第2話 環境活動家の日常

 南太平洋の只中に浮かぶ島国、フィジー共和国。同じオセアニアのニューカレドニアからは北東に数百キロ離れた群島を領土とするこの国も、やはりサンゴ礁とそこに住まう豊富な生態系を観光資源とした観光立国であった。


 常夏で開放的な島の風土。青く透き通った海。熱帯魚が優雅に泳ぐサンゴ礁。多くの観光客がそれらを目当てに年間で数十万人も訪れる。


 確かにそれらフィジーを象徴する特徴の一つではある。だが……何事にも言えるが、表と裏、理想と現実という物は存在しており、それはこの南国の『夢の島』とて例外ではなかった。



 フィジー諸島を構成している内海の島の一つ、ナイライ島。島の周囲には特に大きな『ブルーラグーン』が形成されている事で、その美しさだけでなく独自の生態系を持っている重要な保全海域であった。そのため観光客も滅多に訪れない場所だ。


 だが……そんな自然の楽園を踏みにじる・・・・・無骨で巨大な船影。周囲の景色からは余りにも浮いた金属の船体は錆と油に塗れ、英語の落書きが至る所にある。極めつけは三叉の矛を持った海神ポセイドンと思しき姿がデフォルメされて凶悪な人相をしている趣味の悪いイラストが船体の側面全体に描かれていた。


 反対側の側面には大きく『ディープ・ポセイドン号』という文字が踊っている。おそらくはこの趣味の悪い無骨な船の名前か。その下にはそれよりは小さい文字で『何でも格安でサルベージ! カレニック社』と書かれており、連絡先の番号とアドレスもご丁寧に記載されていた。


 その『ディープ・ポセイドン号』はサンゴ礁の海に無遠慮に入り込むと、水深の深い場所で航行を停止した。巨大な錨を下ろすと、船の上に搭載されていた重機を作動させる。凄まじいモーター音とエンジン音が静かだったサンゴ礁の海に響き渡った。


 それは明らかに海底にある何かを引き揚げる為の重機であった。船体にあるサルベージの文字からも、この船はここで……この風光明媚なサンゴ礁の真ん中で、巨大な重機を用いた何らかの大掛かりな引揚作業を行おうとしているのだ。


 だがそこに、この場を目指して一隻の中型ボートが凄まじい勢いで近づいてきた。ボートの上には数人の男女が乗っていた。



「姉さん! やっぱりカレニック社の連中だ! このサンゴ礁のど真ん中で引揚作業をやる気だ!」


 ボートに乗っているのアンディが推進音に負けない声で叫ぶ。彼女――レベッカ・J・モーガンは、怒りと同時にややウンザリした気分を込めて大きくなってくる無骨な船影を睨んだ。


「あの旧日本軍の沈没船を引き揚げる気!? あいつらまだ諦めて無かったのね。あんな巨大な物を強引に引き揚げたらどうなるか分からないのかしら?」


 非常に微妙で絶妙なバランスで成り立っているこの素晴らしい生態系にどんな悪影響を及ぼすか全く計り知れない。アンディが肩をすくめた。


「多分知っててもどうでもいいんじゃないかな、あの連中は。それよりはあの沈没船を引き揚げる事で得られる、日本人からの多額の賞金の方が遥かに大事なのさ」


「ええ、そうね。あのマサイアスの馬鹿にそんな良識や常識を期待するだけ無駄ね」


 レベッカは嘆息した。カレニック社は非合法スレスレの強引な仕事で悪名高いサルベージ会社で、その海域を領有する国の認可を得ていない引き揚げ作業も金次第で引き受ける。


「それもそうだが、それ以前に70年以上前に沈没した船は既に生態系の一部となって、この海域の生物達にとってなくてはならない棲家だ。非合法な奴等にそれを破壊させる訳にはいかん」


 レベッカとアンディの姉弟以外にもう1人いる同乗者が重々しい声で呟く。2人と違って白人ではなく、やや浅黒い肌に黒い髪が特徴のマオリ人・・・・たるウィレムである。このボートを操縦している2メートル近い体躯の巨漢だ。



「で、ここまで来たはいいけどどうやって止めるの、アレ?」 


 アンディが途方に暮れたような目を『ディープ・ポセイドン』号に向ける。近付けば近づくだけその巨大な船影はより大きくなっていく。こんな中型ボートなどあの船が航行時に立てる波風だけで転覆しそうな勢いだ。


「真っ当な手段じゃ止められないわね。じゃあ真っ当な手段じゃなければいいのよ」


「ああ、はいはい。結局そうなるんだよね」


 肩を竦めるレベッカの姿に弟のアンディは嘆息した。そして持っていたスマホを取り出してカメラを姉に向ける。


「本当にいい時代になったものだわ。マスメディアでもない素人が非合法な操業現場を撮影して、その映像をそのまま世界中に配信できるんだから」


 カメラを向けられた事で外面の良さを意識したレベッカが不敵な表情で笑う。ウィレムがボートを操縦して、『ディープ・ポセイドン』号の周囲を旋回するような軌道をとる。この時点で向こうも殆どの船員がこちらに気付いたらしく、甲板の上から身を乗り出してボートを指差しながら何か喚いている者や、どけというジェスチャーを繰り返す者達が出てきた。


 だがレベッカ達はどくどころか増々彼等の作業を邪魔するように、海に投下し始めていた引き揚げ作業用の重機に近付く。かなり危険な行為である。巨大な機械に巻き込まれたらボートごと転覆したり、最悪大破しかねない。事実姉の姿を撮影しながらアンディは戦々恐々とした様子であったが、肝心のレベッカは平然としたものでウィレムに更に大胆に近付くように指示する。


 寡黙な巨漢は黙って頷いてボートを近づけていく。


「姉さん! これ以上は危険だよ! あの機械に巻き込まれたらこんなボート、木っ端微塵だ!」


「まだよ! まだ足りないわ! もっと近付いて! ……視聴者の皆さん、この映像が見えていますか!? ここはフィジー共和国のナイライ島にあるサンゴ礁の海です! 政府によって保護された国立の保全海域であり、本来いかなる開発行為も禁止されています。しかし御覧ください! その法律を無視して現在、巨大なサルベージ船が居座っています! このサンゴ礁を破壊しかねない無意味で違法な引き揚げ作業の為にです!」


 レベッカが『ディープ・ポセイドン』号を指差し、アンディもカメラを船に向ける。悪趣味な落書きが施された無骨な船体は、この青く澄んだサンゴ礁の海には如何にも不釣り合いだ。連中の違法性を強調する効果があった。



「おい、またお前らか!! このエセ環境活動家どもが! うちの仕事を邪魔すんじゃねぇっ! とっとと消えろ!」



 その時船に接近したレベッカ達に、甲板から顔を覗かせた新たな男の濁声が降り注ぐ。カレニック社の社長で、この『ディープ・ポセイドン』号の船長でもあるオーストラリア人のマサイアスだ。


 水着にライフジャケット姿のレベッカを見て一瞬その目が好色に歪むが、すぐに忌々し気に鼻を鳴らす。


「あら、マサイアス。元気そうで何よりだわ。相変わらずどこかの金持ち相手に非合法な仕事に精を出してるって訳? たまにはこの美しい自然を守る為に真っ当な仕事をしてみたらどう?」


 レベッカが負けじと大声で怒鳴り返すとマサイアスの目が吊り上がる。 


「うるせぇ! 田舎者のニュージーランド女が! そんなに自然が好きならてめぇの国に帰って羊のクソにまみれてろ! これ以上俺の邪魔するならそのちっぽけなボートごとこの船で轢き潰してやるぞ!」


 青筋を立てて激昂したマサイアスの暴言に、側にいた他の船員――もしくは社員がそれ以上はマズいという感じで宥めすかしているが、もう後の祭りだ。


「あらあら、随分な紳士ぶりね、マサイアス。流石洗練された都会のオーストラリア人だわ。私達の殺害を仄めかす脅迫、確かに頂いたわ。この動画が世界中に配信されているという事実をお忘れなくっ!」


「……!! この……アマぁ……」


 レベッカがアンディの撮っているスマホを指し示して警告すると、自分の失言に気付いたマサイアスが悪魔のような形相になって、視線だけで人を殺せそうな目でレベッカを睨む。だがレベッカの方も全く怯む事無く睨み返した。


「ほら、どうするの? これ以上悪名を高めない内にさっさと尻尾を巻いて逃げ帰った方がいいと思うけど?」


「……クソがっ!!」


 マサイアスは盛大に毒づくと、船員たちに大声で撤収を指示する。巨大なクレーンから投下されていた重機が引き上げられるが、ウィレムの巧みなボート操縦で巻き込まれる事は防げた。


「このままじゃ済まさねぇぞ! お前を煙たく思ってる奴は大勢いるんだ! 精々寝首かかれないように気を付けろよ!」


「はいはい、負け犬の遠吠えご苦労様! こっちはいつでも受けてたってやるわよ!」


 レベッカは捨て台詞を吐いて遠ざかっていくマサイアスと『ディープ・ポセイドン』号に向けて中指を立てた。そして無骨な船はそのまま水平線の向こうへと消えていくのであった。

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