第434話

 リリウムをエレナとカノンに預け、ミナと共にウォードとモニカの方へ向かう。

 シルヴァの案内があれば探し回る必要などなく、一点を目指して歩くだけでいい。


 そして十数分後。

 代わり映えのしない褪せた緑と白の視界が不意に華やいだ。

 

 「……」


 フィリップは小さく嘆息し、道標のように点々と続く赤色を辿る。

 そしてすぐに、赤い水溜まりを見つけて立ち止まった。


 そこには、もう華やかとは呼べない汚らしい色が散らばっていた。どす黒い赤、濁ったピンク、茶色っぽい何か、黄ばんだ何か、雪とは違う白色。


 「まあ、当然よね。私という抑止力が消えたわけだし。間に合わなかったのは残念ね」


 散乱した残骸、食い散らかされた残飯を不愉快そうに一瞥して、ミナはそれきり興味を失う。残念と言ってはいたが、ミナの声に特筆すべき感情は籠っていなかった。


 フィリップは呆然と、汚泥の中に転がった残骸の中でも真っ先に目に付いた塊をじっと見つめる。

 人間の認識能力の中で最も優先されるもの。両目と口のついた部位──胸から上と両腕が残ったものと、首から下は左半分しか残っていないものを。


 「……脳味噌は食わないのか」

 「独特の苦みがあるし、血も少ない器官だもの。吸血鬼でも好みの分かれる部位よ」

 「そうなんだ……」


 お気に入りの玩具を失ったペットを慮ってか、ミナが独り言に返事をくれる。

 使いどころのない知識が二つも増えた、とフィリップは薄く笑みを浮かべた。


 「……ふぃりっぷ、おこってる?」

 「ん? ううん、怒ってないよ」


 姿を現し、恐る恐るといった風情で問いかけるシルヴァに、フィリップは安心させるように笑いかける。


 ミナはどうしてもっと早く言ってくれなかったのか、とか。

 シルヴァは何故警告してくれなかったのか、とか。


 そんな恨み言は、思考の片隅にさえ浮かばなかった。


 当然だ。


 恨みは、悲しみや後悔から生まれるもの。そのどちらも無いフィリップの心に、恨みが芽生える土壌はない。


 しかし、自分の眉根が寄っているのは分かっていた。

 フィリップは考えていたのだ。


 「ただちょっと、なんていうか……不味いなって」


 二人が──ウォードとモニカが死んだことに、それほど感慨はない。


 パーティーメンバーが死んだわけだし、普通は悲しみや怒りを覚えるものだろう。ウォードやモニカとはパーティー結成以前からも親交があったし、心が激情で埋め尽くされたっていいはずだ。


 しかし、フィリップの心は殆ど凪いでいる。僅かに立つ漣は、ぶちまけられた血と臓物と、食べ残しへの不快感と嫌悪感。

 『気持ち悪いなあ』、と。フィリップは同族の、仲間の骸を前にして、それだけしか思わなかった。


 それ自体が不味いことだという自覚はある。あるが、だからと言って特定の感情を随意に抱くことなんて出来るはずもない。


 「……死体、ここに埋めていく方がいいよね? ミナの魔術で氷漬けにするとか、エレナが薬品で腐らないように処理することは出来るだろうけど……」


 こんな無惨な死骸、持ち帰ったって誰も喜ばないだろう。

 ウォードの家族構成は知らないが、モニカの両親──宿屋タベールナの主人と女将のことは知っている。モニカを家族同然に可愛がっている従業員たちや、そこに泊まっている衛士たちのことも。彼らにこんな、見るも無残な死骸を見せたくはない。


 遺品だけ持ち帰って、遺骸は埋めていくべきだ。


 そんなことを考えるフィリップに、ミナは思案気な一瞥を呉れる。


 「アンデッド化させて連れ帰る? 下位の吸血鬼でも自己再生能力くらいはあるし、欠損を直すことは出来るけれど」

 「それは駄目だよ」


 フィリップは即答する。


 ノフ=ケーは人類に知られておらず、魔術能力を有するとはいえ、この星に住む生き物だ。

 ウォードとモニカは言うなれば、強い魔物に殺されたようなもの。それは平凡で、平常で、平穏な死だ。幸せな死に様ではないだろうが、異常な死に様でもない。


 ならばその死は尊重されるべきだ。その安寧は守られるべきだ。


 強い否定に、ミナは「そう」と軽く応じる。

 彼女にとって二人は、ペットが大切にしている玩具くらいの価値しかない。壊れたから直して欲しいと言われれば余程面倒でない限り応じるが、それが壊れたこと自体には何の感情も抱かなかった。


 「取り敢えず、僕は──」

 「──フィル。こっちにいらっしゃい」


 言葉を遮って呼ばれ、何だろうと思いつつもフィリップは素直に従う。

 ミナはトコトコ近付いてきたフィリップにペットに向けるに相応しい慈愛の籠った一瞥を呉れると、やや強引に腕の中へ抱き寄せた。


 直後、二人は強烈な風圧と視界を覆い尽くす白一色に襲われる。


 「……ノフ=ケーだ」

 「えぇ、そうね」


 面倒そうな声が二人分、吹雪の音に混じる。


 フィリップが気付かなかった“もう一体”。ウォードとモニカを殺した相手。

 そう考えても、フィリップの心に「面倒だなあ」という以外の感傷は湧かない。大型肉食獣に対して抱くべき本能的恐怖も、檻にも勝る安心感を与えてくれるミナの腕という守りの中では無縁のものだ。

 

 程なくして、吹雪は収まる。

 ノフ=ケーが襲い掛かってくることは無く、フィリップがその気配すら感じ取れないでいるうちに。


 取り戻した視界は白と緑と、他に先駆けて認識された目に痛いほど鮮やかな赤色だった。


 「きみの位置が分かっていたら、最初の遭遇でこうして片を付けられていたのだけれどね」

 「ま、巻き込まれたら血の治癒も間に合わないぐらいの即死だね、これは……」


 淡々と語るミナに、フィリップは苦笑と共に返す。

 目に映る森は数秒前の静かな雪景色とは打って変わり、地面から生え出でた血の槍が乱立する生存拒否空間へと変貌していた。


 いつぞや悪魔の大軍勢を磔にした、整然とした処刑の様相ではない。

 眼前にあるのは敷き詰められた絨毯の如き花畑ではなく、風に吹かれて穂並を乱し、並び、交差し、中には槍同士が激突して折れたものすらある嵐の後の姿だ。


 赤く塗られた領域の中心には、腕が千切れ、腹が裂けて内臓が飛び散り、周囲の木を赤く汚して絶命したノフ=ケーの残骸がある。

 しかし、それはフィリップとミナから無感動な一瞥以上の行動を引き出すものではなかった。


 ミナはフィリップの首筋に顔を埋めて深呼吸しているし、フィリップはミナの柔らかさと匂いに包まれて微睡み始めている。


 しかしフィリップの意識が完全に眠りの淵へ落ちる前に、遠くから木立を縫って二人を呼ぶ声が届いた。


 「フィリップ君! 姉さま! ……っ!?」

 「……っ! 嘘でしょ、ウォード、モニカ!?」


 雪景色を彩る赤色を目にした二人が怯えたように息を呑み、元々速足だった歩調を全力疾走にまで早める。


 近付くまでも無く優れた視力で死体の状況を見て取ったエレナは、途中で歩調を緩め、やがて完全に立ち止まる。

 リリウムもそれなりの距離から状況を理解していたはずだが、彼女は自分自身の思考を現実が否定してくれると思ったかのように一心不乱に走り、二人の血で雪が染まった辺りまで近づく。だが、現実はそう優しくはない。断固たる事実を理解すると口元を押さえて膝を突き、そのままへたり込んで泣き出してしまった。

 

 「……フィリップ君、もしかして、姉さまのこと呼んだ召喚した?」


 エレナは二人の為に黙祷したあと、物言いたげな声でそう問うた。

 特に何も考えることなく「うん」と端的に答えたフィリップだったが、会話をそこで終わらせる前に、エレナの言葉には含まれなかった棘を台詞の内容から汲み取った。


 「……うん? 僕の所為で二人が死んだって意味?」

 「あっ! ごめん、そういうつもりじゃなくて、ただ確認しただけ! フィリップくんの行動は自分やリリウムちゃんを守ろうとしてのことだし、責めたりなんかしないよ!」


 エレナの言葉通り、彼女に怒りや糾弾の意図はない。

 だからフィリップがその色を感じ取ったのは、フィリップ自身の内側にそういう意識があるからだ。フィリップは自分の行動でモニカとウォードを死なせたことを、エレナに言われるまでも無く分かっている。


 しかし。


 「いや、別にいいけどね。僕のせいだと言われても否定はできないし、否定するつもりもないよ。二人がノフ=ケーに襲われたのはミナという抑止力が居なくなったから、僕がミナを召喚したからだ」 


 ミナの腕から抜け出したフィリップが欠伸交じりに言う。

 自罰的な言葉だが、フィリップに自覚以上の自責はない。「お前のせいだ」と言われても、「そうだね」とだけしか思えない。


 むっと眉根を寄せたエレナからどんな責めの句が飛んで来るのかと身構えるが、彼女の双眸はむしろ心配そうな光を湛えていた。


 「……フィリップ君、自分が例の“捨て身アタック”を使えばよかった、とか思ってる? それは駄目だよ。誰かのために死地に立つことと、誰かの代わりに死ぬことは全くの別物なんだから」

 「そうね。それに、敵を前にして自分自身さえ守れない者が他人を守れると思うのは、傲慢とも言えない愚考よ?」


 これをきっかけにフィリップが自分を召喚することを躊躇っては面倒だと思ったのか、ペットのメンタルケアのつもりなのか、或いはただ単純に思ったことを口にしただけなのか、エレナだけでなくミナも言葉を重ねる。


 「フィリップくんとリリウムちゃんは助かった。ウォードくんとモニカちゃんは死んだ。それはそれで、これはこれ。二人が助かったのはあの子たちのおかげじゃないし、あの子たちが死んだのはフィリップくんの所為じゃないよ」


 エレナは滾々と語る。フィリップはそれを黙って聞いていた。


 確かにあの局面に於いて、フィリップはミナを呼ぶ以外の選択肢を持ち合わせなかった。

 邪神召喚に長々とした詠唱を要する以上、咄嗟に使うにはほんの二節の詠唱で済む『エンフォースシャドウジェイル』が向いている。体長5メートルの熊相手に剣で立ち向かうわけにもいかないし、ミナを呼ばなければ、フィリップとリリウムが今のウォードとモニカのような死にざまを晒していた。


 そしてその選択時点で、フィリップがノフ=ケーが複数体存在することを知っていたとしても、状況は変わらない。フィリップは一人ではどうしようもない状況にいて、ミナを呼ぶ他に選択肢を持っていない。

 リリウムか、ウォードとモニカか。どうせ、どちらかを捨てなければならなかった。


 「……その二択なら、二人だったな」


 フィリップはエレナとミナに聞こえないよう、口の中だけで残念そうに呟く。

 ミナとウォードが気付いていた通り、三人の中で最も優先度が高いのはモニカだった。次点でウォード。フィリップの人間性を補強してくれるわけでも、羨望や嫉妬の念を抱く相手でもないけれど、そういう損得勘定抜きに、感情的に守りたかったのだが。


 だが、まあ。


 「あまり気に病む必要は無いわよ。だって、人は死ぬものでしょう?」

 

 至極当然のことを言ったミナに、フィリップは返答代わりに口角を上げた。




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