第2話
美しい。
岩壁を魔術と錬金術で平らに成形しただけの、窓もない灰色の壁が。
回廊と部屋を分け隔てる、錆び付いた鉄格子が。
右手と壁を繋ぐ、武骨な鎖と手枷が。
天井から漏れ滴る水滴、きっと地下水であろう雫が。
隣で震えて縮こまっている、同年代くらいの少女が。
かすみ、ぼやける視界に映る全てのものが、目を覆いたくなるほど美しい。
現状をおかしいと判断する理性も、見知らぬ大人に拐かされた恐怖も残っている。残っているのに──どうでもよくなるほど、世界の全てが美しい。
何が起こった?
フィリップは不自然を通り越して不気味なまでの感動に抗いながら、必死に記憶の糸を手繰る。
王都に丁稚奉公に出て来て、奉公先の人との待ち合わせ場所に向かっていて、それで──誰かに魔術を使われて、眠らされた。
隣の少女は、その時に助けようとしてくれた子だ。
その少女が、自分の隣で眠って──いや、気絶だろうか。とにかく意識を失っていた。
フィリップは即座に誘拐されたのだと思い至る程度には賢く、しかし現状を打破しようと行動できない、思考を巡らせもしない程度には子供だった。
そして、何より。
(綺麗だ。美しい。おかしい。どうして──全部が美しい)
薬学の知識があれば、それは精神作用を持った希少性の高い薬草を煎じた、一種の麻薬が齎す症状だと分かるだろう。
しかし、フィリップはただ目に映る全てに美麗さを感じ、その胸を打つ感動に疑問を呈することしか出来なかった。この程度の薬効であれば、舌を噛んだり、指を折ったりする程度の肉体的刺激で軽減できるのだが、フィリップは精神作用に対して疑問で──精神作用で抵抗してしまった。
溢れ続ける感涙をそのままに、そっと目を閉じる。
たかだか人間の思考程度で錬金術製の麻薬に抵抗できるはずもなく、フィリップの思考は「美」の一色で埋め尽くされた。
数分の後、少女も微かな身動ぎと共に覚醒した。
「こ、ここは……?」
「どこかの地下室、たぶん」
目を閉じたまま、なるべく冷静に聞こえるように声を掛ける。地下牢と言わなかったのは、なるべく威圧感を与えないようにだ。
驚いたように跳び起きて、少女はフィリップから距離を取った。
「あなたは?」
寝起きで頭が回っていないのか、それとも魔法で記憶を消されているのか、単に覚えていないだけか。
「僕はフィリップ・カーター。君と一緒に誘か──ここに連れてこられた」
フィリップの回答は冷静で機械的だが、気遣いも滲ませている。
努めて少女に恐怖を抱かせないようにという思いが伝わったのか、少女は元居た位置まで戻った。
「フィリップ? あなた、タベールナっていう宿屋を知ってる?」
「うん。そこで丁稚奉公をすることになってた」
やっぱり、と、少女は少しだけ嬉しそうにしていた。
目を閉じたまま、フィリップは聴覚を遮断できないことを恨んで、感謝した。
なんて、なんて美しい。
どこからか吹き込んでくる風の音。滴り落ちる水滴の跳ねる音。隣で話している少女の少し甲高い声。身動ぎするたびに手元で擦れる鎖の音。耳を澄ませば微かに聞こえる、より地下から聞こえてくる音楽。自身の呼吸音、鼓動すらも。
足音がする。隣で少女が動こうとして、手枷に付いた鎖がそれを阻害する。
耳を覆いたくなるほど、音に溺れていたくなるほど、美しい。
「美に溺れているかな、少年」
鼻につく芝居がかった声。少女が嫌悪感を覚えて身動ぎしたのを、美を求めて鋭敏化した感覚が捉える。
おい、という合図を受けて、二人の人間が地下牢へと入ってくる。鎖が解かれ、フィリップは持ち上げられた。薬か魔術かは不明だが、フィリップの身体の自由は奪われていた。
「ちょっと、何するつもり!」
怒りを孕んだ声。
少女が飛び出そうとして、やはり鎖に阻害されていた。ギン、と、一度鎖が張ったあと、たわんだ音がしない。本当に全力で男を止めようと──フィリップを守ろうとしているらしい。
その意思と行いこそ美しいと評されるべきだが、フィリップはその鎖の音と、男の鼻につく嘲笑だけを美しいと感じていた。
「そう焦るな、リトルレディ。この少年が駄目なら、次は君が贄になるのだから」
「贄ですって?」
「そうとも! 我らが神──時を支配する神、アダマント様への贄になるのだ! 光栄に思うがいい!」
贄。神。アダマント。あぁ、なんと美しい言葉だろうか。
その言葉が持つ悍ましい意味を理解しながら、薬の効果はその言葉を讃えていた。
叫び続ける少女は無視され、フィリップは担がれたまま階段を降り──やがて祭壇の上に寝かされた。
一定のリズムとメロディーを繰り返す音楽が奏でられ、アダマントという神への讃美歌が紡がれている。2、30人はいるだろうか。
馬車と野盗、カルトには気を付けなさい。そう言って送り出してくれた母親の顔を思い出す。
悲哀と寂寥が鎌首をもたげ、すぐに美への渇望と感動がそれを塗り潰す。とめどなく流れる涙に、美しさへの感動以外は混ざらない。
「さぁ、時神アダマント様、
讃美歌の繰り返しが止まり、メロディーが変化する。
「『門』が開いたら、君はアダマント様を賛美し、その命を捧げるのだ。なに、心配はいらない。薬と──この魔法が全てやってくれる。《ドミネイト》」
身体に不可視の鎖が巻き付いたような感覚がある。
研究者でも無ければ呪文さえ知らないだろうが、それは王国法では禁呪に指定されている、他人を支配する魔術だった。
フィリップの意志に反して、目蓋が勝手に持ち上がる。首が勝手に空を──祭祀場の装飾華美な天蓋を見上げる。
フィリップの頭上では空間が渦を巻き始め、祭壇の下、地面に描かれた魔法陣が血よりも赤く輝き出した。
讃美歌の盛り上がりが最高潮に達し──『門』が現れた。
◇
カルト教団『時神の
そもそも真っ当に生きていれば、一神教以外の宗教を信仰することなどないはずだ。大陸に存在する王国、帝国、聖王国の全てが一神教を国教とし、その一神教は公認の分派以外をカルトと呼んで蛇蝎のごとく嫌っている。破門者は国王だろうと生死不問の重罪人として扱われるし、カルト信者は判明した時点で討伐が厳命されている。
そういう意味ではカルトに帰依した時点で人生は不幸のどん底だったはずだが、それでは終わらない。
構成員の誰かが持ち込んだ、時を支配するという神についての文献。これは単なる怪文書というか、その持ち込んだ構成員が面白半分にでっち上げたものだった。
ちょうどその頃、カルトのリーダーはある儀式の知識を得た。『時神の僕』のようなちゃちな地下サークルではなく、本物たちの集会にこっそりと紛れ込み、知り合った狂信者に教わったのだという。
その儀式は──本当に、時を統べる神との交信を可能とするものだった。
リーダーが発案し、大多数の信者が儀式の実行に賛同した。乗り気でなかった者も、過激派の信者が生贄にするための子供を攫ってきた時点で選択を迫られた。ここで足抜けするか、地獄まで付き合うかの選択を。
カルトに参加している彼らに、足抜けした後で行く当てなど無かった。
何人かの贄を無駄にした後、王都に不慣れそうな少年を連れてきた。
これまでの儀式の失敗を反省し、限りなく自由意志と思考を奪った状態で儀式に臨んだ。最大の不幸は──その少年を選んだことだろうか。
いや、違う。その回の儀式をそのタイミングで行い、その少年を贄にして、そして──成功してしまったのが、彼ら最大の不幸だった。
儀式は成功した。
彼らの次元と時を統べる神の居る次元は接続され、その姿が映し出される。
だが──そもそも、時間を支配する神は『アダマント』などではない。クロノスでもカーリーでもトートでも、一神教の唯一神でもない。
そも、彼らは「神」などという、信仰に依って立つしかない矮小な共同幻想ではない。
彼らを示すのに「神」という言葉を使うのであれば、それは「この上なく偉大で強大なもの」という意味でしかない。
外宇宙より訪れた、偉大なるもの。
彼は人間であり、非人間であり、脊椎動物であり、無脊椎動物であり、動物であり植物だった。
彼は貴方で、私で、彼で、あれで、これで、あそこで、ここで、過去で、現在で、未来だった。
強大で、巨大で、およそありとあらゆる存在、大きさ、範囲という概念のことごとくを超越するもの。
「ia……」
フィリップの口から声が漏れる。
それを理解する前に、カルト信者たちの何人かが逃げ出した。
「ia……」
フィリップの言葉が、残った者たちの脳に浸透する。
聞いたこともないその音が、彼を讃えるものであると理解できた。
「……Yog-Sothoth!!」
残っていた者たちに最早逃走するだけの気力は無く、幾人かがすすり泣く声が聞こえていた。
誘拐されたことによる恐怖。カルトという犯罪者集団への嫌悪。その理解しがたい儀式への拒絶感。
フィリップが抱いて然るべきすべての感情はいま、「美」への探求と感動に置き換えられている。
何を見ても、何を聞いても美しいと感じてしまう。適切な中和剤を服用するか、薬が自然に抜けるまではこのままだろう。
身体は洗脳魔術の支配下にあり、予め下された「現れたモノを讃えよ」という命令だけを忠実に守っている。
歪んだ空間の向こうでは、一つ一つが太陽のように強烈な光を放つ玉虫色の球体の集積物が蠢いていた。
そことこの地下祭祀場を繋いだ空間のひずみを『門』と表現するのは誤りだと、フィリップは何故かそう思った。
それが──絶えず形や大きさを変える虹色の輝く球の集まり、触角を持った粘液状のそれこそが、門であり鍵であると理解できた。
『門』が開く。或いは、彼がその場から退いたのかもしれない。
彼によって遮られていた、閉ざされていた空間が見える。
そこは玉座のある宮殿だった。
この世のあらゆる屋敷よりも巨大で、どんな砦よりも堅牢で、どんな城よりも荘厳で、そこには何もなく、全てがあった。
音が居た。無が居た。闇が居た。
口にするのも悍ましい異形がいた。目を焼くほど美しい異形がいた。光輝く何かが居た。触手を持った何かが居た。
それらはどんな音楽家でも模倣のできない音を奏で、どんな貴婦人でも真似のできない踊りを舞い、玉座を取り囲んでいた。
玉座に坐するは、泡立ち膨張と収縮を繰り返す影。何かを産み落としては自らそれを喰らい、崩壊と再生、創造と破壊を繰り返す。脳が理解を拒否する冒涜的な言葉を吐きながら眠りこける、およそ想像の及ばぬもの。
「ぁ……」
か細い声が漏れる。
それは液状化して死んだカルト信者の誰かが遺した、今わの際の言葉だった。
どろどろの残骸だけが残った部屋で、それでも魔法の効果に縛られたフィリップは言葉を紡ぐ。ただそこに在るモノを賛美するために。
「ia……」
駄目だ、と思った。
この世の全てが咽び泣くほど美しいのに、それは吐き気を催すほど醜悪だった。
平常時に目にしていたらどうなるかは、カルトたちの結末が物語っている。それを賛美するなど、この世の全てへの冒涜ではないか。
「ia……」
涙に血が混じる。
美しいこの世界に在って、それでもなお気色の悪い異形の幾つかが、興味深そうにこちらを見ていた。
嗤うもの。慈しむもの。無関心なもの。心配そうなもの。見下すもの。
胃の内容物が一気に逆流する。昼食すら摂っていなかったフィリップが吐き出したのは、胃液と少量の血だった。
それをさえ美しいと感じるのに、あれだけはどうしても駄目だ。
嘔吐し、血涙を流してもなお、支配の魔術は残留した魔力だけでフィリップの身体を突き動かす。魔法抵抗力を磨いた者であれば簡単にレジストできる残留思念、魔術の残りカスにさえ、一般人のフィリップでは従うしかなかった。
「──Azathoth!! ia! ia! Azathoth!!」
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