第273話
話し合いの裏で遠征の準備は恙なく進んでおり、出発まで一時間となった夕刻。
ステラとは「行ってきます」なんて笑って別れたフィリップは、沈痛な面持ちで公爵家別邸の一室にいた。ルキアの寝室だ。
普段は外にアリアが立ち、中にはメグが控える重防御の部屋に、今はフィリップとルキアの二人きりだった。
いや、意識があるという条件を付けると、フィリップだけか。
ルキアは寝間着に着替えさせられて、ベッドに横たわっている。既に意識は眠りの奥底へと落ち、フィリップが手を握った程度では目覚めそうになかった。
ルキアが倒れたのは、つい先ほど。フィリップと一緒に公爵邸まで馬車で帰ってきて、ちょうど降りたタイミングだった。
“眠り病”の流行当初には王都のあちこちでちらほらと見られた、発作的な睡眠。昏睡ではないし、唇を噛むとか頬を叩くとか、その程度の外部刺激で起きることもある。
ただ──目の前でルキアの身体が揺らぎ、銀色の髪を遅れさせながら倒れていく光景は、物凄く心臓に悪かった。
フィリップにとって“眠り病”の存在を示すのは、タイミングが悪いと従者や使用人から告げられる「お休みになられています」という言葉と、会えない寂寥感だけだった。
しかし目の前で人が、それもルキアが突然倒れるところを見ると、強烈な実感が湧いてきて恐怖してしまったのだ。
人間は弱く、脆い。
倒れた拍子に頭を打っただけでも、十分に致死の可能性がある。二度と目覚めぬ昏睡を齎す病に侵されているのだと思うと、血の気が引くような心配が募る。脆弱な劣等種への自虐的嘲笑以上に。
この世界が泡のようなものだとは知っている。
人間一人の命なんて、その中でも殊に儚い泡沫だ。
でも、それでも──ルキアには生きていてほしい。
幸せな無知の中で死んでくれと、今までは思っていた。それだけでいいと思っていた。
でも駄目だ。それでは足りない。
もっとずっと長生きして、素敵な旦那さんを見つけて、元気いっぱいな子供を作って、子供が大きくなるのを見届けて、孫とか、もしかしたら曾孫と一緒に遊べるくらいに健康に過ごして。それで──ちゃんと、本当の意味で幸せに死んで欲しい。
フィリップは知らずルキアの手を握り締め、そう祈りながら額に当てていた。
宛先も無い祈りは、ほんの一瞬で終わる。
……もう、行かなくては。
衛士団はよく訓練された正規の軍隊だ。フィリップが荷物を用意するのと同じかそれ以上のペースで準備しているかもしれない。
「……絶対。絶対に、龍の心臓と血を取ってきます」
眠りから体温の下がった手を放し、そっとシーツの中に仕舞う。
もっと大切なことが、もっと沢山のことが言いたかったのに、結局、口から出たのはそんな飾り気のない言葉だけだった。
せめて胸の内で蟠って燻ぶる、言葉にならない思いを込めて、遠征が成功するように祈っておく。宛先は、まぁ、ルキア本人でいいだろう。聖人も神も同じ泡だ、大差はない。
──いや、ここはルキアの無事をステラに、ステラの無事をルキアに祈れば、祈りの流転で無敵なのではないだろうか。気持ちの上では。
「……ふふっ。行ってきます、ルキア。帰ってきたら、この最強理論の話もしましょう。土産話も、きっと沢山あります」
自分で自分の馬鹿みたいな考えに笑ったフィリップは、安らかな寝顔を崩さぬよう、顔にかかる銀糸のような髪を撫でるように整える。そしてルキアの寝室を出て、そのまま公爵邸を後にした。
◇
その足で衛士団と合流したいところだったが、フィリップにはまだやるべきことがあった。
王都に巣食う──フィリップが連れて来た吸血鬼の、食料問題の解決だ。
ミナが食事抜きで耐えられるのは、大体三日くらい。
フィリップが二週間くらい留守にすることを考えると、もう全然足りないというか、帰ってきたら王都が滅んでいてもおかしくない。流石のミナも二週間そこらで大規模都市一個を食い尽くすほど大食いではないが、「やっぱり人食いの化け物じゃないか! 退治しろ!」と、町人有志で構成される自警団や、王都防衛に残った衛士団、貴族の私兵などが襲い掛かるだろう。
あとは、食後の微睡を邪魔されたミナが不機嫌そうに魔剣を抜いて、一掃だ。
ルキアもステラもヘレナも病に侵されている今、彼女を止められる者は誰もいない。
ミナに支配欲や自己顕示欲のような面倒な欲求が無いのが救いだった。
「しかしミナが見つからない……」
どうせここだろうと学院の図書館を訪れたフィリップだが、彼女がいつも座っている辺りには居なかった。
一応、その気になればフィリップの下へ強制的に呼び出すことも出来るのだが──フィリップは馬鹿だが経験からは学習できる。水浴び中とかだったら、ミナはともかくルキアとステラに滾々とお説教されるのでやめておく。あの死ぬほどいたたまれない空気は二度と御免だ。
それに、ここは図書館だ。水気は厳禁である。
「……ん?」
いつもの癖で本棚の間を回遊していると、そのコース上に見慣れた後ろ姿を発見する。
夜闇より深い色の長い黒髪と、その間から先端が覗く特徴的な形の耳。学院の図書館には不釣り合いなコルセットドレスと、血溜まりを歩くためのハイヒール。ふと本棚に目を留めた横顔には、ぞっと背筋が凍るような人外の美が宿る。
「あぁ、ミナ。……この辺りに居るの、珍しいね」
軽く手を振りながら本棚の間を歩くフィリップ。このコースは、図書館に来た時はいつも通る道──児童書の並んだエリアだった。
ミナはフィリップの声に振り返ると、柔らかに微笑する。
「フィル。どうしたの? 今日が出発じゃなかったかしら?」
「うん、そうだよ。だから……はい、これ」
フィリップは肩に掛けていた鞄を外すと、取り落とさないようしっかりと掴んで渡す。
鞄が揺れると微かに、からん、と澄んだ音がした。
「これは?」
「お弁当だよ。ステファン先生に、特殊な瓶に僕の血を入れて貰ったんだ。これで二週間分だから、ちゃんと配分して飲んでね。開けたらすぐに飲み切らないと劣化するんだって」
ミナが受け取った肩掛け鞄を開けると、中には確かに、赤い液体の入った小瓶が並んでいる。一瓶あたり、ちょうどミナの二口分といったところだ。
「確かに二週間くらい持ちそうだけれど、きみは大丈夫なの? 結構な量なのに、体調を崩したりしてない?」
「うん、大丈夫。失血しないよう、先に先生に薬を貰ったから。……あ、味が変わってたらごめんね? 二週間だけ我慢して」
フィリップの言葉に軽く眉を顰めたミナは、瓶を一つ取り出して鼻先に滑らせる。しかし中の血液が空気に触れないよう完璧に密封されているから、匂いは全く感じれらなかった。
「……まぁ、いいわ。行ってらっしゃい。どうにもならない場面になったら、私を呼びなさい」
「いいの? ありがとう。じゃあ、龍を殺したら心臓と血だけ持って帰って貰うかも。ミナも飛べるんでしょ?」
「それは「どうにもならない」の範疇に無いわね。……間に合わないとなったら、呼んでいいわよ」
苦笑するミナに「行ってきます」と手を振って、フィリップは図書館を出る。
広い学院の敷地を横切って正門を潜ると、既に準備を完了したらしい衛士団の迎えが来ていた。
元々人気の少ない一等地の道の真ん中に、二頭の立派な軍馬と、一人の鎧騎士がいる。いや、騎士爵位を持った「本物」ではないのだが、錬金素材と付与魔術によって淡い燐光を纏う
「お待ちしていました、特別協力者のフィリップ・カーター殿ですね。衛士団遠征隊は既に、王都門外で待機しています。すぐに合流しましょう」
「はい、了解です……あの、すみません、どこかでお会いしましたか?」
フルフェイスヘルムでくぐもった声だが、妙に聞き覚えがある。
もしかして以前に世話になったうちの誰かか、タベールナに泊まっていた誰かだろうか。そんな予想と期待を込めた問いに、衛士は快活に笑ってヘルムを取った。
「……あぁ。久しぶりだね、フィリップ君」
「ジェイコブさん! お久しぶりです!」
ヘルムの下から出て来たのは、フィリップがよく覚えている強面だった。王国人にありきたりな金髪碧眼だが、片眉に傷跡がある。
握手を交わして再会を喜ぶフィリップに、相変わらず子供に泣かれているらしいジェイコブは嬉しそうだった。
「今回の遠征には俺の班も参加するんだ。知った顔もあると思うから、後で話しかけてやってくれ。みんな、君にお礼を言いたがってたからね」
「そうなんですね! え? でも、お礼なら前に……」
悪魔討伐や応急処置による人命救助に関するお礼なら、彼らの治療が終わったあとすぐに貰った。
快気祝いのパーティーに、部外者のフィリップまで呼ばれたくらいだ。
もう一年以上前のことだし、これ以上の礼は必要ない。少しの照れも交えてそう伝えようとすると、ジェイコブはそうじゃなくて、とはにかみながら否定する。
「今回のことさ。団長から聞いたよ、俺たちを死なせないために戦おうとしてくれたんだろ?」
「あー……まぁ、その、はい。衛士団を舐めてるわけじゃないんですけど、やっぱりドラゴンは厳しいかなって」
組んだ手指をもじもじと動かすフィリップは、もしかしたら衛士団を不快にさせてしまったのではないかと危惧していた。
彼らは軍学校の成績上位卒業生と元Aクラス冒険者のみで構成される、王国最強の兵士たちだ。いくらなんでも、12歳の子供に舐められていては面子が立たないだろう。
しかし、ジェイコブはあっけらかんと肯定した。
「あぁ、厳しいね。ドラゴン相手で勝てそうなのは、先代の団長くらいだ。その人も今は隠居してるし、勝ち目は薄いよ」
「……だったら」
「だったら逃げろ、なんて言わないでくれよ? 俺たちは──って、この話は後にしよう! 他の皆が待ってる!」
言いかけたフィリップを遮るジェイコブだが、自分の言葉も教会の鐘によって遮られる。時報であるそれは、出発予定時刻まで間もないことを示していた。
もう夕刻、じき日没だ。
月明りがあるうちは進む旅程だが、ここで遅れるのは得策ではない。
ジェイコブは慌てて軍馬に駆け寄り、鎧姿にも拘わらず軽快な動きでひらりと跨る。
彼の相棒は「待たせやがって」と言わんばかりに勇壮な嘶きを上げ、今にも駆け出しそうだ。
「さ、急いで、フィリップ君! 遅れたら腕立て伏せかもしれない!」
「え、罰則!? それは嫌ですね!」
フィリップも慌ててもう一頭の軍馬に駆け寄り──「嘘だよね……? 乗らないよね……?」とでも言いたげな、つぶらな瞳の訴えを無視した。
そして駆け出す、二頭の軍馬。
その駆ける姿は、鼻先にニンジンを吊るされた馬、ではない。むしろその逆、背中にぴったりと肉食獣が張り付いたような状態で、馬のストレスはとんでもないだろう。
明らかに平常ではない、恐怖でペース配分と正しい走行姿勢を忘れた馬を、ジェイコブの手も借りながらなんとか宥めすかして王都を駆ける。
あと五日耐えてくれるといいのだが、最悪、どこかの駅で別の馬に換える必要があるかもしれない。
訓練されていない、軍馬でもないただの馬や輓馬では、長距離の団体行軍には不向きだろうが仕方ない。馬を何頭使い潰してでも、必ず二週間以内に龍の心臓と血を持ち帰らなくてはならないのだから。
王都を駆け抜け正門を潜ると、街道から逸れた場所に鎧を着た一団が待機していた。
「遅れて申し訳ありません! 特別協力者をお連れしました!」
半ば怒鳴るような大声で報告したジェイコブに、一団がじろりと睨め付けるような一瞥を寄越す。
ヘルムを付けていない者は誰も彼も強面──というか、厳しい訓練と豊富な戦闘経験によって贅肉を削ぎ落され、戦闘に慣れた者が持つ特有の空気を放っていて、なんとなく近寄り難い。すみません間違えました! と回れ右したくなるような威圧感さえあった。
そんな彼らは、ジェイコブが連れたフィリップに目を留めると、意外にも相好を崩した。
「お、フィリップ君じゃないか! 久しぶりだね!」
「やっと来たか! 俺のこと覚えて……ないよな! あとで自己紹介するわ!」
「君がカーター君か! 色々と聞いてるぜ! 今回はよろしくな!」
「あ、あの、えっと……」
フィリップを馬から引きずり下ろしそうな勢いで寄ってきた男達に、思わずあわあわと慌ててしまう。フィリップを取り囲む衛士たちの中にはヨハンもいたが、ヘルムのせいで分からなかった。
胴上げさえ始まりそうなちょっとしたお祭り騒ぎとは別に、遠征準備の最終確認をしている衛士たちもいる。その中には、特殊な機材の取り扱いや運搬方法について摺り合わせているフレデリカの姿もあった。
「各員整列!」
フルフェイスヘルム越しにも耳が痛くなるほどの声量で、首筋が焦れるような覇気のある声が轟く。フィリップがよちよちと拙い手つきで馬から降りる頃には、衛士たちは全員が彼の後ろに整列していた。
派手な鎧の男がヘルムを取ると、やはり衛士団長だった。
彼はニカッと歯を見せて、粗野ながら快活そうな笑顔を浮かべる。その双眸には、闘いに赴く戦士が纏う、覚悟と勇気に満ちた輝きが宿っていた。
「衛士団の精鋭50名、それからもう一人の外部協力者、フレデリカ・フォン・レオンハルト殿だ。我々一同、君を歓迎する。……よろしくな、カーター少年!」
ざっ、と音を立てて、衛士たちが一斉に敬礼する。その統率の取れた動きと厳格な規律を感じさせる立ち姿に、思わずほうと溜息が漏れた。
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