第二十五話 暗闇の神様2

「それで、創世のあとは何があったんです? 神様同士の仲は良さそうでしたけど」

「紆余曲折ありますが、様々な揉め事のあと、彼らは仲たがいして、昼と夜は完全に分かたれました」


 これは帝国の理念や指針にも関わる話であるが、月の神クシェルダルケと太陽の神ペクト=ルヘルが互い違いに離れる事になった時、帝国の建国者たる皇帝の祖は、暗闇の神の方へついていこうとしたという。

 しかし、それをクシェルダルケは優しくなだめ、拒絶する。自らの祖たる闇に従えない事に、嘆き悲しむ王に向かい、かの神は告げた。


 ――人の子は、命あるものであり、ペクト=ルヘルの照らす領域にいるべきだ。だが、日が昇り沈めば、あなた達の天にまた昇ろう。同じように命が上りそして沈むとき、あなた達を抱擁しよう。あなた達が抱くものもまた抱こう。

 ――私は闇としてあり、月として上り、暖かな死の寝床としてあなた達のそばにいよう。あなたとあなたの後を継ぐ人が、"誰かを抱く者"である限り、幾百の時が流れ、幾千の昼と夜を超えようとも、この約束をたがえる事はない。


「……とまあ、これが帝国の王たる指針となりました。"誰かを抱く者"――つまり、誰かに安寧を与える人間であり続ける事が。だからこそ、王は人に安寧を与え、人は王が必要とするものを渡す仕組みが安定しています」

「王権神授説ってやつかぁ。それが、今も続いてるんだ?」

「まぁ、神様からその役目を与えられた、っていうのを今も信じてる人はそう多くないですけれどね。でも、少なからず帝国の税制に貢献はしてます」


 税を払わなくなっても、帝国は人を追い出したりはしない。ただ家の軒先に飾られた月の紋章エンブレムは回収され、税を払わない限り、黒天教のもとに葬ることはできなくなる。

 帝国に税を払わなくなった人間は、帝国の王が抱く人ではない。ということは、暗闇の神が抱く人間でもなくなってしまうということなのだ。

 もちろん、死の安寧は誰にでも訪れる以上、いずれは暗闇の神の腕の中に入る事になる。だが墓がない事は遺族に不安と不名誉をもたらす。


 なにせ、全ての墓には「暗闇の神のもとに眠る」という文章が刻まれるのだ。それだけが残された者たちが信じられるよすがであり、墓が無ければ、それを確信することはできないのだから。

 加えて墓地の設立、葬儀、埋葬、墓の建立などにかかる費用などのほとんどは国の税金で賄われているのである。黒天教に布施を払えば、個別に墓をあつらえてもらう事はできるが、墓回りの整備を行うだけの金銭と比べれば、税金はずっと安い。


「ほんとに死の神様なんだね。そりゃあ、不人気なのもうなずけるなぁ」

「権能やご利益も死後に関わるものが多いですから」

「現世利益を求めるなら、戦神とか、豊穣伸とか、そういう分かりやすい物の方が選ぶ側としても選びやすいですもんね。ちなみに権能って?」

「幸せで安らかな死、死後の安寧、汚れた魂の浄化、罪の許し、次の生への祝福。現世利益としては夜の眠りの安息ですとか、星を読みやすくする加護、盲目の人への助けなどがあります。あと墓荒らしへの呪い」


 へぇ、うんうん、とうなずいていたエドワードは、権能の羅列を聞き終えてしばし後、ふと首を傾げた。今何か、聞き捨てならない物騒な単語が出たような、と。


「……呪い?」

「……死後の安寧を約束する神様ですから。そこを土足で踏みにじられたら、そりゃ怒りますよ」


 呪いの詳細をオリヴィアは告げなかった。実際、明文化されているものではないが、たいていろくな目にはあわないのだ。三日三晩寝床の周りを鼠が這い回るだとか、体にウジが湧くだとか、光が痛く感じるだとか。

 ほとんどは子供のいたずらのようなものだが、それらはあくまで警告だ。再三の警告、再三の注意、再三の報い。それらすべてを無視して墓を荒らし、死者への敬意を忘れたとき、本当の罰が下るのである。


「普段は寛容な神様ですよ。異教についてもほだらかで、自らを主神や創造神と名乗るものも受け入れられるぐらいですから。まあいざ呪うとなったときは容赦がありませんが」


 優しい人間ほど、その怒りは強い。人でさえそうなのだから、いわんや神の怒りはいかほどか。

 まして、クシェルダルケは母なる神にして最後を看取るゆりかごである。母の感情は良くも悪くも深いものであり、それがどのような結果を招くかは想像がつくというものである。

 エドワードはどんな呪いを考えたのか、小さくなってぶるりと体を震わせた。それから、怖いもの見たさ全開といった様子で、一言だけ聞いた。


「ち、ちなみに、一番ひどい呪いは……?」


 エドワードの少し子供っぽい部分が見えて、オリヴィアは少しクスリと笑った。それから、顎に指を当てて、聖書にあった逸話の言葉を思い出す。

 思えば、最初に読んだ本は聖書だった。敬虔な信徒のように見える彼女に、当時の司祭が読み聞かせてくれたのだ。思い出をたぐると、初めて説法を聞いたときのことを思い出す。


 その時は、母も隣にいた。


「……三度、死者の墓を暴き、死体を汚したネーロという人間に、神は怒り狂ってこう告げたそうです」


 だからだろうか。死者を嘲る者への最後の警句は、思い出から落ちてくるようにあっさりと思い出せた。一言一句、違わずに。


「『もはや貴様に安寧なし。夜に震え、死に怯え、苦しみを知るがいい』」


 滔々と唱えられたその言葉。それはおどろおどろしさと、悲しさの響きをもって伝わり――そして、少女にはあるまじき、妖艶な女の声で響いた。

 エドワードは目を見開いて、隣にいるはずの少女の方を振り返った。


 一瞬、そこに真っ黒なドレスを身にまとった女が見えた。


 黒いヴェール。黒いドレス。黒い手袋。黒い靴。全身を漆黒に染めるかのような風体の中、肌だけは青白く、月の光のように艶やかで冷たい。薄紫色の唇が、エドワードの方を見て、何かを呟いた。


「……? どうかしましたか?」

「ぇ、あ」


 気が付くと、そんな女の姿はどこにもない。いるのは当然、きょとんとした表情を浮かべたオリヴィアの姿だけだった。


 死の国の冷気はもはやどこにもない。夜の神を祀るため、薄暗い教会は、むしろ夏の熱気のせいで少し暖かいほどだ。

 だが、彼の背にはたしかに、憎悪の声と、憎悪よりもなお冷たい悲哀が残っているように思われた。


「いや、ちょっと……びっくりした。演技派なんだね」

「そうですか? ……ともあれ、このようにしてネーロは呪われました」


 エドワードの様子に首を傾げつつも、オリヴィアは続ける。そこには事務的な声色があり、先程のような、冥府から響くが如き暗さは殆どない。

 青年はこの奇妙な現象に直面して動揺していたが、少女はそれに気づくような素振りもなかった。


「彼は三日間一瞬たりとも眠ることを許されず、次の三日間は死に怯え、六日目の夜に発狂死し――そして九日目の朝に

「……蘇った?」

「ええ。夜の国、死の世界はクシェルダルケの領域ですから。ネーロは三十代の男でしたが、再び起き上がった彼は、千年も生きた老人のように見えたそうです」


 突然生き返ったネーロは、それに驚く家族を突き飛ばすようにして、自分が荒らした墓のもとまで行き、両膝を付き、頭を地面にこすりつけるようにして三日三晩謝り続けた。

 両膝を地面につける仕草は、罪人にのみ課せられるそれである。ネーロは自らが犯した罪の重さを、己が身で味わうことになり、ようやく罪がなぜ罪であるかを思い知ったのである。


 丸々一年をそうして過ごし、二度目の死を迎えたとき、ネーロはようやく死の国への入国を許されることとなった。


「はー……優しいだけの神様ではないんだね」

「……さて、私からも質問よろしいですか?」

「え、僕に? まぁ、答えられることなら」


 オリヴィアは青年の方を見ることもなく、虚空に語りかけるような様子で、その問を放った。


「ペクト=ルヘルの伝説についてです。……王国の神話には、あなたのほうが詳しいでしょうから」

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