第225話

 

 ヴィルフォードの意識は、世界の全てから滲み漂うような落胆の気配が完全に消え去ると同時に、現在の、この場所に戻ってきた。

 それは幸運なことではなく、自分の記憶の中で溺死していた方がまだマシだと思える恐怖が再起される。


 「な、あに、ななに、何が……何が起こって……?」


 フィリップは「何を間違ったらシアエガを“冒涜の王”だなんて思えるの?」と半笑いで首を傾げていたが、ややあって無理もないことかと苦笑を浮かべて首を振った。

 

 「あぁ、そうか。……もう一つ教えてあげます。貴方が恨んでいる、貴方が疎んじている、貴方が唯一絶対のものだと思っている“神”ですが……それは虫みたいなものです」

 「──は?」


 何を言われているのか分からないと、ヴィルフォードは恐怖さえ吹き飛ぶ無理解の表情で、ぽかんと口を開けてフィリップを見つめる。


 「そもそも、“神”を作り出したのは、僕たち人類です。一神教が信仰する“神”は、僕たち人類の意識の超深層、共有された無意識に存在する共同幻想です。一般的に“神”と言った時に想像されるものが強固に固定された結果顕現した、空想の産物。空想上の、ではなくね」

 「な、なにを言って──神は存在しないとでも? 神は天使を遣わし、勇者を選び、聖痕者を認める。彼らの存在が、神の存在証明だ! そんな馬鹿げた話が──」

 「あー、違います。そうじゃなくて……『神がいて信仰がある』わけじゃなくて、『信仰があって神が生まれた』んですよ。まぁ、これは旧神程度なら珍しくもない発生過程らしいですけど」


 ヴィルフォードは「有り得ない」と繰り返す。


 「我々は神の似姿だ! 神が先に在らなくては、理屈が通らない!」

 「それは教会が勝手に言ってるだけでしょう? 吐き気のする話ですけど、僕たちの遺伝子構造はショゴスの中にあったもの──僕たちの遠いご先祖様は、どこかでショゴスと混ざってるんですよ」


 「神が裁きを下した、神罰の跡があるだろう! 大洪水の跡も、ソドムとゴモラの跡地だってある!」

 「聖痕者レベルで強力な魔術師がいれば出来そうですけどね。まぁ、本当に唯一神の仕業かもしれませんけど、そもそも僕は『神が居ない』なんて言ってませんよ。『神は僕らが生み出した』と言ってるんです」


 「神はこの世界を作った! この世界が存在するより先に、我々人類が存在したというのか?」

 「──本当にそうなら、どれだけ幸福だったことか」


 淡々と答えていたフィリップの声色に、苦悩と諦観が混じる。

 その色濃い感情に気圧されたように、ヴィルフォードは口元を震わせ、焦点の合わない目を揺らす。


 「そ、そんなこと……聖典には載っていない」


 は、と。フィリップは薄ら笑いを浮かべた。


 ヴィルフォードは結局、神を信じているのだ。尊ぼうと、憎んでいようと。

 神の強大さを信じているが故に、その思考が絶対的に信仰に根差したものになっている。


 唯一神の絶対性。

 それが大前提にあるから、唯一神に対抗できるシアエガが、『冒涜の王』なんて分不相応に強大なものに見えるのだろう。


 「……ちなみに、シアエガが唯一神を殺せるのは本当ですよ。あれは信仰から生まれた、信仰ありきでしか存在できない唯一神とは違って、『神と形容するしかない強大な生物』です。モノがいて、信仰されるに至る、きちんとした因と果を持ってる神格ですね」

 「あ、え、あ……? ……な、なら私は、妻は、ニノは、何を信じて……?」

 「え? そりゃ、神でしょう? 自分たちが信じられるものを作り出して、自分たちで信じてたんですから、何らおかしいところはないですよ。……「縋れるものなら神でも路傍の石でも怪しげな壺でも何でもいい。信じていれば救われる」……これ言ったの、誰だっけ? 殿下かな? 僕じゃないと思うんだけど……ん? どうしたんですか?」


 フィリップが記憶を掘り起こしている前で、ヴィルフォードは顔を蒼白にして震えていた。

 その両腕は自分を守るように肩を抱き、恐ろしいものを見る目でフィリップを見ている。


 フィリップの語る内容も、それを語るフィリップそのものも、ヴィルフォードにとっては恐怖の対象でしか無かった。


 「ち、違う。違う、違う違う違うちがうちがうちがう違う! それは、そんなものは信仰ではない! 私たちは、遥かな高みより授かった教えに従って生きてきた! それが、わた、私達の妄想だと!?」

 「え? いや、だから、神は本当に居るんですよ? 居るけど……うーん、説明が難しいな。あ、“白百合の決闘”って分かりますか?」

 「……は? え、エイリーエスの第三幕、白百合の英雄のクライマックス……あれのことか?」

 

 そう、とフィリップはぱちりと指を弾く。その小さな音にさえ、ヴィルフォードはびくりと肩を震わせた。


 「エイリーエスは昔の人の作り話ですけど、その一ワードだけで、誰が何をした話なのか、僕と貴方は共有できますよね? こんな感じ──」

 「──フィリップ君。惜しいですが、少し違います。それは“知識の共有”ですね。文字や絵画による知識や空想の共有と継承。これは地球上では人間程度の知性を持った生物にしか見られない、文化的遺伝子によるものです。ミームとも呼ばれるこれは、人間の営みの表層部分ですから、神を生み出す共有無意識とはまた別のものですよ。その表側、と言えば概ね正解ですが」


 ナイ神父の説明に、ヴィルフォードではなくフィリップが目を白黒させる。

 ヴィルフォードはむしろ、枢機卿という地位に相応しい教養から、ナイ神父の言葉を理解してしまった。


 「では、私は、私達は……妄想の中に生きていたのか。私の悲嘆も、私の怒りも、私の憎悪も、全ては空想に宛てた空想の範疇でしかなかったのか」 

 「……ははっ」


 呆然と呟いたヴィルフォードに、フィリップは心の底から愉快そうな笑顔を浮かべた。

 その表情から、冷笑と慈愛と諦観と同情を見て取り、ヴィルフォードは嘔吐した。 


 そしてフィリップから這いずってまで距離を取り、いつの間にか隣に立っていたナイ神父の足に縋り付いた。


 「な、ナイ神父。助け──」


 助けて。

 ヴィルフォードは最期に、そう神父に縋り。


 その神父が振り抜いた黒い革靴が、鳩尾から上を消し飛ばした。


 ばしゃん! と水をぶちまける音に、からからと砕けた仮面の転がる音が混じる。

 残された胴体は、いやにゆっくりと傾いで、倒れ伏した。


 ひときわ大きな仮面の破片が、突然の暴行に唖然とするフィリップの足元に転がった。


 「……え? なんで殺したんですか?」

 「おや、不思議な質問をしますね。出番を終えた役者は、舞台を去るものでしょう?」


 さも当然のように言ったナイ神父に、フィリップは「そうかもしれないけど」と不満顔だ。

 あれだけ殺したがっていた暫定カルトの死、ルキアとステラの正気を損なう可能性のある輩の排除を、もっと喜ぶべきなのだろうが──フィリップにとって、彼はもはや暫定カルトではなく、「面白い奴」くらいの認識だった。


 素晴らしい一幕を見せてくれた道化師に、おひねりの一つも投げたい気分だったのだが。


 「それにね、フィリップ君。この私の眼前で“冒涜の王”を僭称し、あまつさえシアエガ風情にその名を宛てるなど、不敬不遜も甚だしい。私の行動理由くらい、語るまでもなくお分かりかと存じますが? 分かり切ったことを訊くのは賢明とは言えませんよ」

 「ぐっ……確かに、今の質問は考えが足りませんでした……でもそういう正論が一番人を傷付けるんですよ! 殿下もそういうの良くないって言ってたし!」

 「はははは」


 何を笑っているんだと拳を握るフィリップだが、すぐに力なく拳を降ろして立ち上がる。

 ナイ神父の白兵戦能力を見たばかりだから──ではなく、殴りかかろうと、殴り殺そうと、大した意味がないことを知っているからだ。


 「はぁ……まぁ、いいや。後処理はお任せしても?」

 「えぇ、勿論。子供はもう寝る時間ですからね。宿にお戻りください」


 いちいち煽らないと喋れないのかと突っ込みたかったが、眠気が徐々に募っているのも事実だった。


 フィリップは適当に手を振り、教会を後にする。


 翌日の修学旅行六日目は、枢機卿一名を含む十数人の変死体が見つかったという事件のせいで、町全域に戒厳令が敷かれた。

 町人たちが戦々恐々とする中、教皇庁と聖国騎士団は威信をかけて調査に臨み、その日の夕刻に凶悪なカルトを捕縛・処刑し、教皇領に蔓延した恐怖は完璧に拭い去られた。







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