Auibble & Qdvice

 コンビニを出た藤原は家に帰るために矢代駅の方向へ足を進める。空は灰色の雲が支配しており、太陽の光はそれらに遮断されていた。曇り故か、いつもより帰路の光景が灰色に映って見える。そんな中、藤原はとぼとぼと一人で歩いていた。


『社会に向いてないで、お前みたいなタイプ』


昼間のコンビニで輩から言われた言葉が幾度となく藤原の中で反響する。


 俺が一番わかってんだよ、そんなこと。


 その言葉は輩が八つ当たりのために、何気なく吐き捨てた一言かもしれない。

 しかし、罪悪感で一杯の藤原には鋭利な刃物ように突き刺さってしまう。藤原はその言葉を何度も忘れようと周りを見渡すが、どの光景に目を向けてもそれがぷくぷくと蘇ってくる。


 頼むから頭から消えてくれ、もう終わったことだろ。


 脳内では気にしてないと、自分に言い聞かせるが不安という呪いは一向に拭えなかった。徐々に藤原の歩幅は小さくなっていく。とうとう、止まっていると言われても可笑しくないほどの間隔になった上に、前に目を向けることさえできなくなってしまった。

 今の藤原には何かを視界に入れると、それが人であろうと物であろうと関係なく、クスクスとあざ笑っているように思えたからだ。目に映るコンクリートの地面ですら、捨て言葉に惑わされている彼を笑っていると混乱してくる。


 このまま下手に生き続けて、もっともっと苦しむのならいっそ


 精神が摩耗し、超えてはいけない線を越えた藤原は行き過ぎた結論に辿り着く。不思議と彼の瞼から涙は流れなかった。コンクリートの地面も藤原の考えに同意しているのか、のっぺりとした顔で見つめている。死を意識すると同時に、藤原は自分の周囲が狭くなっていく圧迫感に襲われた。彼にはまるで一辺1ⅿほどのガラスの正方形が自分を囲んでいるかのように錯覚していた。誰から見ても藤原の心は傷つき、途方もなく疲れ果てていた。

その感情は一般的に「鬱」と呼べるものかもしれない。


 実際、昔から気難しく考え込んでしまう性格である藤原は、「鬱」に該当する精神的症状を何度も経験していた。年を重ねるにつれ、それらの焦りや倦怠感といった症状がさらにひどくなっている。しかし、不幸なことにそんな彼の苦しみを理解し、優しく寄り添ってくれる者は彼の周りに現れることはなかった。


 棒立ちして俯く藤原のつむじに、冷たい何かの感触が触れ、藤原は反射的に顔を上げる。ソレは頬を撫で、瞼を濡らし、彼の全身を包み込んだ。


雨。つめたい雨が灰色の雲から落ちていた。


つめたい雨達はコンクリートに落ちると、地面に黒いシミと生乾きのような匂いを残して消える。藤原は今朝、テレビで見た天気予報を思い出した。


そういや今日の天気予報は晴れのち雨だっけか。

ここから矢代駅まで20分はかかるのに……参ったな。


 藤原は軽く舌打ちをすると、鞄を頭上まで持ち上げて小走りし始める。走るペースを上げれば上げるほど、藤原を苦しめるか如く雨の降る量も次第に多くなっていった。


ポタリ、ポタリと髪先から雫が滴り落ちる。


 藤原が来ていたコバルトブルーの長袖Tシャツも、雨に打たれて黒色に変色していた。それだけでなく、せっかく朝早く起きて整えていたセンターパートの髪型も、雨風のせいで崩れてしまう。「ちくしょう」と彼は心だけでなく見た目も荒んでいった。

 あまりの雨の勢いに、藤原は近くにあった屋根の下に駆け寄り、乱れる息と髪を一旦整える。体を冷やしてしまったのか、思わずぶるっと体を震わせた。ポケットにしまっていた携帯を取り出して時間を確認すると、画面には16:15と表示されていた。夜とも言えず昼とも呼べない、まさに夕方らしい微妙な時間だった。


 この雨の勢いだと、あと2時間は降るだろうな、どこかで雨宿りでもするか。


 簡単に見つけた屋根の下ではお世辞にも雨宿り出来るとは言えず、斜めから入ってくる雨がズボンと靴を未だに濡らし続けた。藤原は服の袖で、顔の表面に着いている雫を拭き取ろうとするが、袖も濡れているのであんまり拭き取れた心地がしなかった。

 四面楚歌とばかりに、その場で尻込みしてる藤原はふと、視界の左端で気になる光を捉える。左にゆっくりと視線をスライドさせると、その光はある建物の入口に吊るされていたランプから発されていたようだ。


 あそこで雨宿り出来そうだな。


 暖炉の炎を連想させるその光に、気づけば藤原はハエのようにフラフラと入口の前まで引き寄せられていく。なぜだが藤原はその建物に無性に惹かれていた。手招きされているような、社会から弾き物されている自分を受け入れてくれるような、そんな気がしたのだ。

 入口に目をやると、木の看板が立てかけられており、「 Auibble & Qdvice 」と筆記体で書かれていた。藤原は中の者にバレないよう、ドアの明かり窓から顔を覗かせる。建物の内装はアンティーク調の家具で揃えられており、サロンエプロンを着たウェイトレスが数人見えた。

「喫茶店だろうか?」と藤原は思ったが、こんなとこに今まで喫茶店があったことや、最近になって開店したなどという話は聞いたこともないし、知ったこともない。


 疑問に思った彼はしばらく数十秒ほど中を覗いていると、カウンターでコーヒーを挽いている老男と目が合う。途端に気まずくなった藤原は目を逸らし、中を盗み見る今の自分が不審な人物以外の何でもないことに気づいた。変に通報される前に、と焦った藤原はドアノブに手をかけて中へと入る。


「いらっしゃいませ」


 しゃがれてはいるが、ハリのある落ち着いた声が藤原の耳元を透き通る。そして、声の主である老男がカウンターを出て、入口にいる藤原の元へと歩み寄ってきた。

その老男は白髪を後ろで結んでおり、他のウェイトレスと制服が違うことから、藤原には彼がこの店の店主だとわかった。


なんとなく入ってしまったけど、この中だとから追われずに済むな。


張り詰めた糸が緩むように、藤原は店主と店の雰囲気に一抹の安堵を味わう。


「お一人様ですか?」


「えっと、はい」


「少々お待ちくださいませ」


 店主は柔らかい笑みを浮かべると、近くで机を拭いていた男性のウェイトレスに駆け寄る。店主と会話をしている男性が眉をひそめていることから、藤原は何となく悪い予感がした。1、2分ほどの時間が経った後、話がようやく纏まったのか店主が藤原の元へと戻ってくる。


「大変申し訳ありませんお客様、只今この店は満席でして……」


「あぁ、そうですか」


 藤原が改めて店の中を見渡すと、確かにどこもかしこも人が座っていた。店長の述べる通り、藤原が一人で座れそうな席はなさそうに思える。つめたい雨故に藤原と同じで、雨宿りしようと考えた人は多かったのだろう。悪い予感が当たった藤原は少しだけ肩を落とし、店を出ることを伝えようとするが


「しかし、『相席』という形であれば案内出来ますが如何しましょうか?」


「相席……ですか?」


「幸い、相席でも構わないという方がお一人いらっしゃいます」


 聞き慣れない店主の言葉に、諦めかけていた藤原は首を傾げて狼狽する。藤原はそれ以前に、相席という言葉が未だに残っていたことに驚きを感じたのだった。「昭和のビデオじゃあるまいし……」と店主に悟られぬよう苦笑する。

 だが、僅かに藤原は自分なんかと相席してくれる人がいることに嬉しさを感じていた。それと同時に、人の気持ちをあまり汲み取れない自分が相席していいものなのかと、ぐちゃぐちゃな感情に戸惑ってしまう。


そもそも藤原は他人と相席をしたことは人生で一回もない。


 二人の間に僅かな沈黙が流れる。店には多くの人がいるのに、なぜこんなにも静かなように感じるのか。店主から正解の返事を求められている藤原は返答にかなり迷っていた。

 正直、今日の度重なる嫌なことから、相席でも何か起きるんじゃないかと邪推していたからだ。そうなると、藤原の返答は依然として「No」なのだが、その言葉を即答させない理由が彼にはあった。藤原はちらりと店の窓に目を見遣ると、窓には大量の水滴が絶えず張り付いている。雨の激しさを店の中から想像するに難くなかった。激しい雨に打たれながら帰るのは、気が滅入るどころの話ではない。


 答えは「YES」か「NO」かの、たった単純な二択の問題である。しかし、どうにも藤原には、テストの四択の問題より難しいように思えてしょうがなかった。


「えーっと、その——」


「相席させてしまうというのも、こちらの不手際ですのでお好きなドリンクを1杯無料にするというのでどうですか?」


 なかなか答えあぐねる藤原に店主はリーズナブルな助け船を出した。この一押しが藤原の答えをすぐに導き出す。


「まぁ、それならば……」


「かしこまりました、ではお席にご案内致します」


 店主は手でわかりやすいように藤原を席へと誘導し、藤原はそれに迷うことなく従った。

 歩きながら藤原はあまりの即答に、自分はこんなにも物に釣られやすい性格だったのかと内心で恥じる。しかし、元よりただの雨宿り目的での入店だったので、無料で飲み物がついてくるのはありがたかったのだ。初めての相席で藤原は少し緊張するが、パパッと小休憩を済ませて、すぐに離席すればどうと言うこともないと腹を括る。


 ただの相席、それ以上でもないしそれ以下でもないと彼は自分に言い聞かせた。


 藤原は店主の後をついていきながら店の隅の方へと歩いていく。案内されたのは洋風の格子窓がそばにある二人用の席だった。二人用にしてはやや大きすぎるくらいのテーブルと、向かい合った木製の椅子が二つある。そこに、藤原から見て左側に見慣れない黒髪の女性が座っていた。


 女性は席に辿り着いた藤原に反応せず、窓に映る濡れた灰色の街を眺めている。案内された藤原はどういうわけか席に座る彼女から、この店の空間から取って切り離されたような俗世離れした雰囲気を感じ取った。


「後でご注文を取りに参りますので、どうぞごゆっくり」


「あっ、はい。ありがとうございます」


 店主はペコリとお辞儀すると、藤原に軽い目配せをして店のカウンターの方へと戻っていった。急にポツンと取り残された藤原は、依然として窓の景色を眺め続ける女性に、どうやって声をかけるべきなのか思い悩む。

 藤原の心境は今しがたのような短絡的なものとは打って変わり、より慎重にこの先の相手の態度を読もうと必死になっていた。はたから見ると、全身ずぶ濡れの男が席を目の前にして座らず、窓を見つめる女性を凝視しているという、とりわけ奇々怪々な光景に映っているだろう。

もうそろそろこちらから声をかけようと藤原が思った矢先、


「今日の雨は少し、意地悪さんですね。あなたもそう思いませんか?」


「――えっ?」


 突如発生する会話で、思考の海に沈みこんでいた藤原は魔法にかけられたように硬直する。驚きのあまり、目を見開いて突っ立っていると、窓に映るもう一人の彼女と目が合う。そこで初めて藤原は彼女は外の濡れ景色を眺めていたのではなく、窓に映る藤原を見ていたのだと気づいた。


 彼女はきれいなアーチのように目を細め、か細い笑い声を漏らすと、窓から目を離した。そして、艶のある黒いロングの髪をなびかせながら、乱れ切った姿の藤原と向き合う。


「こんにちは」


 彼女からの社交辞令とも呼べるこの5文字が、これから藤原の「雨宿り」が始まることを示していた。

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