それは、どうでも良い

「立ち上がろうとして、何回か続けて痛い目に合うと、それが癖になって立ち上がれなくなっちゃうことって良くあるんです。なんか、恋愛みたいですよね。いえ、私がそういう経験をしたことがあるってわけじゃないんですけど・・・」

 痛みはなくなっているというのに、おっかなびっくり立ち上がろうとする私を見て、渡辺先生はそう言うと、その大柄な身体とどちらかと言わずこわもての顔とはまるで似つかわしくない、恥ずかしそうな笑みを浮かべながら頭をかいた。

 10月に入ってしばらくした頃から腰が痛くなった。月の頭に大きなイベントがあり、その準備で二週間ほど肉体的にも精神的にもかなり負荷がかかっていたから、身体が悲鳴を上げてしまったのだろう。

 時間を見つけて、プールに行って少し泳げばすぐに良くなるだろうと高を括っていたのだが、症状はどんどん重くなり、ついに歩くのはおろか立ち上がるのさえ激痛に耐えながら何とかという状態になってしまい、這う這うの体でネットで調べた近所の整骨院の門を叩いた。

 整骨院に二十代前半の女性なんて他にはいないから、目立ってしまうんだろうなと覚悟していた。ところが、待合室には私と同じ年頃くらいの女性がたくさんいた。世の中で戦っている女性は私だけではないということなのだろう。そのおかげで居心地の悪さもなく、おまけに勇気までもらえた。

 自分の順番が来て、名前が呼ばれた。待ち時間が少しあったせいで腰が固まってしまい、立ち上がるのに時間がかかった。診療室まで歩いていても、痛みに加え、腰が抜けるような感覚があって、たどり着くのがやっとだった。

「ああ、これは相当重症ですね」

 診療室によろよろと入ってきた私を一目見ると、白衣をまとった整体の先生なのだろう男性が、西郷隆盛のご子孫ですかと思わず尋ねたくなるような太い眉をひそめてそう言った。それが渡辺先生だった。

「座らなくて良いですよ。また立てなくなっちゃうから。そこのベッドに、うつ伏せになってください。腰に負担がかからないよう、お腹のところにタオルケットを敷いて」

 そして、施術が始まった。

「うわ、指が入らない。これ、背骨を支えてる一番中心の筋肉ががちがちに固まっちゃってるんですけど、足の方まで張りが来てます。歩くときに腰がストンと落ちませんか?」

「なります。不自然なくらいにチョコチョコしか歩けないのに、たまにストンてなるから、恥ずかしくって」

「こういうのって、外的要因よりも、ずっと緊張状態が続いたりしたときになりやすいんです。お仕事頑張られてるんだと思いますけど、自分も大切にしないと駄目ですよ」

 渡辺先生の真剣な口調に心配になった。

「これって治るんですよね・・・?」

「毎日通院してもらえれば、二週間もすればだいぶ良くなります。最初のうちは、なかなか改善しないので、そこで見限らないでくださいね。とりあえず、今日は30分ほど整体します。あと、つらいでしょうから、腰のサポーターもお出ししますね」

 笑いながらそう言った渡辺先生の笑顔は意外にも素敵だった。でも、私が気になったのはそこじゃなかった。

「腰のサポーターって、コルセットみたいなやつですか・・・?」

「ええ、腰を支えてくれるから、だいぶ楽になりますよ」

 コルセットを巻いた二十代前半女性・・・、その言葉の響きに目の前が真っ暗になった。

 この時点では、渡辺先生の言葉を信じたかどうかと言えば正直微妙だった。だが結論から書けば、渡辺先生の見立てはびっくりするくらいに正しかった。

 初日を含め、最初のうちは、施術を受けていても、表面的な痛みがあるだけでそれが身体の中に響いてくる感じがなかった。しかも痛いわりに、治療前と治療後で症状にはほとんど変化がない、というかむしろ悪化したような節さえあり、ぱっと見怖い→話し方は丁寧で、見た目とは裏腹に信用できそう→見た目は怖い、逆に丁寧な話し方が胡散臭い、と渡辺先生の印象は第三段階に移行していた。

 それが、5日目あたりから、徐々に指が筋肉の中に入って来るのが感じられるようになった。たまに、おおこれがツボなのかというような要所をヒットすることが出てきた。すると、この頃から、施術後は明らかに身体の動かせる範囲が大きくなり、身体を動かせるようになるとそれでまた症状が改善されという、好循環期に入った。もちろん、渡辺先生の評価もうなぎのぼりだった。

 ちなみに、この頃には腰のサポーターのない日常生活なんて考えられないようになっていた。毎日の服のコーディネーションは、全て、腰のサポーターが目立たないことを優先して決定された。

 一回約三十分の施術の間、リラックスさせる狙いもあったのだろう、渡辺先生はずっと私に話しかけてくれた。治療の進捗や私の身体の変化について、それから腰痛を予防するための生活習慣についてなど専門的な話、それから、これは私が質問したからだけど、渡辺先生自身についても。なので、腰痛については飲み会で部長と語り合えるくらい詳しくなったし、渡辺先生のことも良く分かった。

 私の整骨院に関する勝手なイメージと、外見とその雰囲気で、私は渡辺先生が四十は越えてると決めつけていた。だが実際には、渡辺先生は実は私と年齢は五つしか変わらなかった。小さい頃から柔道をやっていて、高校生の頃は全国大会にも出場したそうだが、大学生の時に試合中の怪我で選手を引退。そのまま、マネージャーとして残り、選手のケアをしたり、選手の付き合いで整骨院に通ううちに興味を持ち、専門学校、知り合いの整骨院での修行を経て、自分の整骨院を開いたのは三年前のことだということだった。

 ところで、出身は鹿児島ではなく静岡だった。よく聞かれるのだろう。出身地の話になると、「西郷隆盛によく似てると言われるので、学生時代に、一人で鹿児島を旅行したんですけど、タクシーに乗ったら、『帰省ですか?』って聞かれました」と、いかにも語りなれてる感じでエピソードを披露してくれた。

 腰は順調に回復した。そして、もちろん渡辺先生の施術が良かったからだし、通院中私の生活がそれまでとは比較にならないくらいに規則正しいものになっていたからだろう、腰の回復と同時に、私の身体は人間的な力強さを取り戻していった。

 まず食欲が出た。そんなこと久しくなかったのに、朝空腹で目を覚ましたり、午前中の仕事中にランチが待ち遠しくなったりした。そして昨日までと同じメニューでも、まるで味が違って感じて、美味しく食事がとれるようになった。

 次に、お通じが毎日来るようになった。しかも、毎朝、朝食の後に規則正しく。良い食事と良いお通じの関係は、鶏と卵の関係なのかもしれないけれど、美味しく食べたものをきちんと出すことが、こんなに幸せなことだなんて考えたこともないほどだった。

 そして最後に、恥ずかしい話だけれど、性欲を感じるようになった。

 元々そちらに関しては、人並みの経験はあったが私の方から欲するというようなことはなかった。嫌だというわけでもなかった。ただ、私の中ではそれはお互いの関係を確かめる上での必要事項のような位置づけの意味合いの方が強くて、行為自体に対しては淡白な方だった。それが、これまで感じたことのなかった、熱が身体の奥底から湧き上がってくるようになった。

 この熱が湧き上がってくるシチュエーションは決まっていた。それは、渡辺先生の施術中だった。

 大学生のころ付き合っていた彼氏の部屋で、マッサージ師が女性の患者に良からぬことをするDVDのパッケージを見つけてドン引きしたことがあるが、渡辺先生の施術にそんなやましいところは一切なかった。これだけは、彼の名誉のためにも声を大にして言っておきたい。

 ただ、渡辺先生の大きく力強い手で、身体の適切なツボを適切に押さえられると、本当に腰が溶けてしまうんじゃないかというような快感が私の身体を貫き、女性としての私が施術ではないそういう行為を求めてしまうようになったのだ。

 反応が出始めた頃は、人間の身体に精通した渡辺先生なら、私のそんな考えを感じ取ってしまうんじゃないかと心配だった。だけど渡辺先生はそんなそぶりを全く見せず、それまで通りののどかな話を素朴な口調で続けていたので、私は安心してその快感に身を任せることができた。

 そうこうしているうちに、私は私が渡辺先生のことを好きなんじゃないかと考えるようになった。

 実際、知れば知るほどに渡辺先生は素敵な男性だった。口下手なので理解されないことも多いだろうが、何事においてもまっすぐな考えを持っており、人として一番重要な信頼が置けた。見た目も、さすがに抜群に良いとは言えないけれど、男らしく、見慣れるほどに味が出てきた。

 渡辺先生のことが好きだから、そういう関係になりたいと思っているんだと考えようとしたこともあった。でも、それには無理があった。なので、私は渡辺先生のことが好きだし、渡辺先生が上手そうだから私は渡辺先生と関係を持ちたいのだ、と並行してそんな風に考えてみた。するとすっきりと腑に落ちた。 

 そして、無事治療が終了したその日、私は渡辺先生に告白し、晴れて渡辺先生の彼女になった。治療の終了を待ったのは、私なりにけじめをつけたかったのと、破廉恥な企画ものアダルトビデオと私の渡辺先生への純粋な気持ちをはっきりと区別するためだった。

 渡辺先生との結婚式を来月に控えて、今、私は自分でもびっくりするくらい素直に幸せな気持ちでいっぱいだ。こんなに素敵な人と出会えて、あれだけ辛かった腰痛にさえ感謝したいくらいだ。もし仮にまた腰痛に悩まされるようなことがあったとしても、その時は私の素敵な旦那様があっという間に解決してくれるはずだ。

 全てが完璧だ。だからマッサージとセックスの上手い下手に関係がなかったことなんて、そんなの本当にどうでも良い。

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