第165話
ぶん殴られて吹き飛んだフィリップは、追撃が無いことを確認して、ゆっくりと立ち上がる。
顔の左側が痛い。
あと、口の中が血の味だ。舌で頬の内側をまさぐると、ぴりっとした痛みが走り、傷の感触がある。歯が折れたわけではなく、歯で口内が傷付いただけか。
「痛ったぁ……」
頬の外側がじんじんと熱く、内側が鋭く痛い。
良いパンチだ。フィリップの矮躯を軽く吹っ飛ばす、衝撃力のある打撃だ。
こんなのは、マリーが手加減し損ねた時以来だ。
だが、まぁ、あの時は訓練だった。フィリップは怪我の一つ二つ覚悟の上だったから、肋骨にヒビを入れられても「いつか覚えてろ」と向上心に変えられた。
今は違う。
今のは純然たる不意討ち、ただの攻撃だ。
「女性の顔に傷を付けるとは、それでも男ですか、貴方は!」
「……
再度、糾弾が飛ぶ。
今度は男子生徒だけでなく、女子生徒やセシルまで「そうよ」「酷い」と口々に。
口内の傷を舌で舐めていたから変な声が出たが、意図は伝わったようだ。
「こんな大きな傷を付けて、跡が残ったらどうするつもりなんですか! この事は、教師に報告させて貰います!」
「はぁ……ステファン先生の腕なら、十秒で治りますよ、そんな傷。跡も痛みも綺麗さっぱり」
経験に基づくフィリップのアドバイスは、これで二度目だ。
しかし、先程それを伝えた女生徒は「そういう問題じゃない!」と叫んだ男子生徒に続いて「そうよ!」と同調していた。
意味不明だ。
「じゃあどういう問題なんです? というか、僕は今の不意討ちの方を問題にしたいんですが」
本当にどういうつもりなのかと問い詰めたい。
いや、正直に言うと、今すぐにでもブチ殺したい。
──僕は、痛いのは嫌いなんだ。
痛みで短絡的になった思考は、人間性を著しく欠いたものになる。
外神の側に振れたもの、というわけではない。獣性に満ちて感情的というだけだ。
これは、よくない。
このまま激情に任せて、眼前の不愉快なゴミを焼却するのは簡単だ。
だが、些か非人間的すぎる。
それは獣の振る舞いであり、理性ある人間の在り方ではない。
「まずは……うん。まずは、言葉を交わそう。人がましく在るために」
ゆらり、幽鬼の如く上がった右手に、ゆっくりと言い聞かせる。
開かれていた手を握り、下ろす。
「もう一度訊きます。どういう了見で、僕の顔面に拳をブチ込んだんですか?」
言葉が荒れている。
痛みと怒りで、脳内がぐちゃぐちゃになっているからだ。態度を取り繕うための余裕はすべて、人間性の励起に費やされていた。
「何故という問いには、既に答えています。貴方が女性の顔を傷付けるという、正義に悖る行いをしたからです」
「……意味が分からないな。これは僕の頭が悪いのか、それともお前が人語モドキを話しているのか?」
くそ、本当にいいパンチだ。頭がくらくらする。
出血は口の中と頬の内出血、あとは吹っ飛んだ時にできた擦り傷だけ。失血ではない。……脳震盪か。どおりで懐かしい感覚だ。
自分が何を話しているのかすら覚束なくなってきた。
気絶する前に殺し──いや、いや、駄目だ。それはさっきも否定した、非人間的な行為だ。
今やるべきは……会話。そう、会話だ。
とにかく口を動かせ、音を出せ。でないと、本当にぶっ倒れかねない。
「なら男の顔面をぶん殴るのは正義なのか? 違うと思うんだけど、
腫れ始めた頬を擦りながら、ぶつぶつと呟くフィリップ。
独り言だったのだが、男子生徒は問いかけと受け取ったようだ。
「いえ。ですからその事も含めて教師に報告し、相応しい罰を受けるつもりです。貴方が退学になるのなら、僕もまたそうなるべきだと思います」
その場凌ぎの出任せ──では、ないだろう。
彼の青い双眸には、一貫した意思の光がある。
善性、か。
あぁ、全く──美しい。
だが的外れだ。
「模擬戦だよ? 基本的なルール通り急所は避けたし、致命的な魔術だって使ってない。そもそも一撃先制のルールは彼女が決めた。これで僕が殴られるなら、現代魔術担当の教師は撲殺されてる」
不意に見せつけられた善性に心を打たれ、フィリップの胸中に燃えていた苛立ちが勢いを弱める。
軽口も交えた返答に、しかし。
「……模擬戦? 失礼ですが、彼女らは「武器を振っていた貴方に話しかけたら攻撃された」と言っていましたが」
「──は?」
疑念も露わな視線が向けられる。
即座に嘘だと弾劾してこないのは、彼も女生徒たちが口々に言った断片的な情報を繋ぎ合わせただけの、又聞きにも劣る確度の情報しか無いからか。
まだ泣いているセシルの声が、きんきんと耳に障る。
そのノイズとパンチの衝撃で思考が鈍い。
なんだ、いま、どういう状況なんだ?
「ふむ。……少し失礼します」
フィリップの顔に浮かんだ困惑の表情から、大方の事情を察したようだ。
彼は敵意を収め、一礼してフィリップの前を辞す。つかつかと女生徒たちの方に歩いていくと、数分ほど何事か言い争っていた。
その数分、フィリップは微動だにせず立ちっぱなしだ。
誰に命じられたわけでもなく、強いて言うのなら人体に備わった危機回避の本能が、「いま無防備になるのは不味い」と全身の筋肉や神経に叫び続け、戦闘態勢を維持させていた。
ややあって、男子生徒が「ふざけるな!」と叫んで言い争いを中断し、こちらに戻ってくる。
その顔は怒りに歪んでいたが、宛先がフィリップでないことは目を見れば分かった。
どうやら、正確な情報を得たらしい。
これで穏便に済みそうだと、ほんの少しだけ肩の力を抜いた、その矢先。
「大変! 失礼いたしました!」
彼はフィリップの前に跪き、深く頭を下げた。
勢いのあまり、膝がとても痛そうな音を立てていたが、気にした様子は無い。
「今回の一件、私には──いえ、私たちの誰にも、貴方を責める権利など無かったようです。それなのに、私は彼女らの言葉を鵜呑みにして、狼藉を重ねて……本当に申し訳ありません! 教師への報告も、その鞭……ウルミ、でしたか、それを用いての打擲も、お好きになさってください」
ずきずき、ずきずき、殴られた頬が疼く。
きんきん、きんきん、泣き声が耳に障る。
がんがん、がんがん、脳が震える。
視界が曇る。
あぁ、もう。全く、本当に、クソ良いパンチだ。こんなにじわじわ効いてくるのは、ウォードの加減を間違えたボディーブロー以来かもしれない。
意識が明滅する。
でも失神の気配は無い。
明瞭な時には、眼前の男子生徒の顔立ちが、やっぱり誰かに似ている様な気がしている。
不明瞭な時には、目の前には合計六つの「的」があった。木人形や紙に書かれた同心円と同じ、何の感想も抱かせないただの「的」が。
「あぁ──そう」
左手で持っていたウルミを、利き手の右に持ち替えて蜷局を解く。
二度、三度と空振りして
「別に、罰を下そうってワケじゃないよ。ただ、そう……一発は一発、だよね?」
子供の喧嘩のような理屈を──事実、子供の喧嘩なのだが、両者の戦闘能力は年相応以上だ──持ち出して、フィリップは数歩ほど下がる。
跪き、首を垂れた彼との距離は3.5メートル。
ウルミが最も高威力になる、フィリップの理想的な攻撃距離だ。
端的に言って、というか。
言うまでもなく、フィリップはブチ切れていた。あくまで冷静に、神格招来をぶっ放さない程度に、ではあるが。
非を認めて謝ったのだから許すべき。
そんな意見には、フィリップも一定の真理を認める。人間は言葉によって罪を雪げる、類稀なる生き物なのだから。その人がましさは大切にすべきだろう。
ただ──
殴られたら殴り返すなんて、考えるまでもなく当たり前のことだ。
「や、やり過ぎよ!」
「そうよ! 男なら武器なんて使うんじゃないわよ!」
野次が飛んでくる。
言うまでもなく、先程から何もしていないのに口だけは挟む謎の女子生徒たちからだ。
謎の、とは身元の話ではなく、その思考形態に係る言葉だ。
「知性の低い魔物だって武器を使う。使わないのは純然たる獣くらいだ。お前たちは「男」がゴブリンにも劣る低能だと思っているのかもしれないけれど、知性ある人である以上──」
「うるさい!」
「意味わかんないこと言わないでよ!」
「彼に何かしたら、先生に言ってやるから!」
残念ながら、彼に何もしなくてもフィリップは職員室に行き、事の次第を報告する。まあ、まずは医務室だが。
頬の痛みもそうだが、頭痛が酷くなってきた。
少し横になりたい。
「目を閉じて、歯を食いしばれ」
狙うは顔面。
フィリップが殴られたのと同じ左の頬だ。
口の中まで貫通するような大怪我になるかもしれないが、なに、ステファン先生の腕なら数分で治る。多分だが。
足首、股関節、腰関節、背骨、肩を動かして構える。
全ての柔軟性を以て、4メートルのウルミを5メートル弱にまで延長する。体そのものを鞭として扱う身体操作は、マリーもやっていた基礎的な鞭術だ。
弓弦の如く引き絞られた筋肉は、しかし。
「すまん、待たせた……カーター!? 何してる!?」
「待たせてごめんなさい……フィリップ!?」
背後で上がった驚愕の声によって、解き放たれることは無くなった。
「せ、聖下!?」
「うそ、なんでここに!?」
「ここここれってどうすればいいの!? 跪くべき!? このままでいいのかな!?」
にわかに騒がしさを増す女生徒たちや、跪いた姿勢を崩さない男子生徒には構わず、ステラは無造作にフィリップに近付く。ルキアは無作法にならない程度の小走りで、ステラに先んじてフィリップの下へ駆け寄った。
ルキアはウルミを握り締めた右手を取り、守るように肩を抱く。
彼女の胸に背中を預けて漸く、フィリップは完全に力を抜いて戦闘態勢を解いた。
は、と、思わず笑ってしまう。
依然として頬も口内も頭も痛いのに──ただ抱き締められただけで、敵意も怒りも霧散してしまった自分自身に。
「フィリップ、一体何が──え?」
「どうし──ふふっ」
左頬の腫れたフィリップが顔を向けると、ルキアは感情の抜け落ちた疑問の声を、ステラはファニーフェイスに向けるに相応しい失笑を漏らす。
「どうしたの、その怪我……いいえ、それにやられたの?」
「喧嘩でもしたのか? それにしては、この状況は異様だが」
顔から流血して泣き喚いている女生徒と、それを囲う女生徒たち。
跪いた男子生徒。それを今まさに打擲しようとしていたフィリップ。客観的に見ると、なるほど、確かに異常事態だ。
「えー……っと」
かくかくしかじかと、一部始終を話す。
二人が来るまでの間、先に身体を動かしていて。
よくわからない流れで模擬戦をすることになって。
よくわからないまま勝って。
「ウルミが直撃したので、当然のように泣き出した、と。私は喰らったことは無いが、お前も未だに慣れない痛みだし、無理もないか」
ハンカチで止血しているセシルを見ながら、ステラは苦い笑いを浮かべる。
「躊躇なく女子の顔面を鞭打つのは、本当にお前らしいな、カーター」
「……そんな感じのロジックで、そこの人に殴り飛ばされて、まあ大体、今に至るって感じです」
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