第290話
ややあって、フィリップは地面に血溜まりのある場所──フィリップが吹き飛ばされて転がった場所、シュブ=ニグラスの血を求めた場所まで戻った。
失血からか力の入らなくなった足に従って、勢いよく膝を突く。
そして拳を振り上げ、怒りのままに地面を殴り付けた。その心中には、これまでに感じたどんな感情よりも大きな自己嫌悪が渦巻いている。
「──屑が」
僕は──屑だ。
衛士団の輝かしい人間性に触れてきたから、鮮明に分かる。国のため、民のため、顔見知りの子供のために命を捨てられる彼らとは、全く比べ物にならない低俗で劣悪なゴミクズだ。
フィリップは歯を食い縛り、嗚咽を漏らし、草と土を掻き毟って汚れた手で、拳よ砕けよと言わんばかりに地面を殴り付ける。
シュブ=ニグラスの血液。
たった一滴で生命を変容させ、進化系統樹の極点へ押し上げることも、枠組みを外れた特異点にすることも可能な、強烈にして不可思議な劇毒。一匹の蝗が山岳を食い千切り、蛙一匹が海を呑み干すように育つ。
フィリップのような脆弱な人間でさえ、腕の一振りで龍を殺し、剣閃によって海峡を作るような怪物へと変貌することだろう。
それさえあれば、龍を殺せた。首を裂いて血液を集め、肋骨を砕き開けて心臓を抉り出せた。絶対に、確実に。
変異したウルミと衛士団長の一撃で龍が殺せたのは、偶々だ。運良くウルミが変異して、幸運にもウルミに自律意思が宿り、それがたまたまフィリップや衛士ではなく龍を攻撃しただけ。
あの、どす黒い雫を避けた瞬間。あの怯懦のせいで、何もかもが台無しになる可能性すらあった。
フィリップはそれを分かっていて、分かった上で、シュブ=ニグラスの血を受けなかった。いや、そんなことを考える間もなく、反射的に避けたのだ。フィリップはただの反射で、何も考えずに彼らを捨てたのだ。
「僕は──屑だ。結局は自己保身しか頭にないゴミクズだ……!」
一週間前。
ルキアとステラのために衛士団と遠征に行くと決めた時、フィリップは心の底で期待していた。
美しい人間性を持つ衛士たちと一緒に、誰かを救うという同じ目的で動いていれば。たとえそこに死への恐怖や覚悟が無かったとしても、自分の人間性は、彼らと同じ輝きを放つのではないか、と。
それが、どうだ。なんだ、このザマは。
ルキアとステラを救うため。衛士たちを守るため。
何もかもを諦めたフィリップが、まだ人間で在りたいと思えるほどに美しい彼らのため。
その理由があってさえ──フィリップ自身が決めた守りたいものの為でさえ、フィリップは自分の人間性を捨てられなかった。
衛士たちは死の覚悟を決めてここに来た。中には重傷を負った者もいる。ルキアとステラは死に至る病に侵されている。それなのに、フィリップは命の保証があってもなお、人間性さえ捨てることが出来なかった。
そんな人間が美しいものか。
そんな人間が正しいものか。
いや──それは人間としては、正しい。
死ぬのが怖い、それは本能だ。痛いのは嫌だ、それは本能だ。人間のままでありたい、それも本能だ。
でも、フィリップは知っている。それを乗り越える人間の美しさ、太陽や宝石のような魂の輝きを。人間性の輝きを。
それに憧れた。そう在りたいと望んだ。一度は、そう在れないのなら死んだ方がマシだとさえ思った。……その想いは、今も変わっていない。
こんなクソみたいな情けない人間性に拘る必要は無い。さっさと死んで、外神にでも何でもなってしまえ。いつかと同じように、今もそう思っている。
「……でも、まだ駄目だ」
だが──衝動的に自死することは、決して許されない。
血の滲む脇腹を庇いながらも自分の足で立ち上がり、激痛に神経信号を妨げられて不格好な姿で歩く。
行く先は近くの木蔭。大荒れしていたフィリップを遠目に、しかし心配そうに木の陰から覗いていたシルヴァのところだ。
流石はヴィカリウス・システムの幼体、森そのものと同じだけの存在強度を持つだけあって、龍の攻撃を受け止めても全くの無傷だった。そんな彼女は、頭からも胴体からも血を流しているフィリップに、心配そうに首を傾げた。
「……だいじょうぶ?」
「いや、全然。脇腹とか滅茶苦茶痛い……けど、シルヴァが庇ってくれたおかげで、僕の上半身と下半身はまだくっついてる。ありがとう、シルヴァ」
掌を汚す血が付かないように手の甲で頬を撫でると、シルヴァはくすぐったそうに、けれど嬉しそうに声を漏らして笑った。
……シルヴァがフィリップと一緒にいるうちは、身勝手な理由では死ねない。フィリップはシルヴァに、居たいだけ一緒に居ようと言った。僕は君を捨てたりしないと、確かに誓った。彼女がそれを望んだとしても、ずっと一緒だと言った。その言葉に対する責任は、フィリップがどんな屑であっても消えたりしない。たとえ自分自身の死を望んでいても、吐いた言葉は、シルヴァの想いは、消えて無くなりはしない。
「ふぃりっぷ?」
「ん? なに?」
心配そうな声に、フィリップは努めて穏やかな声を出す。
傷もそうだが失血が危うく、意識が霞みつつあるが、渾身の力で姿勢と表情を制御する。
「しるばとずっといっしょっていった。わすれないで」
いつものように舌足らずで感情の希薄な声に、一片の懇願が混ざる。
その言葉に、フィリップは瞠目して──掌に付いた血汚れの事も忘れて、シルヴァをしっかりと抱き締めた。
脇腹の傷が痛むが、気にならない。
掌の血が若葉色の髪を汚すが、シルヴァも気にした様子はない。
「……あぁ、勿論だよ」
フィリップは吐血と絶叫のせいで掠れ気味の声で、けれどしっかりと答えた。
しばらくシルヴァと抱き合っていると、遠くからフィリップを呼ぶ声がした。衛士団長と、他の衛士たちの声だ。
いい加減に脇腹が激しく痛み始めていたフィリップは返事をしようとしたが、息を吸うだけでも激痛が走り、声を出すこともままならない。
戦闘が終わってアドレナリンが切れたからか、はたまたシルヴァを抱き締めて緊張の糸が切れたのが駄目だったか。今まで黙っていたんだからもういいよね、とばかり、肋骨骨折と内臓損傷、ボトル一杯分近い量の血を吐かせるに相応しい痛みが襲ってきた。
シルヴァを離し、ずるずると横たわる。
「や、やばい……シルヴァ、呼んできて……治療術師の人呼んできて……」
「ん! みなよんでくる!」
「ち、違……う……」
任せろとばかり自信たっぷりに笑って駆け出したシルヴァ。フィリップはその背中に手を伸ばすことも出来ず、数秒後には意識が暗転していた。
フィリップが気絶していたのは、ほんの数十秒だった。
「ん……?」
フィリップは目を覚ますと、ぼんやりとした視界の中で傍らに立っている人影を見た。
シルエットだけで分かる悠然とした立ち姿だが、片手を腰に当てていてどこか呆れているようにも見える。体つきから女性だと一目で分かる彼女は、片手をフィリップに向けて差し出していて、そこから何か妙に冷たい液体がフィリップの脇腹へと垂れていた。
目を瞬かせて視界をクリアにすると、人影の正体がミナであることと、彼女の左手から滴る液体は、深々と裂けた手首から流れる血であることが分かった。
何をやっているのか。そう問いかける前に、脇腹の傷が瞬く間に修復されていくことに気が付いた。
吸血鬼の血は、人間の命を集めてできたものだ。それを人間が受けると、大量の生命力が補充されて傷を癒すことが出来る。フィリップはそのロジックは知らずとも、「吸血鬼の血は薬なんだ」と端的に理解した。
「……起きた? はぁ……だから危険な遊びはやめなさいと言ったでしょうに」
溜息を吐くミナの声には、心配より呆れが多分に含まれていて、フィリップはばつが悪そうにニヤリと笑った。
「ごめん、ミナ。ちょっと見誤った」
「そうらしいわね。傷はどう?」
「ん……もう大丈夫。ありがとう、助かったよ」
ミナは肩を竦め、左手を軽くスナップさせる。たったそれだけの動作の後には、人間なら致命傷になりかねないほど深かった手首の傷は完全に消えていた。
「あまりやんちゃが過ぎるようなら、首輪とリードを付けるわよ?」
「それは流石にヤだなぁ。気を付けるよ」
フィリップは自分の首からロープが伸びて、その片端をミナに握られるところを想像して苦笑した。ミナの膂力で引っ張られたりしたら、人間の首なんてぽろりと捥げてしまう。
と、そんな話をしていると、ドカドカと大人数の足音が近づいて来た。衛士団長と、他にも大勢の衛士たちだ。
「少年、大丈夫……なのか? 吸血鬼になったりしてないよな?」
満身創痍というか、ほぼ瀕死に見えたフィリップがけろりとした顔で立っていれば、そんな懸念も浮かぶ。
フィリップとミナは顔を見合わせて、それぞれ苦笑と呆れを見せた。
「大丈夫です。ミナの血のお陰で助かりました」
「見れば分かるでしょうに……」
一応はフィリップの脇腹や他の傷を確認していた衛士は、フィリップが完全に無傷な──血塗れではあるのだが──ことを確かめて、ほっと一息ついた。
「そうだ、聞いたよフィリップ君! 龍を一人で抑え付けたんだって!? すごいじゃないか!」
「む? そういえば、あの魔剣はどうした?」
衛士団長に問われて、フィリップは胡乱な目で首を傾げる。
魔剣なら団長が右手に持っているが、もしかして頭でも打ったのか? なんて考えること数秒。ウルミが変じた触手の事だと漸く思い至る。
「あぁ、えっと……灰になりました」
「なんだって? そうか、一回きりの力だったのか。だからあれほどの……」
フィリップが何か言い訳を考える前に勝手に納得してくれた衛士団長。フィリップは曖昧に笑って、「魔剣って?」と首を傾げたミナには「後で話すよ」と誤魔化した。
「団長こそ、さっきは凄く苦しそうでしたけど、大丈夫なんですか?」
「あ、あぁ、うむ、勿論だ。もう何ともないぞ!」
「これから龍の解体作業ですよ、団長」
「おっと、そうだった! では少年、また後でな!」
どこか慌てたように見える団長と衛士たちは、フィリップからの質問をシャットアウトするように去って行く。
確かに、今現在の最優先事項は龍の心臓を抉り出し、血を確保することだ。だがああも露骨に避けられると、流石にちょっと気になるし気に障る。
「……?」
「アレが龍を殺したのね。良かったわ」
「なんで?」
ミナは少しむっとした様子で衛士たちの背を見送るフィリップに構わず、背後から抱き締めて首筋に顔を埋める。
「龍を殺すとね、呪われるのよ。吸血鬼の始祖は王龍を殺して、同族の血を啜ることでしか生きられない怪物に転じた。この英雄譚に出てくる勇者も、過酷な運命を背負うことになったでしょう?」
「あ、それ読んだんだ。面白いでしょ」
「そうね。描写の特徴から言って成龍でしょうけど、あの程度の相手をここまで強敵に描けるのは才能だと思うわ」
あの程度……とフィリップは数分前までの大怪我を思い返して苦笑を浮かべ、それから漸くミナ一人に龍一匹を任せていたことを思い出した。
「……ん? 待って、そういえばミナ、あの赤い方の龍は殺したの?」
「えぇ。本で読んだほど心躍る相手ではなかったけれど、いい運動になったわ」
人間なら爽やかな汗でもかいていそうな気軽さで言うミナ。フィリップは化け物過ぎるでしょ、と胡乱な顔をする。
龍が相手では魔剣の即死コンボも使えないという話だったが──まさか、ただの刃物で斬り殺したのだろうか。或いは魔術でどうにかしたのかもしれないが、どちらにしても現実的ではないというか、現実味がない。
「ミナは呪われなかったの? というか呪いってどんなの?」
「成龍の呪いは、一般的には幸運を奪うと言われているけれど……吸血鬼は元より、王龍の呪いを受けたモノ。強力な呪いが、むしろ他の呪いを弾くのよ」
「へえ、滅茶苦茶便利だね、吸血鬼って。全然なりたいとは思わないけど」
というか、人間の血を吸わなくては生きられないなんて、デメリットにもならないのではないだろうか。特にミナはハーフエルフ・ハーフヴァンプで、人間に対する親近感は皆無だ。食事をすることに忌避感や嫌悪感を抱いたことなんて一度も無いだろう。
「お前と同じにはなりたくない」と正面から言われて、ミナは薄笑いを浮かべた。
「まあね。きみが死んだら吸血鬼にしてあげるわ」
「なるべく死なせない方向でお願いね? ……で、古龍の呪いはどんなの?」
「師曰く、寿命を奪うらしいわ。残りの寿命の半分」
ミナはさらりと言うが、フィリップにとっては大問題だった。
「寿命の半分!? そんな──、っ!」
嘘だ、とか、なんで、とか、ごく短い単語が頭の中をぐるぐると回る。
しかしフィリップは何一つとして言葉にすることは無く、ミナの抱擁を解いて駆け出した。
龍の死体があるところまで戻ると、衛士たちはフレデリカの指示の下、死骸を解体しているところだった。どうやらただ心臓を抉るのではなく、細かくバラして持ち帰るようだ。穴を掘っている衛士も居るから、不要部分は埋葬するらしい。
フィリップは作業中の衛士たちにお礼を言われたり、称賛されたりしたが、喜ぶ気分ではなかった。
魔剣を使って解体作業をしていた衛士団長を見つけると、フィリップは食って掛かるような勢いで衛士団長の腕を掴み、自分の方を向かせた。
「団長! 団長!」
「……どうした、少年」
衛士団長はどこか悲壮感を漂わせて振り返るが、身体だけだ。顔はどこか余所を向いていて、フィリップの顔を見ようとしない。
他の衛士たちもフィリップと衛士団長を交互に見て状況を察し、何か言おうとしては失敗して俯いていた。視界の端々に映る彼らも、頑なに目を合わせない衛士団長も、何もかもがフィリップの気に障った。
「どうした、って……団長、知ってて僕を止めたんですか。呪いのこと──つまり、寿命のことを」
ぐちゃぐちゃの思考がそのまま言葉になる。
衛士団長は静かに目を閉じると少しの間黙考し、ややあって漸くフィリップと目を合わせた。
「……あの吸血鬼に聞いたのか」
「はい。それに、さっき僕を止めたのは不自然でした。……なんでこんなことを」
問われた衛士団長は、またしばらく黙考し──
「あー! 困るなぁーホント! こういうのはバレたら駄目なんだがなぁー! 少年、ちょっと頭が良すぎないか?」
ガシガシと乱暴に頭を掻いて、本当に困ったように天を仰いだ。
「俺と君が同じ年、まぁ何となく60歳ぐらいまで生きるはずだったとしよう。俺は今年で36、残りが24年だから失う寿命は12年で、48で死ぬことになる。君はまだ12歳、残り48年だから失う寿命は24年、36で死ぬことになっちまう。俺がやった方が、損失が半分で済む──って、おぉ! 今の俺とちょうど同じか! じゃあ……うん、俺はまだまだ現役だし、ウチの団員の誰より強い。そんな時に死んじまうなんて、悲しいだろ?」
衛士団長は胸を張って「完全論破」と言いたげなドヤ顔だが、フィリップはむしろ胡乱な目をしていた。
「おぉ!」とか「じゃあ」とか、いま考えた言い訳であることが見え透いているのだ。フィリップはこれで騙されるほど子供ではないし、騙されてあげるほど大人でも無かった。
フィリップの湿度の高い視線に耐えかねた衛士団長は、ばつが悪そうにポリポリと頬を掻いて、諦めたように嘆息した。
「……これもバレるか。うん、正直に言うと、あの時はそんなことは考えてなかった」
「じゃあ何を? なんで死に急ぐんですか」
死に急ぐと言われて、衛士団長は少し傷付いたように見えた。
しかしフィリップの視線は緩まない。たとえ衛士団長が泣き出そうと、この馬鹿げた行いについて追及する──そんな決意さえ窺えた。
衛士団長は気まずそうに首を擦ったり、コキコキと肩を鳴らしたりしたが、結局、肩を落としてぽつりと答えた。
「俺は大人で、君は子供だ。だから俺は君を守る。それだけしか考えてなかった。それだけの理由だったんだ」
衛士団長にしてみれば、それは方々から耳にタコができるほど言われている「よく考えて行動しろ」という言葉の真逆だった。
所謂直感、心の囁きに従った、そうすべきだと思ったからそうしただけの行為。合理的理屈の無い、ここにステラが居たら叱責は免れない直情的判断。
それだけに、フィリップとの地金の違いがはっきりと出ていた。
「は、ははは、はははは……! あはははは……!」
フィリップは声を上げ、肩を揺らして笑う。
衛士団長は戸惑ったが、フィリップの頬を濡らす透明な輝きに気が付くと、その肩をしっかりと掴んだ。
「そうだ、笑ってくれ。悲しまないでくれ。それでいいんだ、ありがとう、少年。君は本当にいい奴だ」
見当違いな、けれどどうしようもなく善性に満ちた言葉に、フィリップは遂に顔を伏せ、酷薄な笑顔を隠した。そこに含まれた強烈な自嘲と絶望の色は、誰にも悟られなかった。
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