第460話

 「……あ、ミナ、魔王陣営の偉い人なんだっけ?」


 ほんの一瞬、「なんで魔王が復活したなんて知っているのだろう」と考えてしまったフィリップは、そう照れ笑いを浮かべた。

 彼女とフィリップが出会った──正確には引き合わされたのは、魔王の領地である暗黒大陸内のこと。ディアボリカがわざわざ人類領域から人間を拐かした理由の一つが、「ミナの結婚相手は魔王陣営の政治的理由によって、暗黒領外の者でなくてはならない」なんてふざけたものだったことも思い出す。


 「魔族」や「魔人」と呼ばれることもある高度な知性を有する魔物、吸血鬼や人狼や悪魔などを束ねた魔王の軍勢。

 ミナはその中で、人類領域にほど近い場所を守護する役割を帯びていた。本人も言っていた通り、ミナがしていたのは「防衛」ではあっても「統治」ではなく、政治的なことは配下に任せていたようだけれど。


 そんな重要なことを、フィリップは今になって思い出した──いや、その事実は覚えていたのだが、その重要性を全く意識していなかったのだと、ルキアにもミナにも分かる。フィリップはそんな声と顔をしていた。


 「そうね。“ヒト”ではないけれど。魔王領域である大陸南部地域、その最北端……分かりにくいわね。つまり魔王領と人類領の境界地帯を縄張りとする吸血鬼の棟梁。魔王城に至る道を阻む第一の壁、それが私だった」


 苦笑交じりに語るミナに、フィリップは何日か前に馬車の中でした会話と、その時に生じて、結局聞き損ねた疑問を思い出す。


 「……そういえば魔王ってさ、ミナより強いの?」


 面倒を嫌うミナが、成り行きとはいえ魔王に傅いた。

 それはつまり、配下に加わることを拒否して魔王を殺すことよりも、軍門に下ることの方が──吸血鬼陣営の統治者になることの方が面倒ではなかったということだ。


 悪魔の大首魁とされる魔王に、果たして魔剣『美徳』の断罪攻撃が通用するのかという問題はあるが、武装を抜きにしてもミナの戦闘能力は破格だ。ルキアやステラでさえ、彼女の間合いで殺し合いをするなら不意討ちが前提になるほどに。


 そもそもミナは他人に従属するタイプではない。いや、他人に価値を感じないとすら言える。

 フィリップのように自他の区別なく無価値なのではなく、ルキアやステラと同じ「他の全てが弱すぎる」という、孤独感にも似た価値観ではあるけれど。


 しかし彼女には、出会った時から一貫して強者と認める存在がいる。


 「えぇ、強いわね。というか、私の知る限り、本体を倒せるとしたら師くらいのものよ」


 ミナの剣術の師匠。帝国の山岳地帯に棲むという、剣師龍ヘラクレス。

 「可能性を実現する剣技」をはじめとした常識外の剣術を作り上げ、弟子を取って技術を継承しているという規格外の王龍。ミナですら10000戦して2,3回勝てるかどうかという、とびきりの化け物。


 ……しかし、魔王がその域だとしたら、辻褄の合わないことがある。


 そんなレベルの相手は、聖痕者と勇者の連合パーティーなんかでどうにかできるものではない。

 仮に勇者が持つという聖剣が存在格の隔絶を破壊できるほどの業物、あの魔剣『ヴォイドキャリア』に並ぶ武器なら……なんて仮定も立たないほど、戦力差は圧倒的だ。


 そこまで考えて、フィリップはミナの言葉に限定的なニュアンスがあったことに気が付いた。 


 「本体?」


 まるで魔王が分身や化身を持っているかのような言い方に、フィリップだけでなくルキアとアリアも不思議そうにしている。


 史実を元とした英雄譚も、実際に魔王と戦った学院長も、魔王は巨人のような悪魔だと語っていた。

 漆黒の身体と山羊のような角を持ち、豪奢な鎧と大業物の魔剣で武装し、聖痕者と撃ち合うほどの魔術能力すら持ち合わせた悪魔の王だと。


 聖典の中では漆黒の蛇や美しい天使の姿が語られることもあるが、それが本当に魔王なのか、或いは魔王の遣わした使い魔や配下のような存在なのかは判然としていない。神学者や歴史学者の中でも意見が分かれている。


 「きみ、偶に変に疎いわね。魔王の本体──つまり、七の頭と十の角、七の王冠を持つ龍、魔王龍サタンに決まっているでしょう?」

 「……ん?」


 私は吸血鬼できみは人間でしょう? とでも言うように、それがさも当然であるかのように、ミナは言った。

 しかしフィリップもルキアもアリアも、誰も、言葉の内容を即座に理解できないでいる。


 「魔王って龍なの?」

 「そうよ。美しい堕天使のような姿、巨大な悪魔のような姿も持っているけれど、アレの真体は龍。それも数十万年の存在歴を持つ、ね。──師はアレのことを、光を齎したものプロメテウスと呼んでいたわ」


 沈黙。

 辛うじて疑問を口に出せたフィリップも、先ほどから驚愕のあまり口元を隠して放心しているルキアとアリアも、一言も発さずにいる。


 人類陣営を惑わす偽情報……では、ないだろう。ミナはそんなまだるっこしいことをするタイプではないし、今の彼女は魔王陣営とは関係が無い、ただの吸血鬼だ。


 つまり本当に、魔王は龍だということになる。

 古い壁画に歴史が記され始めてからの数万年、人類が戦ってきた魔王は、ただの化身でしかなかったということになる。


 ただの化身に、時には人口を半分にまで減らされ、当代最強の戦士や魔術師を動員し、死力を尽くして封印して。その一挙一動に怯え、戦局の動向に一喜一憂していたということになってしまう。


 「……どうしたの?」


 と怪訝そうなミナに、フィリップは薄い笑みを浮かべた。苦笑の色が濃い、自嘲の笑みを。


 今のは驚くようなことではなかった。

 そうだった。……人間は、存外に無知な生き物だ。フィリップが知っていることの何割が正しく、それが世を満たす事実事象、森羅万象の何割を──何滴を網羅しているのか。


 思わず「そんなの聞いたことが無い」なんて……愉快なことを口走るところだった。


 「……今ね、ミナ。人類側が持ってる魔王の情報が、多分、根底から覆ったよ」

 「……アリア、屋敷に戻って、ステラに手紙を出して。今の情報をそのまま伝えなさい」


 既に価値観の崩壊を経験した二人が、アリアに先んじて放心状態から復帰する。

 常人の数倍の思考速度を持つルキアより早かったフィリップが凄いのか、世界の見え方すら一変するほどの価値観崩壊を過去に経験したフィリップに、一秒程度しか遅れなかったルキアが凄いのか。


 「まあそういうこともあるだろう」なんて、半ば慣れてさえいる二人とは違い、主人の命令を受け即座に再起動したアリアが、実は一番凄いのかもしれない。


 「しかし、それではお嬢様の護衛が」

 「貴女の足ならそう時間もかからないでしょう。魔王の正体なんて、ことここに至っては些事よ。アリア、状況を理解なさい」


 護衛が主人の傍を離れるのがどれほど勇気がいることか、フィリップには想像しか出来ない。

 ルキアがアリアより強く、護衛などなくとも自衛できることは、この場合、何の慰めにもならない。彼女が襲撃者に対して自ら対応した時点で、アリアの任務は失敗と言ってもいいのだから。


 しかし、彼女にもミナがいま語った内容の重要性は分かる。


 魔王の正体は、この際、然したる問題ではない。

 それが化身だろうと本体だろうと、封印して魔王の軍勢の動きが止まるなら──人類領域への攻撃が止まるなら、それでいい。そいつを殺して戦争が終わるなら、今まで魔王だと思っていたものが単なる将軍に過ぎなかった、なんて展開でも、まあショックはあるが別にいい。


 だが──そいつの封印が解かれ、行動可能な状態となれば話は別だ。

 即座に全世界へ公開するわけにはいかないが、国の中枢には絶対に伝えなくてはならない。それを知っているはずの教皇庁が、どういうわけか沈黙していることを、伝えなくてはならない。 


 数秒の逡巡を経て、アリアは折り目正しく一礼した。

 

 「……畏まりました。私が戻りますまで、どうかお気を付けください」


 言うが早いか、アリアは金色の髪を残光のように靡かせて走り去る。

 侍女服の厚いロングスカートなのに、フィリップが追い付けないほどの健脚だ。屋敷からそれなりに歩いたが、あの足なら十数分で帰ってくるだろう。


 彼女がずっと持っていた日傘がルキアの手に戻り、フィリップは骨の先端部を避けて半歩ほどルキアから離れた。


 「それで、他に何か質問は? 無ければ、フィルに危険も無さそうだし、そろそろ遊びに行きたいのだけれど」

 「あぁ、うん。……いいですよね?」


 ミナはフィリップに対して問いかけていたが、フィリップはルキアに確認を取った。とはいえ一応聞いておく、程度の意味しかない。

 彼女が公爵領まで付いてきたのは、ただの退屈しのぎだ。“呪い”がペットを汚染しない──人間の妨害工作、ただの偽装情報カバーストーリーであると分かった以上、人外の強者である彼女に警戒心を抱かせるルキアが一緒なのだから、ペットの監督も必要ない。


 ルキアが「行け」と言おうが「行くな」と言おうが、フィリップが止めない限り、ミナは自らの愉悦を第一に動く。


 「構わないけど、貴女、ダンジョンの中で冒険者に遭ったら、まず間違いなく敵対する魔物だと思われて攻撃されるわよ。……相変わらず、人の話を聞かない化け物だこと」


 ルキアの答えなど待たず、踵を返したミナは伸びなどしつつダンジョンの方に向かう。


 あの様子だと今夜は帰って来ないな、とフィリップはなんとなく察しがついた。飢餓衝動に襲われる前には戻ってきてくれないと、本当に最高難度ダンジョンに棲む高位の魔物になってしまうが、まあ、ダンジョンの中にも餌はいる。いまルキアが語った通り。


 「まあ、ダンジョン内で魔物に出会って死ぬなんて、冒険者からすれば予想しやすい結末でしょうね」


 運次第だがダンジョン内で非常食料が確保できると考えると、ちょっと羨ましくなるフィリップ。脱水はともかく飢えたことはないものの、非常食料が荷物を増やすのは基礎筋力に欠ける身には悩みの種だ。


 「さて、と。……僕たちはどうしますか?」

 「ステラから返事が来るまで一日くらいかかるでしょうし、調査を続けましょう。いえ、呪いではなく妨害工作である可能性が濃厚なのだし、防止策を張るべきかしら。今日は一先ず、作業中の場所を巡回しておきましょう」

 「了解です」


 魔王が復活していた。

 そんな情報を聞いた直後とは思えない冷静さで、フィリップとルキアは日常に戻る。


 人によっては絶望を感じるニュースだが、歴史を学べば、即座に首を括る必要は無いと分かる。


 歴史上、魔王は封印と復活を繰り返しているが、どの時代に於いても人類は勝利してきた。それに、魔王が復活したからといって、即座に世界が弾けたり、人類の半数が死んだりはしない。


 魔王の復活が意味するのは、精々、敵勢力の指揮官着任。或いは宣戦書類に捺す印璽の用意が出来た程度の状態だ。


 危険ではある。

 人間と人間、国家と国家の戦争には、最低限度のルールがある。「始まり」と「終わり」が。宣戦布告と降服が、両極に存在する。


 しかし魔王陣営との戦争にそれはない。

 魔族を統べ魔物を支配する王と、人類との戦争。それは最早外交手段の一つなどではなく、本能をぶつけ合う絶滅戦争だ。「殺したい」魔物と、「生きたい」人間との。


 ある時突然始まって、魔王を殺すまで終わらない戦い。歴代の勇者や聖痕者が魔王を殺せず、100年の封印に閉じ込めるだけだったから、まだ戦争は続いている。勿論、平和な期間の方がずっと長いし、そんな風に意識している人間はかなり少ないだろうけれど。


 しかし、だ。

 戦争が始まったからと言って、即座に全人類の生活が一変するようなことはない。


 魔王の領域は大陸南部。必然、その軍勢は南からやってくる。

 人類側は南側の防御に注力し、一部、高い機動力を持つ敵による防衛線内への奇襲──いつぞやディアボリカが王都を襲撃した時のような──に警戒していれば、平時と殆ど変わらない生活が出来る。


 まあ食料品や金属製品が多少品薄になったりはするが、基本的に戦場に立つのは職業軍人ばかりだし、義勇兵に名乗り出たり、変な正義感で暗黒領に乗り込む馬鹿な冒険者でもない限り、民間人にはあまり関係のない話だ。


 「魔王、魔王かぁ……」


 フィリップはルキアと並んで歩きながら、ぼんやりと呟く。


 ハスター辺りに丸投げすれば、まあ、殺せるだろう。それも隣家に害虫が出たくらいの、もしかしたら騒いでいるのが聞こえるかもしれない程度の騒動だ。その正体が悪魔か龍かなんて関係ない。


 しかし──その必要性は感じない。

 というか、無闇に手を出すべきではない。そのくらいはフィリップにも分かる。


 人類の敵だとか神の敵だとか言われてはいる魔王だが、今のところフィリップの敵ではない。そういう相手に自分から喧嘩を売り過ぎると、「やられる前にやっちまえ」と考える馬鹿が出てくるから困るのだ。


 それが龍くらいならまだマシで、旧支配者レベルの相手が絡んで来たら面倒極まりない。そういう馬鹿のせいで、人類社会やルキアたちが汚染されることは避けなくてはならない。


 余程のことが無い限りは様子見でいいだろう。

 そんなことを考えていたフィリップは、ルキアに手を引かれて立ち止まった。


 振り返ると、彼女は少しだけ言い淀んだあとで口を開いた。

 

 「……一応聞いておきたいのだけど、ナイ神父が貴方に言う“魔王の寵児”の魔王は、また別なのよね?」

 「え? あぁ、はい、勿論……」


 フィリップは気の利いたジョークでも聞いたように笑いながら頷く。

 本気でそう思っていたわけではない、ただの確認だ。問いかけたルキアの口調や声色から、それは分かる。


 それでも思わず笑ってしまうような同一視だが、フィリップは面白さ以上に嬉しさを強く感じていた。

 悪魔だか龍だか知らないが、そんなものとアレを一瞬でも並べられるのなら、彼女はまだまだだと。


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