第92話

 廊下に出ると、既に先程の怒声や扉を叩く音は止んでおり、不穏な静けさが漂っていた。

 無機質で不思議な灯りに照らされた白い空間は、そこにいるだけで不安感を催させる。


 「……何してる?」

 「待ち伏せの確認です。ほぼ確実に、中にいるのは敵ですから」

 「私が確認しようか? 魔物の類なら、魔力の分布で位置を探知できる」


 ドアに耳を当てて中の様子を探るフィリップに、ステラは自分の目を示して提案する。

 

 中にいるのが何か分からない現状、あまり彼女の知覚を鋭敏にしたくはない。流石に見たら発狂するような旧支配者クラスの敵は配置されていないはずだし、人型の何かであるとは推察できている。あとは人型存在にプラスアルファで、ティンダロスの猟犬や駆り立てる恐怖といった、一見して異常だと分かる冒涜的存在がいるかどうかだ。


 一応、変な鳴き声とか、粘液っぽい音はしない。

 それに、確か最奥に向かって左側、つまり浴場の住人の方が比較的理性が残っていそうだった。


 感知即発狂は、たぶん無い。


 「……お願いします」

 「分かった」


 ステラの目に魔力が集中し、視力が強化される。

 しかし単純に物がよく見えるようになるとか、そういった変化はない。機能としては画面の拡大ではなく、チャンネルの変更だ。見る対象を、物質から魔力へと変更する。


 「……中には三人。魔物ではなく人間だな。魔力量から言って、全員三流魔術師といったところか。魔術展開、魔術罠は無い。先手は取れるだろう」

 「……なるほど、ありがとうございます」


 え? すごくない? と。フィリップは自分の耳から得られた量を数倍する情報に、思わずステラの方を見る。


 その動きにつられたか、ステラもフィリップの方を見て、一言。


 「三流と言っても、お前の倍以上の魔力量はあるぞ。油断するな」

 「……あ、はい」


 なるべく音を立てないように鍵を開け、扉を薄く開ける。


 「……本で溢れてますね」


 浴場は廊下やスタート部屋に似て、壁も床も天井も全面がタイル張りだった。光源の無い不思議な灯りは、廊下と比べてやや赤みがかっており、無機質さはやや緩和されている。

 中には書斎から持ち出されたものと思しき大量の本が散乱し、奥に据えられた浴槽に山と積まれ、そこから溢れて流れ出たように床にも散らばっている。かなり広い部屋の床が、ほとんど見えなくなるほどの量だ。


 壁面には大陸共通語と邪悪言語の入り混じった落書き──魔術式の試作や、フィリップでも理解できない絵や図形が所狭しと書かれている。書斎から持ち出したインクで、指を使って書いたものだろう。


 中にいるのは、ステラの言葉通り人間に見える存在が三体。ぼろぼろのローブを着て床に蹲り、一心不乱に本を読んでいる。

 

 動物的なのか、理性的なのか、判別しかねる有様だ。

 本を読んでいるのは知性が残っているからなのか、それとも智慧を得て狂う前の習慣に従っているだけの惰性か。


 どちらにしろ、ここに配置されている以上は敵だろう。

 全員殺すとして、最も安定した策は。


 「……これ、ここから『萎縮』を撃ち込んでいけばいいのでは?」


 それで一人殺す。

 ドアの耐久力は証明済みだし、彼らが出てこられなかったということは、内側から鍵を開ける手段はない。一人殺してドアを閉めて、警戒が解けるまで待ってもう一人殺す。これを繰り返していけば、無傷で全員殺せるだろう。時間はかかるけれど、それは安全と引き換えの必要経費と割り切れる。


 「相手の魔力抵抗に阻まれそうなものだがな。魔術師の体内を流れる魔力は、それ自体がある程度の対魔術防御機能を持つ。私やルキアなら、この距離からでも無視して貫ける程度の強度だが……」

 「僕の魔力じゃキツい、ですか」

 「少なくとも、もう少し近付かないとな」


 ステラはそう言った後、疲れたように苦笑する。


 「それにお前、鍵はまだ持っているのか?」

 「……え?」


 言われて初めて、ポケットに突っ込んだはずの鍵が消えていることに気が付いた。

 それに、ドアノブの下にあったはずの鍵穴も消えている。


 「少なくとも、それは試験の正答ではない、ということだろうな」


 そりゃあ、まぁ、確かに。自分でもどうかと思う作戦ではあったけれど──それを立案すること自体、読まれていたらしい。


 「勢いよく突入して、一番近い奴を殺す。相手が動揺するような素人なら二人目も欲張り、即座に戦闘態勢になるようなら態勢を立て直す。いいな?」

 「奇襲攻撃、ですか」


 先程の安全策ほどではないが、危険度は正面戦闘よりいくらかマシだ。


 「まずは数を減らす。あの程度の魔術師の攻撃は私には通じない。となると、相手は格闘戦を挑むしかないわけだが、白兵戦ではお前が弱く、私もそう強いわけではない。数で負けたら押し切られるぞ」


 戦闘は質と量のバランスが大事だと、ルキアも言っていた。バランスブレイカーである彼女が、そもそも天秤に乗っていないフィリップに、だ。二人とも半笑いで、半ば冗談交じりですらあったけれど。


 魔術展開はできずとも、内包した魔力が健在でその操作くらいはできるステラに、三流魔術師の攻撃魔術は通用しない。しかし、体格的に相手は全員大人の男だ。白兵戦では二人がやや不利。そもそも数的にも不利。メインアタッカーのフィリップの攻撃も、彼らには通じにくい。戦況的にはこちらがやや不利だ。


 せめて先制して数的不利を無くすとして──内部破壊型の『萎縮』、体内に展開する『深淵の息』は両方とも、現代魔術より幾分か魔力抵抗を無視できるにしても、確実に殺せる距離まで近付きたいところだ。


 「……なるほど。ちなみに、どのくらいまで近付いたら魔術耐性を貫通できますか?」

 「見る限り、10メートル圏内なら確実に貫通できる。油断するなとは言ったが、気負う必要もないぞ」


 10メートルなら、部屋に3歩も入れば一番近い個体が有効射程に入る。


 「行きましょう!」


 扉を動く範囲にあった本を押しのけるほど勢いよく開け放ち、浴場へと踏み込む。

 敵は奥に二人、手前に一人。全員が蹲るような視線で地面に置いた本を注視している。


 一歩。全ての個体が闖入者に驚き、身体を硬直させる。

 二歩。奥にいる二体のうちの片方がこちらを向く。だが、攻撃も防御もしてこない。驚きに目を見開いて、ただ愕然とこちらを見ているだけだ。


 三歩目。手前の個体が確殺圏内に入る。全個体、未だ戦闘態勢には入らず。──獲れる。


 「《萎縮シューヴリング》!」


 体内に焼けた鉄柱が生じたような、突発的で耐え難い苦痛に襲われた一体が身体を強張らせて悲鳴を上げる。仲間と、眼前に見えるフィリップとステラと、そして神に助けを乞う悲鳴は、身体が炭化していくにつれて断末魔へと変わる。

 普段のフィリップなら凄惨な死に様を無感動に見下ろすところだが、今回は事前に「欲張れ」と言われている。


 死体と言い表すことすら躊躇われる、人間大の炭の塊に一瞥もくれず、奥にいる二人の片方に狙いを定める。

 しかし、言われた通りのことをしていただけで、特に戦闘慣れしているわけでも、思考が最適化されているわけでもないフィリップは、彼らの言葉に動きを止めてしまった。


 「馬鹿な、領域外魔術だと!?」


 言葉──内容もだが、彼が口走ったのは人語、それも大陸共通語だった。

 人型存在、人間に見える神話生物ではなく、人間か? いや、ステラは確かにそう言っていたけれど──人間レベルの魔術能力を持つ神話生物だろうとばかり思っていた。


 アレが仮に人間だとして、「領域外魔術」とはっきりと口にしたのも気がかりだ。もし仮に領域外魔術を習得しているのなら、魔力量と戦闘能力の相関性が一気に薄れる。


 「《深淵の護り》!」


 疑問によって生じた隙に、片方が魔術を詠唱する。

 咄嗟にフィリップを庇う位置に立ったステラだったが、その耐魔力の効果を見ることは無かった。


 床面から水のヴェールが湧き出し、彼らを守るように聳える。

 直感的に、フィリップの魔術はこれ越しに撃てない、撃っても効果を発揮しないと分かる。ステラの目にもそう映るようで、彼女は「対魔術防御だな」と端的に告げた。


 攻撃を中止したフィリップに、残敵の片方が問いかける。


 「……貴様、先刻の暴風を生んだ術者か?」


 フィリップは答えず、ステラも無言を貫く。

 ステラは会話の必要性を認めず、フィリップは想定以上に理性を残しているらしい眼前の存在──完全に人間のように見えるモノに驚愕しているからだ。


 「答える気はない、か。ここが神の繭を奉る場所だと、知ってはいるようだな」


 人型存在が憎々しげにフィリップを睨み付ける。

 しかし、反撃はしてこないようだ。あの水のヴェールも他の領域外魔術同様、使い勝手は良くないらしい。魔力を大幅に食うのか、或いはあれ越しでは術者本人も魔術を使えないのか。


 彼らの敵意を完全に無視して、フィリップはとても感心していた。──すごい、凝ってるな。と。


 ここは精神空間、フィリップの意識を閉じ込めた試験のための空間だ。

 実在するどこかではなく、ナイアーラトテップが作り出した世界。実在するどこかを参考にしているかもしれないが、そこそのものではない。あくまで数十分前に作り出された、仮想の世界だ。


 敵の存在は確定していたけれど、まさかバックグラウンドまで設定されていたとは。


 まぁ、ナイアーラトテップの凝り性はさておき。


 「ヒトに見えるなぁ」

 「……お前、私の話を聞いていなかったのか? 魔物ではなく人だと言ったはずだが」

 

 フィリップとステラの会話を聞き取り、ローブの男二人がニヤリと笑う。

 その表情に込められた明確な嘲弄に、ステラが不快そうに眉をひそめ、フィリップも疑問と不快を綯交ぜにした微妙な表情になる。


 「ヒトだと? 貴様らの目にはそう見えるか。だが無理もない。我らは確かにヒトだった」


 人間と過去形で自慢げに言って、男たちはローブを引き裂くように脱ぎ捨てた。


 「ッ……!?」


 フィリップが驚愕の声を押し殺し、ステラも無言ながら目を瞠る。


 素肌が剥き出しになった上半身には、魚の鱗のようなものがびっしりと生え揃い、てらてらと生物的な光沢を放っている。粗末な布製のズボンに覆われた下半身も、きっとそうなのだろう。

 首元には左右に三条ずつの切れ込み──エラのような器官が見て取れ、その周りも頬辺りまで鱗に覆われている。


 「馬鹿な、魚人マーマンだと!? いや、魔力は確かに……」


 ステラが自分の目を疑い、口走る。

 物質を見る目は眼前の存在を人と魚を掛け合わせたような魔物、魚人マーマンだと主張する。しかし、魔力を視る目は眼前の存在を間違いなく人間の魔術師だと断定している。


 彼女の言葉に、フィリップは答えられない。

 あれは──フィリップの智慧に無いものだ。


 かつて地球に飛来したクトゥルフを追い、信仰に殉ずるため自らも地球に堕ちたダゴンとハイドラ。彼らの末裔にして同族である深きものどもディープワンズ──では、ない。

 彼らにしては少し人間に近すぎるし、彼らとヒトの交配によって生まれた混ざりものと言うにも、まだ人の要素が強い。変態途中? いや、そもそも、彼らディープワンズであれば、ダゴンの手先として智慧にある。フィリップが正体を看破できない時点で、あれらではない。


 「魔物と一緒にされては困るな! 我々は『招かれたもの』! 真なるダゴン教団最後の生き残りであり、新たなる神に仕えるものだ!」


 色濃い疑問を浮かべたフィリップとステラに勝ち誇ったような嘲笑を向け、彼らは彼らをそう定義した。



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