第485話
──臭い、と思った。
木と砂と埃の混ざり合った乾いた臭気が喉を刺し、反射的に咳が出る。
その咳の音で、フィリップの意識は急激に浮上した。
「っ!」
不随意に、身体が一度だけ大きく痙攣する。
自分がうつ伏せになっていることと、右手に龍貶しを握り締めていることを自覚すると、フィリップは一先ず自身の生存を確信して大きく息を吐き。
「うわっ!? ぺっ、ぺっ!」
顔の周りに積もっていた砂塵が舞い上がり、目や口に飛び込んできた。
慌てて立ち上がろうとしたが、しかし、身体が妙に動かしづらい。
顔を回して状況を確認すると、左腕が巨大な瓦礫──自分で斬った巨石の下敷きになっているのが分かった。
「え……」
痛みは無い。
潰れてはいないのだろうが、引っ張っても抜けそうにない。引っかかっているようだ。
「さい──」
「お、お兄ちゃん、大丈夫!? しっかりして!!」
最悪だ、と呟きかけたフィリップ。
しかし、すぐ傍で聞こえた、今にも泣き出しそうな涙声に、状況は最悪と言うほどではないと思い直した。
寝転がったまま首を回すと、フィリップが助けた少年が瓦礫を持ち上げようと奮闘しているのが目に入る。
良かった。
切断した瓦礫は、フィリップより体格の小さな少年が無事でいられる程度の隙間を作って落ちたようだ。フィリップの左腕には当たったようだが。
それでもバイタルゾーンは無事だし、意識を失っていたのは地面に叩き付けられた衝撃によるものらしい。
「はぁ──、っ、げほっ! バカか僕は……」
助けたかった相手の無事に、フィリップは思わず深々とした安堵の息を吐き、また砂塵に襲われて咳き込んだ。
顔を動かし、耳を澄ませて周囲の状況を探る。
あちこちから怒鳴り声が聞こえるが、悲鳴や破壊音はない。町並みは部分的に大きく損壊しており、幾つか救助活動が行われている場所も見えたが、あの触手も、黄土色のローブも見当たらない。
「くそ……」
また取り逃がした。
同じカルトを、二度も。
普段なら舌打ちでも漏らしてしまいそうな失態だが、どういうわけか、今はそんな気分ではなかった。
「まぁ、いいか……。君、怪我は?」
「ぼ、ぼくはお兄ちゃんが守ってくれたから……! それより、お兄ちゃんの手が……!」
何百キロあるのかも分からない巨石を懸命に動かそうとする少年。
持ち上げようとしたり、押し退けようとしたり、小さく砕こうとしたりと懸命に試行錯誤しているが、努力が結実する様子はない。
そりゃあそうだ。
彼はまだ10歳くらいで、見た目にも特に鍛えられている様子はない。彼が持ち上げられる重さの瓦礫なら、不利な姿勢とはいえフィリップは自力で起き上がっている。
必死の、無駄な努力を眺めていたかったところだが、二人の下へまた別な声が近づいてきた。
「あ、あの、棒を持って来ました!」
少し苦労して首を回すと、杭のように太い木の棒を持った少女がいた。
奴隷の証である首輪を付けた、先刻、少年が身を挺して庇った獣人の少女だ。
二人は瓦礫の下に棒の先端を突き刺し、梃子の原理で動かそうと試みる。しかし──、
「あっ……!」
棒はみしりと嫌な音を立てて、支点から裂けるようにして折れてしまった。
「ど、どうしよう……!」
「お、大人の人を呼んできます!」
慌てた様子の子供たち。
奴隷の方が判断が早く的確なのは、仕事をする上で身についているからだろう。
フィリップは安穏とそんなことを考える。
抜け出す方法は幾つか思いついている。まあ自力では無理だが。
シルヴァを召喚して瓦礫の除去を試みるのは一案だが、森の外でそこまでの出力が見込めるかは不明だ。
一番確実なのはミナを呼ぶこと。
まあ問題は、彼女の側からすると王龍との訓練中にいきなり場所が変わるわけなので、勢い余って建物だの人間だのが斬られる可能性があること。寝転がっているフィリップも、特に安全だという確証はない。
一番の安定択は、誰かしらに帝城まで走って貰って、ルキアを呼んでくることだ。
彼女の重力魔術なら、家の破片どころか、家一棟だって持ち上げられる。
左腕が丸ごと瓦礫の下敷きになっているという状況だが、フィリップは至って平然としていた。
まあそのうちどうにかなるだろうという楽観的な考えは、意外なほど早く現実のものとなる。
「──いや、いい。退いてな」
ざく、と音を立てて、フィリップの目の前に木の柱が突き刺さる。
それはフィリップが驚いている間に、鋭く尖った先端部を瓦礫の下に滑り込ませ、今度こそ梃子の要領で瓦礫を持ち上げた。
「おっとと……」
フィリップは慌てて地面を転がって腕を引き抜き、立ち上がる。
誰が助けてくれたのかと視線を上げると、極太の柱を落として腕を振っている顔には見覚えがあった。
「……あれ? おじさん、確か……ジャック?」
アズール・ファミリーのメンバーで、アデラインの護衛役。黒いスーツ姿の偉丈夫、ジャックだ。
何故ここに、と思ったのも束の間、周りで救助や救護に勤しんでいる人々の半分くらいが、彼と似たような恰好をしているのに気が付いた。
しかもかなり手際が良い。
動きが統率されているし、まごついている一般市民を上手く使って連携している。
犯罪組織のくせに、というと、少し悪意が強いか。
犯罪組織ではあるが、同時に、帝都の住民の一人でもあるということだろう。
「さんを付けろ、クソガキ。……行くぞ」
「え? 何処に?」
呆けたことを言うフィリップに、ジャックは可笑しそうに口元を吊り上げた。
「医者だよ。腕、どう見ても折れてんだろ」
「え? ……えっ!?」
瓦礫の下敷きだった腕は、じわじわと痛んではいるものの、一見してそれほど重傷ではなかったはず。
まだしっかりと見分してはいなかったものの、視界に入った限りでは、ちょっと赤くなっているくらいだった。
しかし、いざ真っ直ぐに視線を向けてみると、「それほど重傷ではない」なんてとんでもない。ジャケットの袖が肩口から引き千切れて無くなっている時点で──腕が見えている時点で気付くべきだった。
前腕部の中ほどに関節が一つ増え、挙句骨が飛び出して覗いている。
赤かったのは、その開口部から溢れた血のせいだ。
「痛みがねぇのか? チッ、頭も打ってんな……」
「そうかも……? あ、でも意識したら痛くなってきたかも。っていうか滅茶苦茶痛い!!」
瓦礫の下敷きになっていた時分には平然としていたのに、解放されて、傷を見て漸く痛がり始めたフィリップ。
認識が身体に作用する、なんてのは偽薬を知っていれば当たり前のことだが、こうまで顕著だと面白い。
「おう、良かったじゃねえか。痛みの記憶ってのは忘れにくいからな、ジジイになっても武勇伝として語れるぜ」
「いやどうでもいい! というか自慢にもならなくない!? そりゃ瓦礫に挟まれたら骨ぐらい折れるよ!」
「そう喚くなよ。男だろ?」
言いつつ、ジャックの顔は感心したような笑みの形だ。
前腕部開放骨折。泣いていないだけ上等というか、本当なら蹲って声も出せないくらい痛いはずだ。しかしフィリップは涙こそ浮かべているものの、ジャックの軽口に笑い返すくらいの余裕がある。
実のところフィリップにしてみれば、この程度の負傷には慣れっこだった。
龍の尾の一撃だの、ディアボリカの岩礫散弾だの、ミナの回し蹴りだのに比べれば、命に別条がないぶん軽傷とさえ言える。
ジャックの案内に従って、自分の足で病院まで歩くことも出来た。
「おおまかな状況は聞いたぜ。お前、あのガキ共を助けて怪我したんだってな」
道中、ジャックはそんなことを言う。
腕の痛みと、まだ続いている救護活動の喧騒で聞き取りにくかったが、フィリップは「まあね」と適当に応じた。
会話より腕の痛みと止血に集中していたフィリップの雑な返事に、ジャックは足を止める。
何をしているのかと訝るフィリップに、彼はきっちりとした硬い所作で頭を下げた。
「……ありがとう。この町に住む一人の人間として、礼を言わせてくれ」
フィリップは一瞬、目を瞠る。
「医者に連れてってやるってのにその態度か?」なんて説教かと身構えたのに、まさかお礼を言われるとは思わなかったからだ。
「うん、どういたしまして。で、足を止めないで貰っていいかな。こっちは腕の骨が出てるんだよ、肉と皮の外側に。そこそこの量の血と一緒に」
普通に歩いているし喋っているが、どう見ても重傷だ。
命に係わる部位の怪我ではないとはいえ、人体とは難儀なもので、失血死という死因がある。のんびり歩いて流した血の分だけ、着実に死が近づいてくるのは間違いない。
「ははは! 悪い悪い。あぁ、一応確認なんだが、医者で良いよな? 治療魔術の使える神官様のところまでは、ちと遠いんだが」
「腕が確かなら闇医者でもいいよ。腕が確かなら」
「実力主義か。なんとも殺し屋らしいこった」
昨日よりずっと友好的な態度のジャックに怪訝そうにしつつ、フィリップは彼の後をついて歩く。
彼は知らないようだが、治療魔術はどんな傷でも元通りにする万能の治癒ではない。
王国随一の治療魔術師であるステファンでさえ、骨亀裂以上の怪我は医学的アプローチで治すしかないのだから。
「まあ、応急手当してもらえればそれでいいよ」
どうせ、あと一週間くらいでミナの召喚制限が無くなる。そうしたら血を貰って治せばいい。
そんなことを考えて、フィリップは小さく肩を竦めてみせた。
それから移動や治療を経て、フィリップは日付も変わろうかという頃になって漸く、宮殿の自室に辿り着いた。
縄梯子を片手で登るか、疲れ切った足でクソ冗長な正規ルートを通るかという二択を迫られたのには参ったが、どうにか最後の関門を突破してベッドに倒れ込む。
──疲れた。とても。
一日歩き回って、殺せたカルトはたったの二人。しかも一番の大物には逃げられて、挙句左手は全治一か月。石膏のギプスはかなり重く、クイックドロウは暫く封印だ。しかも処方された鎮痛剤の効果が弱く、ちょっと走って血が廻っただけでズキズキと痛む。
だが──何故だろう。気分はそれほど落ち込んでいない。
処置するときに使った薬のせいだろうか。苛立つどころか、むしろ達成感と満足感が湧き出てくるよう。
今日はもう眠ろうと、ボロボロになったジャケットとベストを脱ぎ、そして。
「ほああぁぁぁぁ!?」
フィリップは生まれて初めてかもしれないくらいの、精神的ショックによる大絶叫を放った。
「ど、どうされました!?」
扉の前にいた兵士が血相を変えて飛び込んで初めに見たのは、ベッドの傍で床に膝を突き、がっくりと項垂れたフィリップだ。
服が脱ぎ掛けではあるが、処置されていない傷は見当たらないし、毒を盛られた様子もない。
警戒の中に一分の困惑を混ぜた兵士の方を向くのに、フィリップは数秒の時間を要した。
「……あ、な、なんでもないです。あの、えっと……暫く部屋の中を見ないで貰っていいですか?」
「はい? ……申し訳ありません、もう少し近くで喋っていただけませんか?」
「え? はあ……、あ、いや、侵入者とかじゃないです! 大丈夫です!」
剣に手を掛けて手招きし、部屋の中を油断なく眇める兵士に、フィリップは慌てて立ち上がり、「落ち着け」と身振りでも示す。
彼は部屋の中をぐるりと見回したあと、小さく安堵の息を吐いた。
「……そのようですね。……では、失礼します。廊下に居ますので、何かあればお呼びください」
「すみません。夜分にお騒がせしました……」
フィリップは作り笑いも出来ず、部屋を出て行く兵士を呆然とした表情のまま見送る。
廊下では向かいの部屋から飛び出してきたノアと、扉の前に戻った兵士が会話しているのが微かに聞こえた。
そして再び一人になると、何の躊躇いも無く──躊躇うだけの精神的余裕も無く、誰も居ない空間に呼び掛ける。
「──ナイアーラトテップ」
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