第32話

 この日二度目の目覚めは、一度目のものより何倍も不快だった。


 全身が軋みを上げて痛む。どこも折れてはいないようだが、激しく打ち据えられた打撲痕と内出血は酷いだろう。

 耳障りな哄笑と、ゴキブリのように這い回るカルトの気配が神経を逆撫でする。


 手は見覚えのある枷で縛られており、一切の魔力操作が封じられている。こうなる前にカルトを森ごと焼き払っておけばと思うも虚しい。


 胴体は木に縛られており、座った姿勢から立ち上がることもできない。

 本格的な詰みの気配を感じつつ、ルキアを探す。


 周囲を見回すが、地面に魔法陣を描いたり、祭壇を準備しているカルトの群れしか見えない。あとは木に磔られた、いつ死んだのかも分からないオブジェのような死体が幾つか。頼むから死んでいてくれるなと、当てもなく祈る。

 誰が願いを聞き届けたのかは不明だが、ルキアはすぐ近くにいた。


 フィリップの動きを感じ取り、同じ木の反対側に縛られていたルキアが囁く。


 「フィリップ、無事ね?」

 「……はい」


 囁き返すと、安堵の空気が伝わってくる。

 何とか二人とも無事なようだが、ここからどうすべきか。


 フィリップの中ではカルトの鏖殺は決定事項となりつつあるが、それはルキアの精神衛生や身の安全には優先されない。

 ここでギブアップしてヨグソトースに頼るというのはナシだ。ここは逃げ、その後、マザーなりに頼んで森を制圧する。他力本願と笑うがいい。召喚術とはそういうものだし、クトゥグアやヤマンソより幾らかマシなはずだ。たぶん、きっと、おそらく。……マシだと嬉しい。


 「どこか痛む?」


 フィリップが諦観交じりに瞳をどろどろに濁らせていると、ルキアが心配して声を掛ける。慌てて取り繕い、フィリップはルキアに心配を返した。


 「サークリス様こそ、ご無事ですか?」

 「えぇ、大丈夫よ。ありがとう」


 おや? と。フィリップは首を傾げる。

 今までのルキアの対応はどちらかと言えば無感動で、社交辞令的な印象が強かった。だが今は、どうにも返答に感情というか、熱がこもっているように感じる。


 だが、悪い方向への変化ではないし、今はそんなことを気にしている場合ではない。


 「サークリス様、魔術は使えますか?」


 言ってから、ルキアもフィリップと同じ状態ではないのかと気付く。

 期待薄になった質問にしかし、ルキアは肯定を返した。


 「えぇ。ただ、枷を壊すのに一瞬かかるわ」


 感嘆の口笛を吹き──そのあまりに迂闊な行動に、我が事ながら愕然とする。

 そもそもあまり品のいい行為ではないし、目上の人にやるべき行為でもない。普段のフィリップなら普通に自制していたであろう行動だった。


 幸いにもカルトも黒山羊も気づいていないようだが、あまりに馬鹿すぎる。


 微かに回転の鈍い頭で考えて、ふと思い当たるものがある。


 酒か?


 昔、宿の仕事を手伝っていたとき。客が美味そうに飲んでいた酒に興味を持って、コップ一杯ほど呑んでみたことがある。その時に感じた酩酊感は、いまの状態によく似ていた。

 まさか捕虜に酒を飲ませる訳もないので、単に酩酊効果のある薬か何かだろうと察する。


 魔力を制限する手枷に、木への拘束。ついでに酩酊剤。

 結構な念の入れようだが、幸い、フィリップもルキアも泥酔には至らないし、ルキアに至っては制限装置のキャパシティが魔力量に追いついていない。


 何とかなりそうか? フィリップが脱出の具体案を考え始めたとき、二人の方に一人のカルト信者が近付いてくる。

 

 「お目覚めですか。母の愛し子よ」


 慇懃な口調で、彼はフードを取って深々と頭を下げた。

 フィリップへ向ける視線には確かな敬意が宿っており、その態度が上辺だけのものではないと理解できる。


 一瞬だけ脳裏を過った「外神の化身か」という推察は、すぐに違うと自答できる。

 外神は確かにフィリップを守ろうとするが、それは最大神格の命によるものだ。フィリップへの敬意など一片も持ち合わせていない。


 神威とでもいうべき暴力的な存在感も無く、嫌悪感も無い。完全にただの人間に見えた。


 「こうして相対すると、確かに分かります。貴方の宿す、その叡智が」


 男は裂けるような笑顔を浮かべ、フィリップの頭部へ手を伸ばす。

 触られる前に払いのけるつもりだったが、彼ははっと気づいたように手を引っ込め、頭を下げた。


 「失礼いたしました。自己紹介もせず。……私はアルト・ハイマンという男の身体を間借りしている、ある種族のネゴシエーターです」


 身体を間借りするという異常なワードに、フィリップは寄生虫を想起する。

 その嫌悪感が視線に乗ったのか、男は苦笑を浮かべて早口に弁解を始めた。


 「お断りしておきますが、勿論、合意の上で、ですよ? 彼には我々に知識を提供して頂き、我らもまた彼に知識を提供しているのです。智慧の集積地、我らが大図書館へのアクセス権を与える代わりに、蔵書と智慧の寄贈を求めたまでのこと。彼も合意して、今は快適な執筆作業の最中です」


 断片的に会話を漏れ聞いていたルキアが「殺す?」と囁くが、フィリップは否定を返す。

 この男、肉体的には人間だが、智慧がある。おそらく、対魔術防護くらいの用意はしているだろう。


 「まぁ、それはさておき。我々は貴方にも是非、智慧の供出をお願いしたいのです。対価は望まれるものをご用意いたしますので」


 その一連の主張。フィリップは──


 フィリップに智慧を与えたのはマザー──シュブ=ニグラスだ。その智慧によって、フィリップは外神の視座と価値観を理解している。

 同じ陣営ながら潜在的な敵でもある外なる神を知っている。かつて産み落とし、そして全宇宙を巻き込んだ大戦争を交えた旧支配者を知っている。ともすれば旧支配者の喉笛を食い千切るかもしれない、優秀な奉仕種族を知っている。


 だが、そこまでだ。


 人間ごときが持つ智慧を求める矮小な種族や、人間の脳を研究する意味不明な種族のことなど、シュブ=ニグラスは一切認知していない。

 たとえ彼らがシュブ=ニグラスの信奉者であろうと、幾度となく生贄を捧げる儀式を行い、戯れに化身を召喚させることがあっても、その記憶や目に留まらない。


 フィリップに与えた智慧の中に無価値なものは無い。逆に言えば、外神の視座から見たあらゆる無価値なものについて、フィリップは知らない。


 故に、なんだこいつ、と。

 フィリップはただの狂人を見る目で、無価値なものを見る目で、男を睥睨する。


 視線を受け、彼は困ったように笑った。


 「信用できないのは承知の上ですが、このままだと、我らが母への供物にされてしまいますよ?」


 すっと半身を切り、祭壇とその奥にいる黒山羊を示す。


 我らが母──シュブ=ニグラスの召喚儀式か。

 テストの失敗条件はマザーの降臨? いや、そもそも──これは、本当にナイ神父の用意したテストなのか?


 ナイ神父がテストを作るのなら、そんな甘っちょろい終了条件を設定するはずがない。アレはもっと面倒で、残酷なテーマを用意するはずだ。

 となると、仮説の大半が棄却され、新たな仮説が立つ。


 仮説1。出てくるのはマザーじゃない別の邪神。ナイ神父の性格を加味するのなら、フィリップに敵対的な神格?

 棄却だ。ヨグ=ソトースに匹敵する邪神が存在しない以上、何が出てきても本質的には無意味。あくまでフィリップが自力で対処できる範囲で、かつ適度にいろいろと捨てさせる強さでないといけない。


 仮説2。……実はテストでも何でもない、ただそこにいたカルトと黒山羊。

 棄却──できない。


 カルトの演説は続く。

 とはいえ、と、それだけが選択肢ではないことを強調する。


 「今宵は新月。そして母の寵愛を受ける貴方と言う供物。我らが神をお呼びするのに、これ以上の条件はありませんから」


 母の寵愛というワードが出る辺り、フィリップの特異性には気付いているはず。だが一部だけだろう。まさか最大神格の寵愛すら受けているとは思うまい。

 単なる人間にシュブ=ニグラスの知識があるとは思えないが、それは今はどうでもいい。カルトはどうせ皆殺しだ。


 「貴方の智慧が無為に失われるのは、私としても許し難いのです。そこで、貴方の精神だけでもこの場から逃がし、しかる後に適当な肉体に戻すという方法にはなりますが、助けて差し上げようかと」


 自信満々にそう言って、男は握手を求めるように片手を差し出す。


 狂人の戯言に時間と思考を費やす余裕はない。失せろと吐き捨てると、彼は驚愕に目を瞠り、そして歓喜に身を震わせた。


 「おお、おお! クロガサテングダケの服従作用に抵抗するとは! やはり母の寵愛を、シュブ=ニグラスの乳を口にしたのですね!」


 ──は?


 全ての思考が吹き飛ぶ。

 脳が全力で記憶の走査を開始し、智慧とすり合わせ、フィリップが未だフィリップであることを確かめようとするが、間に合わない。


 「であるならば、貴方の意志と、そして我らの悲願を尊重するとしましょう。儀式の時まで暫し、そちらのレディと共にお休みください。《スリープ・ミスト》」


 昏睡作用の霧を吹きかけられ、意識が途絶える。


 引き延ばされた時間の中で、男が確かにシュブ=ニグラスの名を口にしたことを含め、これまでに蓄積してきた様々な要素が絡み合い、一つの結論を導き出す。



 これは──テストでも何でもない。


 


 ◇




 結論から言って、フィリップの推察は正しい。

 今回の一件に外神たちの意図は一切──傍観を選択したナイ神父のそれは除いて──絡んでいない。


 マザーは今も王都で退屈そうに留守番をしているし、ナイ神父も森の環境には一切手を加えていない。副王に至っては、血の薄い矮小な落とし子のことなど気にも留めていない。


 騒動の中心はフィリップではなく、あくまで黒山羊だ。


 何百年か前に辺境の惑星に漂着し、そんな田舎の覇者にすらなれなかった落とし子の恥晒し。外神たちにしてみれば目に留める方が難しい劣等存在に、現地のカルトは崇拝の念を向けた。

 落とし子は崇拝の返礼として、自分の知る限りの母なる神の情報を与えた。そして、カルトは何代もの代替わりを経て、遂にシュブ=ニグラスを信奉する狂信者の集まりとなった。


 黒山羊は己の子孫、魔術や物理攻撃に耐性を持つ仔山羊たちを従え、カルトを従え、ただひたすらに準備を進めてきた。


 才ある魔術師を捕らえ、血肉を植え付けて疑似的に孕ませ、より強大な魔術師を産ませる。そうして自分の勢力を強化し、遂に母なる神を喚ぶ儀式を実行できるまでに至ったのだ。


 その最終段階で、最高位の魔術師を捕らえた。だが、それはおまけだ。

 懐かしき母の匂いを纏う、寵愛を受けた幼子。


 未だ汚れのない、如何にも生贄向きの少年だ。


 喰ってしまいたい衝動と、犯してしまいたい衝動を押さえる。母への供物に傷や汚れがついてはいけない。

 物欲しそうな配下のカルトにはあとで女の方を与えると言ってあしらい、儀式の準備を進めさせる。


 母を呼び、その乳を頂く。

 乳というと赤子に与えるものという印象があるが、本質的には血液だ。

 血と肉を頂き、我らは存在の階梯を一つ、いや数段飛ばしで昇るのだ。


 「お父様、儀式の用意はまもなく整います。また、新月はあと2時間で頂上に至ります」


 配下の報告に鷹揚に頷き、例の少年を見る。


 暴れでもしていたのか、配下の一人が睡眠魔術を行使し、眠らせるところだった。

 傷付けぬようにという命令を守っている配下に満足し、無数の目を閉じる。


 漸くだ。

 漸く悲願が──母との再会が叶う。



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