第4話 朱に染まる海(2)

 フィジーの南西に位置する近海。ニューカレドニアとフィジーの間に位置するこの海域は暖流と寒流が混ざり合い適度な水温となる事で、豊富な魚介類の生息域となっていた。漁業を営む者にとっては垂涎とも言える海域だが、生態系維持のために国際条約で乱獲が禁止されている区域でもあった。


 だがそんな海域に、明らかに漁船と分かる船影が数隻航行していた。全部で3隻の漁船はいずれも船体に会社や国籍、船の名前などが表示されていなかった。


 3隻の船は既にかなりの量の魚群を積み上げていた。明らかに違法状態である。だが船はお構いなしにさらなる漁獲を求めて海を徘徊する。



「……よし。何とか今月のノルマを達成できそうだな。前回はあの環境活動家どもに邪魔されて満足な量を獲れなかったからな。少し遠出にはなるが場所をこっちに移して正解だったな」


 3隻のうち1隻の船の責任者であるワンビンは、船に積み上がる漁獲量を見てホッと一息ついた。これで徐社長から降格を言い渡されずに済む。社長は社長で中国政府・・・・からのノルマがあるので、それが故に社員たちへの発破は苛烈を極めていた。


 王は現在フィジー共和国で事業を展開する中国の国営企業・・・・、『南海水産公司』の社員であった。『南海水産公司』はオセアニアの海の豊富な漁獲量を当て込んで、主に中国本国での需要を満たすために漁業を営む会社である。


 地元のフィジー人達に卸す事もあるが、かなりの高値をつけて売るので評判は悪い。だが連中は国の公共事業やインフラ事業などの殆どを中国に頼っている現状なので、中国企業の横暴に対して政府も役人も何も言えない。それを良いことに中国人や中国企業は好き放題やっているのだ。王もその1人だ。


 彼にとって、彼等にとって重要なのは会社から通達されるノルマを達成する事と、それによって得られる給与やボーナスを貰うことだけだ。この国の人間の生活や、この海の生態系がどうだのといった話は知った事ではなかった。


 フィジーの海は環境保護の観点から漁業禁止になっている場所も多いが、そこは会社から(時には中国政府から)フィジーの役人や高官達にたっぷりと賄賂が贈られているので、彼等の違法操業は見て見ぬふりをされているのが現状であった。


 王達は会社の指示に従って、会社が『問題なし』と判断した場所で仕事をするだけだ。フィジー政府からの横槍が入る事も無い、楽な仕事のはずだった。



 だがそこに現れたのがあの『ザ・クリアランス』と名乗る環境活動家どもであった。その代表とやらのレベッカというニュージーランド女は、度々こちらの操業を妨害してきた。たかだか小さなヨットと数人の活動家程度、無視して強引に操業する事は難しくなかった。……今までであれば。


(全く……ネットや通信手段の発達も良し悪しだな)


 奴等は巧みにSNSや動画サイトなどの個人で情報発信が出来る手段を利用してこちらの行動を制限してきた。昔のようにただビデオに撮ってそれを流すと脅してくるだけなら、そのカメラを取り上げてしまうなり何なり公表される前に対処・・のしようはあった。


 だが今はリアルタイムに動画を配信できるサービスも当たり前になってきており、その機能を利用してくる奴等の前で迂闊な行動や言動を取れなくなった。王としても会社や、ひいては本国政府に累が及びかねないと思うと迂闊な行動が取れない。


 もし会社に不利益を齎せば、王の首など容易く飛ぶだろう。恐ろしいのは物理的・・・に首が飛ぶ可能性さえ否定できないという所だ。


(忌々しい女め……!)


 王は内心で毒づく。だが流石にここまで沖に出てしまえば、奴等も妨害には来れないはずだ。もっと早くにこうするべきであった。お陰で今月のノルマは無事に達成できそうであった。他の2隻も同様だろう。



 欲を掻いた王達がさらなる漁獲を求めて魚群を探していると、探知機に妙な反応が引っかかった。


「お、見つけたか? だが……何だこれは? 群れじゃないな。鯨か?」


 探知機が示しているのは魚群ではなく、単体・・の反応であった。当然ながら海に棲む一匹一匹の魚に反応していては探知機がショートする。というより流石に拾いきれない。


 船に積まれているのはあくまで魚群・・探知機なのだ。通常、単体の魚に反応する事は無い。勿論クジラなどの巨大な生物・・・・・がいた場合はその限りではないが、事前の調査でこの海域には滅多にクジラは現れないはずであった。


 クジラなど獲っても食べるのは物好きな日本人くらいで、後は精々鯨油が取れるくらいだ。それこそ環境保護団体が煩いというイメージもあって、基本的に漁業関係者はクジラを敬遠する事が多い。それは『南海水産公司』も例外ではない。またこの船に魚群探知機に引っかかるようなサイズのクジラを処理したり保存したり出来るような設備もない。


「ち……探してるのはお前らじゃないんだよ。とっととどこかへ行きやがれ。……ん? 何だ、どんどん近付いてくるぞ?」


 王は目を瞠った。その巨大なクジラと思しき反応はどんどん水面に浮上して来ていた。そして明らかに……こちらに向かって近付いてきていた。しかもかなりのスピードだ。


 あり得ない現象だ。物々しい漁船に自分から近付いてくる海洋生物は殆どいない。確かにクジラ類は好奇心から近寄ってくる事もあるらしいが、そういう巨大なクジラの遊泳速度はかなりゆっくりしたものだ。だがこの探知機に反応している存在の速度は、明らかにクジラのものではなかった。


「向かってるのは趙の船の方か。趙は気付いてるのか? おい、すぐに趙に連絡しろ! そっちに妙な反応が……」


 王が船員に怒鳴って他の船と連絡を取ろうとした時にソレ・・は起きた。


 趙の漁船が大きく揺れ動いたのだ。凄まじい衝撃と振動に、甲板上にいた船員の何人かが物に掴まるのが間に合わずに海に放り出された。当然王の船からもそれが確認できた。


 更に再び大きな揺れが趙の船を襲った。今度は辛うじて放り出される船員はいなかったが、積み荷も載せた重量のある漁船が風も波もない凪海で、まるで台風にでも遭遇したかのように大きく揺れ動く様は非現実的な光景であった。


「おい、何だ!? 趙!! 返事をしろ、趙! 何が起きてる!?」


 船員から無線機をひったくった王が怒鳴るが、無線機の向こう側からは混乱する中国語の怒鳴り声や悲鳴が聞こえてくるだけだ。そして王は更に現実離れした光景を見る羽目になった。


「な…………」



 趙の漁船が……転覆・・した。数十トンはあろうかという鉄の塊が、嵐でもない何もないはずの海原でひっくり返ったのである。



 王も船員たちも誰もが唖然とした。何よりも彼等が目を疑ったのは趙の船が転覆する瞬間、海面から突き出た恐ろしく巨大な生物・・・・・・・・・の姿が見えたからであった。


「な、何だ今の? 幻覚か?」


 船員の1人が呟くが、現に趙の船が転覆しているのだ。断じて幻覚などではない。それに魚群探知機の反応も現実のものだ。そして……船が転覆した事で、海に投げ出されて水面でもがいている同僚たちの姿も。


「……! くそ! とりあえず趙達を助けるぞ! 船を寄せろ!」


「ええ!? で、でも今の化け物がまだその辺を泳ぎ回ってますよ!?」


「あいつらには悪いですが、早く逃げましょうよ!」


 咄嗟に救助を指示する王だが、船員たちは怖じ気づいて難色を示す。王は舌打ちした。


「うるさい! だからと言って見捨てて行けるか! 徐社長になんて説明する!?」


「……!!」


 冷酷な社長の名前を出した事でどうにか統制を取り戻した王達は、溺れている同僚たちの元へ船を寄せていく。もう1隻の船も同じ決断を下したらしく近付いてくる。



「ロープを垂らせ! それとありったけの救命具を投げ落とせ! 早くしろ!」


 2隻の船から何本ものロープが海面に垂らされ、大量の救命具が投下される。水面でもがいていた船員たちは地獄に仏といった有様で群がってくる。近い者からロープに取りつき、間に合わなかった者は順番待ちで救命具にしがみつく。


 だが……その下の海中から浮上してくる恐ろしく巨大な影。凄まじい水しぶきを上げながらソイツ・・・が海面に姿を現した。その冗談のように巨大な口と牙に噛み裂かれた船員たちが一瞬で文字通り海の藻屑と化す。海面が一時的に大量の赤色に染まる。


「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!!」


「ば、化け物だぁ!! 海が俺達に怒ってるんだっ!!」


 王の横にいた船員の1人が腰を抜かす。他の船員たちも大なり小なり似たような反応だ。


「チクショウがっ! 馬鹿野郎、作業を止めるな! ロープの奴等だけでも助けるんだ!」


 王がそれでも船員たちを叱咤しながら何とか救助作業を進めようとするが、その時……


「……っ!!」


 もう一隻の船が大きく揺れた。これは先程の趙の船が沈んだのと同じ揺れ方だ。嫌な予感を覚える。咄嗟にもう一隻の船に警告しようとするが、時すでに遅かった。


 その船の真下から突き上げるようにして、ソイツが船を転覆させてしまったのだ。趙の時よりも転覆までに掛かった時間が遥かに短い。どうやら最初の趙の船で要領・・を覚えたらしい。だとするとあの化け物は見た目・・・よりも遥かに知能が高いという事になる。王はそこで初めて背筋が寒くなるような戦慄を感じた。 



「リ、李の船まで!! もう駄目だ! 俺は逃げるぞ! 会社なんて知った事か!!」


「お、俺もだ! もう漁師は辞めて中国に帰る! 二度と海になんか出ないぞ!」


 副船長に当たる航海士が叫んで救助作業を放り出して操縦室に駆け込んでいくと、他の船員たちも続々と後に続く。こうなると王1人が頑張った所で無意味だ。それに彼自身、2隻目の船が転覆させられた事で命の危険を感じるようになっていた。


(……すまんな、趙。俺も自分の命が大事だ)


 彼は友人に心の中で詫びると、自身も救助作業を中断して操縦室に急ぐ。王の船はすぐさま全速力で航行を開始した。船体にぶら下がったままのロープから悲鳴と怨嗟の声が聞こえてくる。だが船の上の人間達は意図的にその音を遮断する。やがてそれらの声も聞こえなくなった。


 王や他の船員たちは一様にホッと息を吐いて肩の力を抜いた。流石にあの化け物も動き出した船には追い付けないだろうし、わざわざ追ってもくるまい。



「ふぅ……どうやら助かったようだな。趙や李達には悪い事をしたが、あのような非常事態だ。俺達だけではどうにもならなかった」


 王は半ば自分に言い聞かせるようにして呟いた。自分の命を守るので精一杯の状況であったのだ。彼は最善を尽くした。誰にも責められる謂れはない。


「……しかしあんな化け物が泳ぎ回っているようじゃ、この辺りで漁などとても出来んぞ。とりあえずすぐに社長に連絡して被害の報告だけでもしておくか。原因・・に関しては信じてもらえそうにないがな」


 あの時は全員パニックになっていて、とても写真を撮るどころではなかった。証拠が無い状態ではこんな突飛な話を信じてもらえるかは甚だ心許ないが、それが真実なのだから仕方がない。王がそうやって自分を納得させようとした時……


「あ、ああ……う、嘘だ……嘘だ!」


 デッキ上で外を見張っていた船員の1人が半泣きのような絶望の声を上げる。



「あっ! あれは……さ、さっきの化け物だぁ!! 追って来てるぞぉ!!」



「何……!?」


 他の船員の声に目を剥いた王は急いでデッキに飛び出ると、船の縁から海面を見下ろした。そしてすぐにその目が限界まで見開かれた。


「ば、馬鹿な……!!」


 彼等の船のすぐ側を、例の化け物が並行・・していた。こんな化け物がそう何匹もいるはずがない。間違いなく先程の惨劇を引き起こした奴と同じ個体だろう。という事は……


「狙って……追って来ている!? な、何故だ……?」


 普通の動物にはあり得ない習性に王は一瞬唖然とするが、すぐにそんな場合ではないと気を取り直した。



「ぜ、全速前進! 最大速度を出せ! 何としても逃げ切るんだ!」


 王が叫ぶ前から既に操縦士は全速力を出していた。だがあの怪物を振り切る事が出来ない。馬鹿げた巨体からは考えられないような速さだ。やがて怪物の背びれ・・・が海中に没した。一瞬振り切ったのかと思ったが、その直後に横殴りの衝撃が船を襲った。


「うおおぉぉぉっ!?」


 凄まじい揺れに立っていられず転倒する王。彼だけでなく舵を握っていた操縦士以外は皆転んだり、デッキにいた連中は海に放り出されたりしていた。そこに再び先程よりも強い揺れに船が翻弄される。


「うわぁぁぁ!! 嫌だ、助けてくれぇぇっ!!」

「し、死にたくない! 俺が何をしたっていうんだ!!」

「これからは真っ当に生きると約束する! お願いだ、助けてくれっ!!」


 残っている船員たちも全員がパニック状態で、とても船を走らせるどころではない。そして……まるで無重力空間に放り出されたかのように漁船が大きく反転し、彼らの身体が浮き上がった。


「――――っ!!」


 視界が揺れに揺れる。激しい衝撃と振動音。船員たちの悲鳴。そして大量の水が覆いかぶさってくる飛沫の音。


 船が転覆し、船内は完全に海水で満たされた。まだ意識があった王は生存本能の為せるままに、殆ど何も考えずに船の外に泳ぎ出た。そして彼は、海中から迫ってくるソレ・・の姿を間近に見た。



 意図的に船を狙って転覆させる異常行動。そして逃げた船まで執拗に追跡して、その場にいた人間を一人残らず殺し尽くそうとする野生動物にあるまじき強烈な殺意・・



 理由は全く分からない。分かるのはソレが高い知能を持ち、そして人間への憎悪・・に満ち溢れている事だけだった。


 王は自分を飲み込まんと迫ってくる自分の身長よりも巨大な口を眺めながら、最後にふとそんな事を考えていた……

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