第90話

 フィリップとしては、死亡リスクのあるステラは安全なところに居て欲しいというのが本音だ。

 とはいえ、じゃあスタート地点の白い部屋は安全なのか、と訊かれると、それには頷きかねるのも事実。この試験空間に安全な場所がある確証すら持てない。


 仕方なく、フィリップはステラを伴って、まずは『書斎』を探索することにした。


 ノブを回し、鍵がかかっていないことを確認する。

 体術には自信ありと自称するステラがドアを開け、フィリップは少し離れたところで魔術を構えて待機する。


 何が出てくるかは不明だし、この部屋はさっきも静かだったのだから何も出てこないでくれとは思うけれど、準備して警戒しておくに越したことは無い。

 ステラが三本指を立て、3カウントで開けると示す。フィリップも無言で頷いて了承を示し──


 「……ッ!」

 「……大丈夫みたいです」

 

 何も出てこないし、中には何もいないようだ。


 部屋の中はほんのりと薄暗く、廊下やスタート部屋のような無機質かつ光源の不明な白い光ではなく、壁に備え付けられた暖炉の暖かな色の炎で照らされている。

 足元には毛足の長い赤いカーペットが敷かれ、暖炉の前には安楽椅子が二つ、最奥には高級そうなデスクが置かれており、書斎と談話室の中間のようなレイアウトだ。


 しかし、二人はその空間と扉に書かれた『書斎』の文字を見比べて、首を傾げる。


 「……なんか」

 「違和感がある、か? そうだな。書斎と銘打っておきながら、本が一冊も無い」


 暖炉がある左手側の壁にも、机がある奥側の壁にも、本棚がある。右側の壁は一面が造り付けの本棚になってすらいるのに、そのどこにも本が無い。只の一冊もだ。

 空っぽの本棚が並んでいることも、誰もいない部屋で暖炉の火が燃え盛っていることも、もちろん異常ではあるのだけれど──何より、机の上に置かれたトレイが目を引く。


 トレイにはなみなみと水の入ったピッチャー、二つのコップ、そしてサンドイッチが二人分載っている。

 外ではおやつの時間なのだろうか。生憎、ルキアに貰った懐中時計は持ち込めていないので時刻は分からないけれど──いや、そんな場合ではなく。


 「……これ、食べてもいいと思いますか?」

 「……分からん。そして、分からない場合は食わないのが一番だろうな。取り敢えず、部屋を探ってみよう」


 全くその通りだと、フィリップは頷く。

 ナイアーラトテップがフィリップの状況対処能力を見るために課したこのテスト、何が課題として与えられるのかが全く分からないのが最難関だ。


 まだ温かいパンに挟まれた瑞々しい野菜や肉汁の輝く肉を見れば、少なくとも腐っていないのは一目瞭然だけれど、毒入りでないとは限らない。

 幸いにして、これまで毒を飲んだり飲まされたりしたことは無いけれど、似たようなものならある。見るもの全てを「美しい」と思わせる麻薬とか。


 「…………」


 嫌なことを思い出した。

 ちょっと水でも飲んで休憩──とは行かないだろう。見る限り、水は透明で、先ほどまで無かった結露が、ピッチャーの表面に付き始めている。これもサンドイッチと同じく、たった今用意されたもののようだ。


 だからこそ、怪しすぎる。


 「……あの、殿下。食べ物を作る現代魔術ってありますか?」

 「現代魔術?」


 ──おっと。口が滑った。

 え? そんな迂闊なことある? と言う次元で──口が、滑った。


 ここ最近、ずっと領域外魔術に触れていたからだろうか。魔術と一言で表した場合に、ぱっと浮かぶのがそちらになりつつある。

 世間で一般的な魔術とその埒外にある領域外魔術、ではなく、フィリップの使う魔術とフィリップが使えない便利で素敵な現代魔術、という脳内カテゴライズも確立してきた。


 おかげで、ステラには「何言ってるんだこいつ」という目線を頂いているけれど──さて、どうしようか。


 別に、ステラに怪しまれたり、フィリップの使う魔術と通常の魔術が全く違う系統のものだと露見するくらいなら問題はない。

 問題になるのはそこではなく、現代魔術にまつわる「神が与えたもの」とかいう逸話だ。少なくとも人間世界に於いて、魔術はそういうものだと認識されている。


 では、そこで全く別系統の魔術を使うと露見すればどうなるか。

 悪魔とか魔女とか、その手のものだと疑われるくらいなら穏便に対処する自信があるけれど、「カルトか!」なんて言われた日には。


 「お前、妙な言葉を知ってるな? 確かに、一般普及している魔術を『現代魔術』、教会の儀式や降霊といった別体系魔術は『秘蹟』と呼び分けることはあるが──あぁ、そういえば、お前の師は神父だったか」

 「……まぁ、その、はい。で、どうなんです?」


 心の中で安堵に頽れながら、努めて冷静に問いかける。

 尤もフィリップの演技力では、ステラに違和感を抱かせないよう取り繕うなんて芸当は不可能だ。ステラが何の引っ掛かりも無く「だよな」と納得してくれたのは、彼女が空の本棚に何かありはしないかと真剣に目を走らせていて、いちいちフィリップの言葉を疑ったりしている余裕が無かったのが大きい。


 「そんな便利な魔術は無い。一説によると、パンとワインを作り出す秘蹟が存在するらしいが、少なくとも現代に使い手は残っていないはずだ」

 「……そうですよね」


 そして領域外魔術に便利な魔術などない。「パンを作り出す便利な魔術」ではなく、「便利な魔術」が存在しない。フィリップの知る限り、という非常に狭い範囲では。


 と、なると。このおやつセットはギミックか、ナイアーラトテップの権能によるもの。

 前者なら毒入りサンドとか、水じゃなく強酸性の劇物とか、その手の即死トラップの可能性もある。だが後者なら、たぶん普通の差し入れだ。ここが精神世界で、ここでの死が現実の肉体に影響を及ぼさないとはいえ、あのナイアーラトテップがフィリップに毒を盛るとも、ヨグ=ソトースがそれを黙認するとも思えない。


 「……おい、何やってる?」

 「いえ、水だけでも飲めないかな、と」


 水の臭いを嗅いでみたり、机に数滴垂らして反応を見たり、思い切って指先でちょっと触ってみたり。色々と試していると、ステラが訝しげに、そして心配そうに覗き込んでくる。


 「これ、たぶん無限に水が出てきますね」


 本物の『魔法の水差しマジック・ピッチャー』だ、と苦笑しながら言うと、ステラも呆れたように笑う。


 「それが水なのかどうか、判断が付かないだろう? 魔術的な罠ではないようだが、毒入りでないとは言い切れん」

 「……あの」

 「試すなよ? さっきも言ったが、お前が死んだ場合、私がここから無事に出られる可能性は高くない」

 「……はい」


 フィリップ一人なら、ある程度の確証が持てるまで実験して、最後は「たぶんいける!」とか根拠のない自信を持って飲み食いしていたところだけれど。でも今は、同じ空間にステラがいる。

 フィリップの死が彼女の死、或いは狂気に繋がる可能性がある以上、迂闊な行動は避けた方がいい。


 別に彼女が生きようと死のうとどうでもいいけれど──ナイアーラトテップの不始末の責任を負わされるのは、非常に不愉快だ。

 それに彼女はルキアの大切な友人だ。悲惨な死を遂げたと報告して、彼女を悲しませたくはない。


 「……本棚には何も無さそうだな。カーター、机はどうだ? 何かありそうか?」

 「ちょっと待ってください。えっと……引き出しがあります。開けますね」


 離れたところからでも魔術罠の有無を判別できるステラは目を凝らし、安全を確認したうえで「あぁ」と肯定する。

 フィリップはその少しのラグに「なんでちょっと悩んだんだろう」と首を傾げつつ、机の引き出しを開けた。


 よく手入れされているらしく、引き出しはとてもスムーズに動いた。

 中も塵一つなく綺麗に磨かれており、中には銀色の指輪と、赤銅色の鍵が入っていた。


 「なんですかね、これ。こっちは……たぶん、浴場か応接間の鍵で……いや、浴場の鍵ですね。書いてありました」


 キーホルダーなどは無く、一見して何の鍵かを判別するのは難しい。

 しかしよく目を凝らして見れば、持ち手の部分に小さく『浴場』と彫られていた。


 指輪の方は外側にも内側にも何も書いておらず、どころか装飾の一つもない簡素なものだ。

 地味だとか武骨だとか、その手の否定的な感想が浮かばないのは、よく磨かれており、暖炉の灯りを美しく反射させているからだろうか。


 「ん? カーター、指輪を貸してくれ」

 「いいですよ」


 手渡すと、彼女はそれをじっくりと検分してから左手の人差し指に嵌めた。

 そしてフィリップに意味ありげな視線を向け、その手を机に置かれたトレイに翳す。何が起こるのかと一連の動きを見ていたフィリップの期待は、数秒の後に彼女が手を下げたことで収束した。


 「……何ですか、その指輪?」

 「毒を検知する指輪だ。食べ物や飲み物に毒が入っていると、この指輪が黒く濁る。……尤も、これを掻い潜る魔術毒は何種かあるが」


 魔術毒はステラの魔術耐性によって無効化されるし、そもそもステラの目を掻い潜る魔術毒は存在しない。


 そのステラの目と、この指輪によると。


 「これらに毒は含まれていない。暖炉、食事、安楽椅子。……どうやら、ここは休憩所のような場所らしいな」


 なるほど、言われてみれば休憩所兼探索拠点として申し分ないレイアウトだった。


 「じゃあ、これは食べても平気なんですね。……実は、結構喉が渇いてて」

 「私もだ。まだ口の中に胃液の味が残ってる」


 手と口を漱ぐためだろう、コップ一杯分の水を持って部屋を出て行ったステラに多少の不安感を覚えつつ、フィリップは一人分のサンドイッチを持って安楽椅子に座った。

 暖炉の暖かさと安楽椅子の揺れが心地よい。……これ、満腹になったら寝るやつだ。


 「不味いなぁそれは。非常に不味い。……美味しいなこれ」

 

 こんなところでお昼寝している場合ではないし、そもそもここが安全かどうかも定かでは無い。

 直撃ではないとはいえハスターの毛先に耐える扉だ。中にいる神話生物がぶち破って襲ってくるとは思えないけれど、あれら以外の襲撃者がいる可能性は排除できない。


 ──と、真面目なことを考えつつ、サンドイッチを完食する。

 事前の想定通り、食べ終わったらなんだか眠くなってきた。


 「……正気か、こいつ」


 毒の入ったポーチとナイフを机の上に放り出して、安楽椅子に揺られて眠るフィリップに、部屋に戻ってきたステラは愕然と呟いた。


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