プロローグ
かじかんだ両手をこ擦りあわせて、赤くなった指先を自分の体温で温める。
たいして温かくはならなかったが、しないよりはマシだろう。
持っていた大振りの手提げ鞄から部屋の鍵を取り出す。背中を丸め、扉の鍵をガチャリ、と開けた。
「ただいま……」
暗闇のシンと冷えた空間に虚しく自分の声が響いた。
部屋の中に呼びかけても、「お帰り」と返ってくる温かい声はもちろん無い。
部屋で待っていてくれる家族も恋人もいないのだから当たり前だ。
玄関口で照明のスイッチを押す。
ぱっと、明るくなると同時にホッと肩の力が抜けた。
これで、ようやく一日が終わったのだ。
朝から夜遅くまで続く激務に追われ、張り詰めていた緊張感からやっと解放された。
ワンルーム。キッチン、トイレ、バスタブ付き。こじんまりした箱の部屋で、自分のベッドへ雪崩落ちる。
「もう、一歩も動けない……」
私はベッドに重い身体を沈めたまま、気を失うように瞼を閉じた。
今日もそうやって眠りにつき、明日の朝早くに起きて、シャワーを浴びて会社へ出社するはずだった。
だが、実際にはそうはならなかった。
次に私が目覚めた時、私は暗くてとても静かな森の中にいた……。
目を開けると、漆黒の空に数え切れないほどの星がキラキラと輝いていた。都会の空ではまず見られないような光景に思わず見とれてしまう。
ふわりっと風が吹いた。
木の葉が揺れて、サワサワとした音が耳に心地よく届く。息を吸うとスンッと土の匂いがした。コンクリートの上を微かに舞う土埃とは桁違いに違う、深くてどこか落ち着く自然の香り。
「ここは、天国? それとも地獄?」
私は視線を左右にさ迷わせた。視界に入る全てが立派な枝ぶりの木々だった。
あれは、ブナ? カエデ? なんの木なのか良く分からないがよほど山奥でなければ見かけないような景色だと思った。
とうとう私は死んでしまったらしい。
昨日の夜、私は仕事から帰ってきて自分の部屋のベッドで眠っていたはずだ。
それなのに目を開ければ、都会の喧騒が全く聞こえない静かな森の中にいる。
死ぬかもしれない、という予感は前々からしていた。
年齢的なものではなく、働きすぎで過労死するんじゃないかと何となく思っていたからだ。
これって、労災になるのかな……。
あ、でも労災認定されてささやかなお金が入っても、死んでしまった私は使えない。
悲しくなった。なんて世の中、不条理なのだろう。
せめてもの償いは、田舎の両親にそのお金がいくことぐらい。
自分のことで手一杯だったので、これまで大した親孝行もしてこなかった。
両親は悲しむだろうが、労災のお金が老後の資金に少しでもなるのなら、それはそれで良かったのかもしれない。
「でも、私の人生、何だったんだろう……」
がむしゃらに働いて、齢二十七でこの世を去った。
今の会社に正社員で入って、二十歳からずっとお金を貯めて、貯まったお金を投資にぶちこんで、四十で会社を早期退職して、悠々自適生活を送る予定だったのに……。
(積立てNI-SAはもう七年もしてる。)
私の人生計画、何だったの~!!
こんなに早くに死んじゃうのなら、もっと散財すれば良かったっ!
週末は職場意外のホテルで高級ランチして、ショッピングで綺麗な服とか靴とか鞄とか沢山買って、エステいって、美容院いって、小さいワンコ買って……。
何にも、楽しんでこなかった。
ただ歯を食いしばる日々だった。ホテルに来るお客様に心を砕き、我が儘を言われようが怒鳴られようが、尻をさわられようがひたすら耐え、上司に要領が悪いと罵られても、同僚からは出来ない子扱いされ距離をおかれようと必死にお金を貯めてきた。
その結果が、これなの……!?
もう、唖然を通り越して呆けてしまう。
「せめて、ちゃんとした恋愛をして、死にたかったなぁ~」
ぶっちゃけ、これが私の本当のところ。
でも、死んだ今となっては後悔あとを絶たずとはこのことだ。
ハァ…………。
大きな溜め息をひとつつくと、私はようやく手をついて身を起こした。
ーーふにゃり……。
う、ん……!!?
私は身体の下で妙な感触を覚えた。
妙とは、当然ながら身体の下は土とかコンクリートとかの何かしらの地面だと思っていたのだ。それなのに想像もしていなかったというか、謎のふにゃり感。それも、微かに温かいような気もする。
この感触と温かさ……。ま、まさか!!
私は恐々と自分の身体の下へと視線を送った。
ひいぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!
思わず森の中で大きな悲鳴を上げてしまった。
私の身体の下には、人がいた。
正確には私がこの人を下敷きにしてしまっていたのだった。
「だ、大丈夫ですか!?」
私は即座にその人から下りると、助け起こそうと慌てて声をかけた。
その人はうら若い金髪の白人女性だった。
「……………………」
「あのっ……!!」
いくら私が近くで呼びかけても、女性からの返事は一向に返ってこなかった。
それどころか、眉ひとつたりとてピクリとも動かさない。まるで陶器の西洋人形のように両手両足を真っ直ぐに放り出し、そこに力なく横たわっている。
とても嫌な予感がした。
私はそっと、彼女の首に手を当てた。
首には頸動脈という太いパイプのような血管が皮膚に近いところを走っている。そこに手を当て拍動を確認する。
普通ならドク、ドク、とした脈の動きを少しぐらいは手に感じるはずなのだが……。
「どうしよう……。何も感じない……」
ふと、「死」という文字が大きく頭に浮かんだ。
彼女は私がここに倒れる前から死んでいたのだろうか? それとも、私が原因で彼女が死んでしまったのか……?
後者が原因であって欲しくはない。
なぜなら、私が原因で彼女を死なせてしまったのなら、私は間違いなく犯罪者となってしまうのだ。
私は彼女を見つめた。死んだ原因は分かりそうになかった。
それにしても、今更ながらに死んでいる女性は高貴な顔立ちをしていた。
白くきめ細やかに磨かれたふっくらとした頬は生前、とても健康的な生活を送っていたであろうと思わせた。
長い金髪も艶やかで輝く稲穂のようだったし、着ている赤いドレスも逆さ五芒星の首飾りやイヤリングも高価そうでどぞのお金持ちの、「お嬢様」なのは間違いなさそうだ。
ふと、私は気がついた。
この高貴そうな女性の顔、どこかで見覚えが……。それに、この逆さ五芒星の銀のペンダント。こんなのつけてる人って珍しい。
熟考することおよそ数秒。
「あっ……!!」
次の瞬間、私は雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡った。
私はこの女性を知っている。
現実世界で実在する女性ではなかった。
この女性の名前は、ミア・ウォルター。
ウォルター公爵の長女、つまり彼女は公爵令嬢なのだ。
なぜ、初対面にして私が彼女のことをよく知っているのかというと、私が今ハマっている乙女ゲーム、「薔薇色の乙女聖戦!」に登場するキャラクターに彼女がいたから。
それも、主人公の貧乏令嬢エリザベスが気に入らないからと言って、様々な嫌がらせをする人物。
つまり、今流行りの悪役令嬢というやつなのだ。
「私もとうとう、流行りにのっかれた!」
あの大好きな乙女ゲームの世界に自分がいるなんて、なんという運命の悪戯なのだろう!
私ははしゃぎそうになった。
これは現実じゃない! ゲームの中の世界なんだ。そうなのだ! それなら、ミアの死体をどこかに隠しても問題ない……よね?
まさかこのままにもしておけないし……。
こんな森の中では狼や熊などの肉食動物がいないとも限らない。
そんなのにミアの身体が食べられてしまったら……、というホラーな想像が頭に浮かんでゾワリッとした。
私は死体を隠せる場所がないか、辺りをキョロキョロと見回した。
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