第486話

 「はい。如何なさいましたか、フィリップ君」


 シャンデリアと燭台が照らす白亜の壁に、黄金の装飾。

 絢爛豪華な室内に外の夜闇が流れ込んだかのような、黒い影が立っている。


 ほんの一瞬前まではいなかった、カソック姿の男。ナイ神父は深々と一礼し、内心の嘲弄を敬意で隠した微笑みを向けた。


 「こ、これ、直せますか……?」


 フィリップは震える手を差し出す。

 広げた手の上には、白銀色の懐中時計が乗っている。


 歪に潰れ、ハンターケースを彩る宝石も幾つか外れている。ハンターケースは歪んだせいで開きもしない有様だ。


 端的に言って、壊れていた。


 いつ、どうして、という心当たりは一つしかない。瓦礫に打たれ、地面に引き倒されたときだ。


 あの一件でフィリップが負った傷は、前腕部の開放骨折だけではない。

 身体の前面に広範囲の打撲、左肩から腕にかけての擦過傷、肩部捻挫、左足に軽度の筋損傷。


 これまで負ってきた重傷ほどではないし、命に係わる怪我も無いが、全く平気とはとても言えない。フィリップはそんな状態だった。まあ足を痛めたのは瓦礫の接触とは無関係だが。


 ともかく、懐中時計は精密機械だ。その耐衝撃性は人体よりも低い。

 これまで幾度もの修羅場を共に潜ってきた──フィリップが被弾しても無傷でいた懐中時計だが、遂に、その幸運も尽きたようだ。


 「えぇ、勿論。造作もありませんとも」

 「助かった……。あ、ちゃんと手作業で、元の素材を使って、余計なことはせず元通りにしてくださいね」


 ナイ神父は平然と頷き、フィリップも半ば予期していた通りの答えに安堵する。


 しかし彼は、フィリップが差し出した時計をすぐには受け取らなかった。


 「ふむ。フィリップ君、「君の懇願に応じる気はない」と、以前に申し上げましたね」


 顎に手を遣り、ナイ神父は見定めるような目をする。

 フィリップはその視線を受けて不愉快そうに眉を顰めるが、言い募る前に湧き出た疑問が言葉を切り、首を傾げた。


 「……僕、懇願しましたか? いや確かに、殊更に強く命令した意識はないんですけど」

 「おや、しておられないと?」


 問われて、フィリップは不快感を示すように目を細める。


 知性体を操って文明さえ滅ぼすナイアーラトテップのことだ。人間の感情の機微にも精通しているだろうし、そもそも心を読むくらい造作も無い。質問なんかするまでもなく、答えを知っているだろう。


 「面倒臭いなあ。嫌なら「頼み方が私の好みと違うからヤダ」って素直に言えば……」


 言いかけて、言葉が切れる。

 別に、ナイアーラトテップの趣味嗜好気色悪さに今更思い至ったわけではない。そんなことはとうに知っている。


 しかし、その中にある矛盾に気付いたのは、たった今だった。


 「……ふと思ったんですけど、その「頼み方が気に入らないから嫌」って、従者を自称する者としてどうなんですか? 僕の心情がどうであれ、オーダーには速やかに従うべきでは?」

 「えぇ、仰る通りです。ですが、従者とはただ命令に従う人形ではいけません。主人の所作に間違いがあるのなら、叱責を覚悟でこれを正すのも従者の役目ですので」


 思い付きの指摘に返す言葉には、一片の淀みもない。

 フィリップがその在り方を肯定すると知っているのか、気紛れに拒絶して処罰を求めても、それはそれで構わないのか。


 恐らく後者なのだろうし、それも気色悪いけれど。まあ、ナイアーラトテップの面倒臭さは今に始まったことではない。


 「なるほど。うん、じゃあまあ、それはいいとして。で?」


 フィリップは端的に、そして無自覚に、ぞんざいに尋ねる。


 先の質問の答えがまだ返されていない。

 従者の在り様については個人の主観だが、「叱責覚悟で主人の振る舞いを矯正する」というのは、正しい在り方の一つとして頷ける。しかし問われて答えないのは、また別の話だ。


 「ふふ。失礼いたしました、フィリップ君。遊びが過ぎましたね。懐中時計をお預かり致します」

 「……うん」


 “汝、主を試すこと勿れ”──なんて、ナイ神父の化身恰好につられて思い出したが、それだとフィリップが神の立ち位置になるので黙っておく。天地万物に跪かれたとしても、神になどなりたくはないのだから。


 尤も、珍しくニンマリと感情の透ける笑顔を浮かべたナイ神父の顔を見れば、言葉にせずとも筒抜けなのは察せられたが。


 「明日の朝、お目覚めになるまでには仕上げます」

 「……任せましたよ」


 フィリップは懐中時計を手渡し、再びベッドに転がる。

 そして土や血で汚れたシャツのままであること、シャワーもしていないことを頭の片隅で意識しながらも、睡魔の急襲にあっけなく敗れた。



 ◇



 翌朝。

 目を覚ましたフィリップは左手の拘束ギプスによる動作制限に戸惑いつつ、ベッドの上で体を起こす。


 特に探すことも無く、ベッドのヘッドボード上に置かれた白銀色の輝きに目が留まり、素早く手を伸ばした。


 歪みの取れた綺麗な円形に、ハンターケースの彫刻と十二の宝石グリーンスピネル。ハンターケースを開くと、秒針が静かに、そして確かに時を刻んでいる。


 「おぉ、本当に直ってる。妖精さんも驚きの仕事ぶりだ……」


 表示されている時間が昼前なのは、調整が狂っているのだろうか。

 そんな甘い考えは、部屋に掛かった機械式時計を見て萎み、太陽の位置を確認して完全に潰えた。


 「……あの話は靴職人だっけ? 時計屋だっけ?」


 結構な寝坊という現実から目を背けるように考える。


 と、そのとき、部屋の扉がノックされた。

 控えめに、ではなく、普通に。部屋の主が寝起きであることを想定しろと言う方が無茶なので、それは別に構わない。


 ただ、


 「カーター様、お客様がお越しになられています」


 告げられた用事は、多少問題だった。


 「こんな朝から? いやもうほぼ朝ではないけど……誰ですか?」

 「逆に聞くが、私たち以外の誰だと思う? というか、まさか寝起きか?」


 不摂生を咎める声に、フィリップは焦燥と納得を同時に抱いた。


 そりゃあ、まあ、この宮殿まで尋ねてくるような客の心当たりはそこしかない。部屋を訪れるだけならノアかもしれないが、彼女は部屋外の立哨にノックさせるなんて、お行儀の良い真似はしない。


 「……はい。なんならこれからシャワーでもしようかと。まあ、中で待っててください」

 「……はあ。分かった、入るぞ」


 眠そうな声に溜息を吐き、柄にもなく旅行先で不摂生夜更かしをしたらしい子供に向けるに相応しい、揶揄うような窘めるような声。

 立哨の開けた扉を潜るまでは声色通りの笑みを浮かべていたステラは、部屋に一歩踏み入った途端、愕然と目を見開いて硬直した。


 後ろを歩いていたルキアも、全くの同時に。

 おかげで立ち止まったステラに衝突することは無かったものの、ただぶつかっただけの方が、受けた衝撃はずっと小さかっただろう。


 「お前……!」

 「フィリップ、それ、どうしたの……!?」


 目を瞠る先、フィリップは片手でボタンを外そうと試みて、お高いシャツの脱ぎにくさに苛立っている。


 左手にギプス。

 捻挫した肩を労わる三角巾。


 段々と開けていく胸元に、腹に見える打撲痕と擦過傷。


 赤黒い傷と、不自然に白い治療痕のコントラスト。汗の臭いを掻き消す消毒薬の香りと、僅かに漂う血の匂い。


 一見して、フィリップは満身創痍だった。


 しかしフィリップ当人にしてみれば、左手のギプス以外は些事だ。

 鎮痛剤が切れるとあちこち痛むのだが、今はとにかく行動を制限する上に重くて暑苦しいギプスが邪魔で仕方なく、そこ以外に意識が向かない。


 故にフィリップは、二人の驚愕の宛先も、最も目に付く、そして最も深手の左手だと思った。


 「え? あぁ、昨日ちょっと、骨が出て……」


 簡単に言うと、フィリップはシャツを噛み、口と右手でボタンを外し始めた。

 フィリップも怪我をした当初……いや気付いた当初は大層焦ったが、処置を終えた今では、拘束の鬱陶しさが何よりも強い。


 あと一週間。

 ミナが安全に呼べるようになるまでの辛抱だ。


 そんな風に、フィリップは自身の重傷をすら客観的に評して脇に置いている。尤も、痛みと不便さが我慢の限界を迎えるまでのことだと、それも自覚しているけれど。


 しかし、フィリップにとっては昨夜のうちに片の付いたことであっても、二人にとってはそうではない。


 「?」


 骨折しているのは見れば分かるが、骨が出たそこまでとは思わなかったステラが呟く。

 彼女にしては珍しい無意味な反復に、フィリップは可笑しそうに口元を綻ばせた。


 「……大丈夫なの? 他に怪我は? いえ、そもそもどうして──」


 ルキアがステラの横を通り抜け、フィリップのすぐ傍で止まる。


 彼女の手はフィリップに触れようとしては離れてを繰り返し、所在なさげだ。

 傷に触れずとも痛みを与えるかもしれないという現実的な懸念と、脆いものに触れ壊してしまうことへの無意識的な恐怖と忌避感。今のフィリップの姿は、それらを強烈に抱かせるものだった。


 ルキアの動きもフィリップには可笑しく思えて、少しだけ笑いながらその手を取る。


 手を握り、胸元へ誘う。


 「大丈夫ですよ。ちゃんと生きて……って言うと、重傷っぽく聞こえますね。左手以外は、全然平気ですから」


 寝起きで緩慢な心臓の鼓動を、温かな掌へ伝える。

 ただそれだけのことで、ルキアは幾分か冷静さを取り戻した。


 「落ち着け、ルキフェリア。見た目は派手だが、こいつの安穏とした顔を見れば、そう重篤な傷でないことは分かるだろう」


 顎に手を遣り、静かに──むっつりと、ステラは言った。

 その顔や声から、フィリップは良くない感情を汲み取る。不都合というか、怖いというか。不思議だ。


 「な、なんか怒ってますか?」


 怒られるようなことをした記憶は──ある。

 というか、現在進行形でしている。


 シャワーを浴びるなら、脱衣所に行ってから服を脱げという話だ。

 ルキアとステラが異性であることを抜きにしても、それは単純なマナーと品格の話で、ルキアとステラのような育ちの良い人間からすると眉を顰めるところだった。


 すみません、と肩を落とし、シャツの前を合わせる。ボタンを留めるのも再び外すのも面倒臭いので、合わせるだけだ。


 「怒る? ……少しな。それで?」


 それで? とステラの言葉を繰り返し、首を傾げる。

 流石に言葉が足りない自覚はあったのか、彼女は小さく肩を竦めて言葉を継いだ。


 「誰にやられた? 報復は済ませたのか? お前に限って、狩り立てたカルトに手傷を負わされたなんてことはないだろう?」


 空気が一変する。

 フィリップの容態を確認するまでは鳴りを潜めていた殺気が、憂いが晴れ、解き放たれたのだ。


 ルキアも、ステラも、大切な友人を傷つけられて黙っているほどお上品な性格はしていない。


 味方を慮る時間は、もう過ぎた。

 ここからは、敵を甚振る時間だ。


 報復を。

 友人の身体に刻まれた、見るも痛々しい傷の返報を。


 謝罪は不要。懺悔も不要。

 許しを与える余地はない。その道は、フィリップの血を以て潰えた。


 そんな雰囲気を漂わせる二人に、流石のフィリップも狼狽える。

 意外さはない。自分がルキアに大切にされていることは分かっているし、フィリップだって、ステラが片腕を折られたと聞いたら、彼女のようになる。まずは安否確認、次は報復だ。


 しかし、フィリップの傷は「つけられた」ものではないし、腕も「折られた」のではない。


 「誰に、というか……。事故で?」

 「詳しく話せ。一から十まで、全て。情報の要不要は私が判断する」

 「は、はい!」


 強い催促──勧告と言ってもいいような口調に、フィリップの背筋がしゃんと伸びた。





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