第89話
重厚な扉を閉めていた閂は、領域外魔術によって炭化してもなお、フィリップとステラの体当たり5回に耐える強靭さだった。
ストレスのせいか、最近ちょっと痩せたフィリップ。女性的な魅力に富んだ、メリハリのある体つきのステラ。二人合わせて、筋肉質な大人一人分ぐらいの重量はあるはずだから、扉そのものの耐衝撃性も相当なものなのだろう。
「……崩れましたね」
「閂を炭化させ、衝撃で破砕か。賢いな」
ステラが少し意外そうに言って、わしわしと犬にでもするように頭を撫でる。
少し気恥しいが、機転を褒められるのは悪い気はしなかった。ただでさえここ最近はナイ教授という、フィリップを煽るためだけに顕現したような化身が傍にいたのだし。
照れ隠しに「意外とこれで出られるかもしれませんね!」と、思ってもいない希望を口にして、扉に手を掛ける。
もちろん、いつでも『萎縮』を撃てるように身構えて。
「…………いや、え?」
めちゃくちゃ重い。
もちろん外観から「寮のドアの5倍ぐらい重そうだな」とは想像が付いていたけれど、5倍どころではない。実はまだ閂がかかっていて、ドアの覗き窓の部分だけ超ピンポイントで崩れたのではないかと思わせるほどだ。
フィリップとステラの二人で力を合わせて押してようやく、扉が少しずつ動き始めた。
金属同士が擦れる耳障りな音を我慢しながら、押し続けること数秒。フィリップの顔くらいの幅がある枠と扉の間に、向こう側が見える程度の隙間が開く。
「待て」
ステラの制止に、フィリップは即座に従った。
ステラが止めなければ、フィリップが彼女を止めていただろう。危機意識の共有は完璧だった。
「まずは様子見だ」
こくこくと頷き、扉と枠の隙間に顔を近付ける。
外はどうやら廊下らしく、似たようなタイル張りの床と壁が見える。灯りも窓もないのに明るく、フィリップたちの位置からはまた別の扉が見える。
そして最も重要で、二人が最も警戒していた敵の気配は無い。姿も痕跡も、見える範囲には無い。
どうやら出てもよさそうだ。
「……出てみないことには、何も始まらんか。カーター、ポーチとナイフを」
「あ、はい」
テーブル上に置きっぱなしだった二つを取って戻る。
フィリップには領域外魔術があるが、ステラは丸腰だ。戦闘を想定するなら、ナイフは彼女が持っておくべきだろう。
「……どうぞ」
渡し方にも儀礼的な作法があったはずだよなと考えるも、結局思い出せずに柄の方を向けて差し出す。
ステラはそんな思索を読んだのか、くすりと笑って受け取った。
「ありがとう。だがナイフがあっても、魔術の使えない私には、護身術の達人くらいの戦闘能力しかないからな。武力面での期待はしてくれるなよ」
「達人って。自分で言っちゃうんですか?」
少しだけ笑い合って、扉に向き直る。
見える範囲に動くものは無かったが、最悪、敵性存在が扉の裏で待ち構えている可能性だってある状況だ。
「私が扉側、カーターは反対側だ。人間がいた場合、警告は二回か、相手が三歩以上動くまでだ。近付かれる前に、相手が魔術を展開する前に撃て」
「……了解です」
こくこくと頷く。
この手の魔術戦や遭遇戦に関する知識は殆ど無いし、ルキアやナイ神父に教わったことも無かったから有難いレクチャーだ。初級魔術では魔術戦なんてできないし、領域外魔術は撃った時点で勝ちだ。まぁ、撃たれてもヨグ=ソトースがどうにかするので、相手の死という意味ではフィリップの勝ちかもしれない。
「行くぞ。せーの!」
扉と枠の擦過が無かったからか、先ほどよりもスムーズに扉が開く。
90度に開けた扉が背中を守ってくれる位置に飛び出し、ステラに言われた通り扉の表側を確認する。──何もいない。
「よし、敵はいなさそうだが……油断するなよ。扉がある」
フィリップたちがいたのは、廊下の端の部屋だった。
部屋を出て左側はすぐ壁で、右側は20メートルほど先が突き当りだ。正面に一つ、その10メートルほど隣に一つ、その向かい、いま出てきた部屋の隣にも一つ、そして右側突き当りの壁に一つ。この部屋と合わせて合計5つの扉がある。
三つの扉は高級そうな艶のある木製で、金属製のノブの下に鍵穴が見える。扉にはそれぞれ金属製のネームプレートが貼られており、正面は『書斎』、隣は『応接間』、はす向かいは『浴場』と、それぞれ読み取れる。
突き当りの部屋だけは両開きの鉄扉でネームプレートは無く、閂と錠前で厳重に閉ざされている。おそらく、あそこが出口なのだろう
フィリップの拳より大きな金属錠は、なんとも威圧感があるけれど──たかが金属の塊だ。ハスターの毛先、ナイアーラトテップの化身を肉塊にするレベルの攻撃力の前には、紙細工にも等しい。
先ほどの単一空間とは違い、今は部屋と廊下、二つの空間がある。
ステラからフィリップの様子が見えず、聞こえない位置に居て貰うことは可能だろう。
「……さっきの魔術で、鍵も破壊できるか?」
「それは分かりませんけど、もっと高威力の魔術があります。ドアごと吹っ飛ばしちゃいましょう」
最奥の扉が出口だろうということは、言うまでも無く共有できている。
爆発に近い影響があると話してステラには先ほどの部屋へ戻ってもらい、フィリップは最奥の扉の前まで進む。
爆発から身を守るときの鉄則は幾つかあるが、耳を塞ぎ、目を押さえ、口を開けるというのは大前提だ。そして、それはフィリップの詠唱とそれに含まれる邪神の名前という毒からも、十分に守ってくれる。
ステラが部屋に戻ったのを確認して、フィリップはとりあえず錠前に対して『萎縮』を撃ち込んでみる。
予想通り、魔術は機能しなかった。
なに、構わないとも。
どうせこれから扉ごと吹き飛ばすのだから。
「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい あい はすたあ」
覚えのある感覚。こことあちらが魔術を通して繋がり、しかしそれだけで終わる不発の感覚だ。
風属性の最大神格は招来されず、その力の末端だけが顕現する。最終的な現象は暴風の発生。横方向に伸びる竜巻の如き大破壊だ。
魔術は大音響と共に錠前と閂のついた扉へ衝突し──ぱぁん、と。弾けるような音と共に、魔術の方が砕け散る。
床のタイルも他の扉も、余波で簡単に壊れそうなものにも、何の影響も与えていない。
「……まぁ、うん。実はそんな気がしてた」
負け惜しみ半分に呟いて、ステラのところへ戻る。
フィリップの表情から大体の結果を察したらしく、フィリップが何を言うまでも無く「まぁ、そうだろうな」と納得したように頷いていた。
「強力な一撃によってのみ解決する問題より、細やかな魔術の運用や機転が求められる場面の方が圧倒的に多い。……なかなかいいテストじゃないか」
ナイアーラトテップがその辺りを妥協することはないだろうし、この分だとクトゥグア召喚による空間そのものの破壊も難しいだろう。
そもそも意識を隔離した異空間なので、正当な出口以外からの脱出は不可能だと考えていいはずだ。
「じゃあ、やっぱり、他の部屋を見るしかありませんね。鍵を探す、という方向でいいんでしょうか」
「そうだろうな」
方針を決めつつ、廊下へと戻る。
開始地点と出口らしき最奥の扉を除き、選択肢は正面の書斎、隣の応接間、はす向かいの浴場の三つだ。
「どこから──」
「──静かに」
ステラが唇に指を当て、ボディランゲージでも「静かに」と示す。
フィリップは素直に従い、口を噤んで耳を澄ませる。
……どん、どん、と。微かに、そして断続的に、鈍く低い音がする。
足音? いや、違う。これは──
「……扉を、叩いている? 人がいる……と、思うか、カーター?」
「……いいえ。居たとしても、敵対してくる可能性が高いです」
スタート部屋の隣と、はす向かいの部屋の扉だ。内側から複数人が断続的に扉を叩いている。
ノックなんて生易しいものではなく、木製の扉を破壊して、こちらへ出てこようとしていると分かる激しさだった。
「──!!」
「──!!」
何事か、叫んでいる。
助けを呼ばれているとか、この場の危険性を訴えてくれているとか。あとは本当に最悪の可能性として、ルキアや衛士たちといった、見捨てるわけにはいかない人がいるかもしれない。
そう懸念し、フィリップはゆっくりと、二つの扉の真ん中あたりまで進む。
「……おい、カーター」
止めようと伸ばしたステラの手は、フィリップには届かず空を掴む。
幸いにして、或いは残念ながら、ここにフィリップとステラ以外の人間はいないようだった。
漏れ聞こえてくる「声」は大陸共通語ではない。
しかしフィリップには、その言葉の意味が難なく理解できた。彼らは──怒っている。
「排斥せよ」「擯斥せよ」「排除せよ」「駆逐せよ」。右側の部屋では、その繰り返しが聞こえてくる。
「神の仇を誅殺せよ」「眠れる神に安寧を捧げよ」「我らが神に献身せよ」。左側の部屋から、怒鳴る声が聞こえてくる。
左の部屋の住人の方が、まだなんとなく理性が残っていそうだけれど──どちらの部屋の住人とも、仲良くなれそうにない。
部屋の中にいるのは、どちらも奉仕種族か、それに類する従属種族だろう。信仰対象までは分からないけれど、フィリップにここまで敵対的なら外神ではないだろう。旧支配者か旧神の手先か。
「……敵ですね。幸い、扉は破壊できないみたいです。まずは音のしない部屋から探索しましょう。……殿下?」
無視? と、ちょっとショックを受けながら振り返ったフィリップの視界に、ステラはいなかった。
「……王女殿下?」
嫌な予感を抱きながら、足早にスタート部屋に戻る。
幸いにして、ステラが物言わぬ肉の塊になっている、なんてことはなかった。とはいえ、全く無事という訳ではない。
「だ、大丈夫ですか!?」
部屋の端に蹲り、どろどろと胃の内容物を吐き戻しているステラに駆け寄る。
とりあえず背中を擦り、落ち着くのを待つ。
吐いているのは昼食と胃液のようだ。血が混じっていたり、海水がとめどなく溢れていたりはしない。
「……ありがとう。大丈夫だ」
左手で口元を拭い、その手を虚空に向けて差し出す。数秒ほど硬直して、彼女は苛立ちも露わに舌打ちした。
「そうだったな。ここでは魔術が」
ぶちまけた吐瀉物も胃液の味が残る口内も、普段なら魔術でどうとでもできるのに、今はその不快感に耐えるしかない。
「……すみません。そういう便利な魔術は使えなくて」
「お前は何も悪くないだろう。謝るな」
フィリップの頭に手を伸ばし、しかし触れる前に止める。
右手には血の滲むシャツ、左手の袖では口元を拭った。どちらの手でも、頭を撫でて慰めるのは躊躇われる。
「……それより、さっきのアレは何だ? お前は平気なのか、あの音?」
「音? ……あぁ。体質かもしれませんね」
彼女のいう「音」の指すものと、その正体に見当のついたフィリップは、ひとまずそう誤魔化す。
二つの部屋から聞こえていた怒声──あれは邪悪言語だ。
人間という劣等種族が使うことを想定していないというか、人間以上の発声能力と聴覚、知性を持つ存在が、神と交信するために造り出した言語体系。人間の口や舌では正確に発音できず、人間の耳や脳では理解できない。フィリップのような一部の例外を除いて、という但し書きは付くけれど。
フィリップの下手な誤魔化しに、彼女は疲れたように笑った。
「らしいな。どうやら、この空間は本格的にお前向きらしい」
「そりゃあ、まぁ、僕のための試験で、そのための空間ですからね。その……やっぱり、殿下はこの部屋で休んでいてください。流れで一緒に探索してましたけど、これは僕のテストですから」
ステラは自分がここにいるのは自分の所為だから、自分も脱出手段を探すべきだと考えているのかもしれない。
それは主体的でいいことだとは思うけれど、この場に於ける積極性は美徳ではない。目を閉じて、耳を塞いで、部屋の隅で蹲っているだけで問題が解決する、数少ない場面が今だ。
ステラはフィリップの言う通り別行動した場合の、メリットとデメリットをさっと思索する。
この空間に於いて、ステラの戦力評価は大きく下がる。魔術が使えない現状、護身術──と、本人は呼んでいるけれど、これは近衛騎士団長に教わった軍隊格闘術だ。相手の武装が無手か通常の直剣なら、近衛騎士団中位程度の実力者までならボコボコにできる。
魔物との戦闘になった場合、フィリップが魔術を撃つ時間稼ぎくらいはできるだろう。とはいえ、衛士団のような精鋭相手には手加減された上で優しく負かされる程度でしかない。相手が龍種のような圧倒的な力と体格を持つ場合は、気を引くくらいが関の山だ。
しかし、自発的な魔術が使えないだけで、魔力を感じ取る感覚や、術式を読み取る視力は健在だ。
今後、魔術的なトラップやギミックに遭遇した時にはフィリップより的確に対処できるだろう。内包する魔力が消えたわけではないから、大抵の魔術罠は耐性だけでレジストできる。
探索・戦闘の両面において、ステラはそれなりに役に立つ。
デメリットは──まるでステラを拒むかのようなギミックが、この空間には存在することだ。例えば先程の「音」のような。
フィリップにアレに対する耐性があったから良かったものの、二人ともが体調不良、あるいは戦闘不能に陥る可能性だってあった。あの手の未知の、そしてステラの魔術耐性を貫通してくるようなギミックがある以上、ペア行動にはリスクがある。片方が無事なら助けを求められる状況でも、二人ともが喰らってはどうしようもない。
メリットが2、リスクが1。
もちろん、個数ではなく厳密な数値化をして判断するけれど──その上で。
「……いや、一緒に行こう。それがこの場の合理的最適解だ」
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