのはあと十分そこらだ」


 剣戟音は鳴っていない。抵抗も、殆どさせていない。

 だが悲鳴や命乞い、罵倒、言葉の体を為さない呻きなんかは盛大に上がった。もっとちゃんとした屋敷や地下室ならともかく、ボロ屋の防音機能で防げる程度ではない。


 普通なら今頃、怯え切った近隣住民が帝都を警邏する軍隊か、上空を飛ぶ騎竜魔導士を連れて様子を見に来ている頃合いだ。


 そうなっていないのは、この場所を教えてくれたジャックたちアズール・ファミリーによって、一帯の封鎖と人払いが為されているからだった。


 「……」


 少女は無言のまま玄関を潜り、そっと扉を閉める。

 虐殺者に対する恐怖は見られなかったが、それはあの触手の威力によるものではなく、もっと馴染み深い理由のように見えた。


 「あぁ、やっぱり従うのか」


 機械的に動いた少女に、フィリップは彼女同様の無頓着さで近づく。

 剣は抜いていないし、いつでも動けるよう身構えてもいない。眼前の劣等存在が自分の敵足り得るなどと、論理はともかく直感が思えない。……その冷笑は、彼女とは共通していない。


 「僕はほんの今朝まで、君を惨殺すべきだと思っていた。四肢を捥ぎ、臓腑を抉り、のたうち回って死ぬ様を見届ける必要があると」


 フードを脱がせる。

 その手つきは汚物を処理するような最小限の接触を心掛けるものだったが、憎悪に満ちた乱雑さは無かった。薄汚れたローブに触れること以上の忌避感を宿していないどころか、それを纏う者に対しての気遣いすら滲ませている。


 露になったその下には、鏡があった。

 顔立ちは似ていない。だが目が、その奥にある光が、二人が似ているという印象を抱かせる。


 見つめ返してくる青い瞳に、理性の光はない。フィリップが鏡を覗けばそこにある、深い絶望と諦観の淀みだ。


 「君に植え付けられたものについて、僕はそのから聞いた。君に聞くことは何もない。君に語りたいことは山のようにあるけれど、君にはそれも苦痛だろう」


 何も映さない深海のような瞳から目を背けることなく、フィリップは優しく、何より冷静に語り掛ける。

 その声や所作に、カルト相手のときの激情は無い。


 「君が望むのなら、僕は君に速やかな死を与えてあげよう。一撃で心臓を貫くか、首を落とすことを約束する。君の死は確実で迅速で、そして安らかだ」

 「……」


 言葉を切っても、少女は応じる素振りを見せない。

 受け入れることも、拒絶することも無く、ただじっとフィリップを見つめるばかりだ。


 その無反応に、フィリップは「あぁ」と理解を示すように笑顔を作った。


 「あぁ、ごめん。今のは不適切だった。つまり──君が無抵抗でいるのなら、だ」


 フィリップ一貫して勝ち誇った様子や嗜虐心を見せず、同情的で穏やかな笑みのまま続ける。


 「君に、およそ自由意思と呼べるものが残っていないのは分かっているからね」


 

 ◇



 「──気に入らないな」


 宮殿の一室に呼び出され、人間大の化身を象らされ、その神威を極限に抑え込むよう命じられた邪悪の皇太子は、開口一番そう言った。


 それはフィリップがアズール・ファミリーと接触し、カルトのアジトを一つ、地獄に叩き込むその日の朝のことだ。

 ノアはいよいよ始まる魔王対策会議に出席するとのことで不在であり、つまりルキアとステラが遊びに来ることも無いと確信したフィリップは、かねてより必要性を感じていた“確認”のためにハスターを呼び出した。


 廊下の立哨には「入るな、覗くな、探るな」と伝えたものの、彼は一応「吸血鬼の召喚者」の監視役だ。客人扱いだから無碍にはされないと思うが、好奇心や職務への忠実さで警告を無視する可能性もある。

 が、彼はフィリップにとって顔を知っているだけの他人であり、何が何でも守りたい相手ではなかった。


 広く絢爛な室内で怒れる邪神と二人きり。

 そんな状況にあって、フィリップはむっと眉根を寄せた。それこそ、気に入らないとでも言うように。


 「……それほど嫌なことを頼んだつもりはないし、これから頼むつもりもないんですけど」

 「君のことじゃないとも、魔王の寵児よ。私は君の意向に文句をつけるほど愚かでもなければ、君が使い勝手の悪い従僕は求めていないと察せられないほど無頓着でもない」


 白い仮面を付けたヒトガタは、劣等種の言語に合わせて語ってくれる。

 溜息まで吐いて、分かりやすい感情表現を心掛けてくれるのがありがたかった。いつぞやのテレパシーのような意思疎通では、微妙に汲み取りにくかった部分が鮮明化している。


 尤も、それが単なる演技である可能性は十分にあるけれど。


 「私が気に入らない相手は、むしろ君と同じだ。琥珀の長わたしを信仰する子らに、私は寛大だ。幾度となく智慧を与え、救いを与え、我が居城へ迎え入れることもあった。……意外そうだが、もう少し考えれば同意してくれるはずだ。君にも、立ち上がろうと奮闘する赤子を応援するくらいの心はあるだろう?」

 「それはまあ。けど、それなら『琥珀の眷属』も庇護対象なのでは?」


 正直ちょっと怪しいが、本題ではないので無視することにする。

 シルヴァのこともあるし、小さくてかわいらしいモノを愛でるくらいの正常性は残っているはずだ。たぶん。


 「黄衣の王わたし琥珀の長わたしも、篤き信仰の徒を可愛がることと、我が仇敵に抗わんとする者に手を貸すくらいは吝かでもない。力と智慧のどちらを求めているのか、君たちの使う劣等言語では今一つ伝わりにくいが、求めの宛先が違えば分かりやすい」


 ふむ、とフィリップは小さく頷く。

 しかしハスターは、まだフィリップの質問に答えていない。


 視線でそれを促すと、自嘲と共に従僕を名乗る邪神は再び溜息を吐いた。


 「……私が手を差し伸べるのは、赤子程度には物の分かる相手だけということだ。言っておくが、私の呼び名を一方的に規定し、冗談のような呼びかけにのは君くらいのものだよ。魔王の寵児」


 恨みがましい声に、フィリップは小さく肩を竦めた。

 人間の発声器官で詠唱できる祝詞の限界がアレなのだから、今更グチグチ言わないで欲しいと。


 「アンバー・ファミリアとやらは、琥珀の長を求めながら力を欲している。智慧が力足り得ないと言うつもりはないが、それは私の決めた法則から外れ──」

 「上位者が己が決定を覆してやる義理は無い、か」


 正しく力を求めるのならば力を、正しく智慧を求めるのであれば智慧を。

 そして──正しく求められない程度の蒙昧には嘲笑と侮蔑を、或いは無関心を返すのがハスターだ。程度によっては、それが自分への求めだと気付かない場合さえある。


 「故に、君の懸念を、私は否定しよう。アンバー・ファミリアは、そもそも私の庇護を受けるに値しない」


 最大の疑問であり問題であった部分は、そうして簡潔に否定された。


 フィリップは安堵したように深く息を吐き、座っていたベッドを立って椅子に移った。

 「座る?」と身振りと表情で尋ねつつ対面を示してみるも、無言の苦笑だけが返ってきた。尤も、白い仮面に表情など無いけれど。


 「それから、「気に入らない」ことに関して、君に忠告しておこうか。君の言う敵対者が使っているのは私の触手であり、しかし既に私から抜け落ちたものだ。つまり私の意識下には無く、君を害したとしても何ら不思議はないのだと」


 あぁ、とフィリップはもう一つの疑問を思い出す。

 敵対者──四番セルベッドとやらが使っていた、神威は無いのにハスターの気配がした、あの触手。


 淡々と、と言うには気分を害しているのが分かる声で明かされたその正体を聞き、フィリップは触手で構成されたヒトガタをじろじろと見つめた。


 「……抜け毛みたいなものですか?」

 「近しい。代謝という生物的機能を、私の大半の化身は備えていない。しかし君にも覚えがあるだろうが、この化身を象った私が別な肉体に意識を移すとき、元の身体は基本、捨て置く」


 いや知らないが、と眉根を寄せるフィリップ。

 ハスターがいつどこで何をしたかなんて、智慧を与えてくれたシュブ=ニグラスが一々関知しているわけがないだろう。


 若干の侮蔑さえ抱きながらそんなことを考えて、フィリップは「覚え」に思い至った。


 以前、ハスターは座天使長ラジエルの身体を乗っ取っている。

 その時には確かに、元の肉体はバラバラの触手になり、そしてそのままだった。


 ハスターはどこかで同じことをしたのだろう。

 この星のどこかか、或いは星外から持ち込まれたものという可能性もあるが、過去に於いてあの一例だけではないらしい。口ぶりからすると、それなりの回数があるのか。


 「アンバー・ファミリアはその残骸を手に入れ、人間に移植して運用しているらしい。私が捨てたモノを誰がどう使おうが、知ったことではないが──まあ、こんな事態だ。君が掃除をしろと言うのであれば、私は無論、従おう」


 面倒臭そうに、しかし諦観を滲ませてハスターは言う。

 フィリップがここで「やれ」と言えば、この町のカルトは速やかに浄化されることだろう。フィリップが自分の手で殺すにしても、「僕の前に並べろ」と言えば済む。


 しかし、フィリップは眉を顰めて頭を振った。


 「いや、それはいいです。まだそこまで逼迫してないですからね。……でも確か、あいつは「私の中の神様が言っている」って、まるで意思があるみたいに言っていましたよ?」

 「悪いが私も全知ではない。私が確信を持って言えるのは、抜け毛の行く先になど一切気を払っていなかったことだけだが……自己意識ではなく細胞が、君を守護する外神の気配を感じ取っていたとしても、私は特に不思議ではない」


 全知ではないと言ってはいるが、その推測はフィリップを納得させるには十分な論理性を持っていた。本当に正しいかどうかはともかく、正しそうではある。


 フィリップは「ふーん……」と適当な相槌を打ちつつ、次の段階──ではどうやって殺すか、という部分に思考の焦点を当てた。


 「残念、と慰めればいいのかな」


 黙考の姿勢になったフィリップに、表情の読めない邪神が声を掛ける。

 「なんでですか?」と問い返す声に思索を邪魔されたこと以上の棘があったのは、フィリップではアレを殺せないという意味だと思ったからだ。


 他の意味を探る前に、ハスターは出来の悪い生徒に向ける微苦笑のような空気を纏った。


 「私がほんの一部でも混ざったのなら、人類の精神程度は容易に破壊される。……君からすれば疑わしい程度に、私は劣等だろう。だがね、私からすると何ら疑わしくない程度に、ヒトという生き物は低劣なのだよ」

 「あぁ……あれは廃人化してたのか。確かに納得できる部分はあるし、拷問しても楽しくなさそうだ」


 お前は劣等種だ──そう言われても、フィリップは何ら気に留めない。

 それは疑いようのない事実だったし、特に心に刺さる内容でもなかったのだから当然だ。


 そんなことはどうでもよく、重要なのは、語られた“残念な”内容の方だ。


 廃人は拷問しても楽しくない。もう壊れているのだから壊し甲斐がないとも言える。

 ただの駆除や単なる殺し合いなら、理性を失くした相手は獲りやすい部類だ。しかしこれは効率重視の殺戮ではなく、感情任せの虐殺。悲鳴も上げられない的には、あまり興味をそそられない。


 まあカルトである以上殺すけれど。


 淡々とそう考えるフィリップだったが、ハスターの考えではもう少し“残念”だった。


 「まあ培地の年齢を見るに、そもそも狂っていたようだがね。……違うのかい?」


 怪訝そうに目を細めたフィリップに、白い仮面が骨格の無い動きで首を傾げる。


 「だとしたら恥ずかしい勘違いだ、忘れて……はいはい、御意のままに」


 まだ言い終えていなかったハスターだが、フィリップがふざけるなと言いたげに眉根を寄せるや否や、呆れたような声で撤回を取りやめた。


 「私はヒトの社会や信仰に疎いと前置きしておくが……十歳の幼体は、琥珀の長の叡智は勿論、黄衣の王の力を求めるにも幼すぎると思うのだが」

 「あぁ……! つまり、移植したから発狂したのではなく、発狂した人間に移植した……カルトに参加した時点で、既に狂っていた可能性が高い?」

 「さて、ね。そこまでは分かりかねる」


 無責任にも聞こえるハスターの言葉を、フィリップはもはや聞いていなかった。

 その代わり、思考が急速に回転し始める。


 十歳の少女が進んでカルトに堕ちる理由などない。

 いや、そもそも十歳そこらで“信仰”という言葉の意味を、はっきりと理解している方が稀だろう。


 聖人たるルキアやステラは家格故の教育もあって、物事を深く考えて理解していただろうが、フィリップのような一般人は違う。「そういうものだから」祈りを捧げて、「そういうものだから」神を信じている。

 そこに自分の意思や信条などはなく、習慣と常識が信仰を──信仰しているかのような振る舞いを再現する。


 そんな早くから信仰を違えるような事情があるとすれば、親がカルトか、そもそも常識を教える人間がいないかの二択だろう。 

 何か不幸があり天涯孤独になったのだとしても、教会へ行けば最低限度の生活は保障される。修道女として清貧の縛りを受けるか、発見次第処刑のカルトになるかの二択なら、誰だって前者を選ぶ。


 つまり彼女の状況は不本意なものであり──フィリップにも身に覚えのある理由で、そのクソッタレな泥沼に堕ちた可能性がある。高い、と言ってもいい。


 そしてもしそうなら、彼女は惨殺の対象ではなくなる。


 「……過去の君を救った気になりたいのか、その救済が君に訪れることを願ってのことなのか。それは知らないが──」

 「知らないなら──ハスター、知った口を利くのはやめてください。不愉快だ」


 フィリップは僅かに語気を荒げて邪神の言葉を遮る。


 白い仮面に表情などありはしないが、心なしか呆れているように感じられた。



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