第十七話 空の試練
オリヴィアは報告書をひとまず書き終えて、ほっとため息をこぼした。背もたれに身を投げ出すと、ぎぃと木のきしむ音がする。艦長席ほどではないが、座り心地は良い椅子だ。
なにせ、一等空佐用の執務室である。まがりなりにも艦長職であるがゆえに与えられた部屋であり、家具類は質素ながら質のよいものであった。ただ、成人の使用を前提としているので、オリヴィアには少し大きかったが。
誤字や脱字、ふさわしくない表現がないかと彼女が目を通していると、ひかえめにドアが叩かれた。
「ブルーノ・レルズ二等空佐であります」
「どうぞ」
どこか芝居がかった、気取ったような声。入って来た彼の顔には、以前艦内で出会ったときと同じく、ふんにゃりとした情けない、軽薄そうな笑顔が浮かんでいた。ともすれば、街中の遊び人がしていそうな顔に見える。
とはいえ、この男は割と正義感のある男だ、ということを彼女は知っていた。ジュロイ機関室長との対面時は、あの援護射撃に、ずいぶん助けられたのだ。
また、彼の手には数枚の紙が握られている。甲虫兵に関する記録だ。それとコーヒーが二つ。そのうち一つは彼女の机に置かれた。ありがたいことだった。
後で盗み聞いた内容から察するに、実際はそこまで緊張する必要はなかったのだが、それでもあの場でプレッシャーのあまり嘔吐したりするような事態は、彼のおかげで避けられたのである。
「……あー、艦長、報告書はいかがで?」
「一通りは。こういったものを書くのは初めてですが、まあ、基本に忠実にすればいいだけですから」
そう言って机に置いた紙の束は、ずいぶん分厚かった。とはいえ、ヴァルカンドラの作戦行動の記録もそうだが、そもそも第三艦隊六番艦の目標は、演習であった。もっと言えば試験だ。試験結果を記録するのは、専門の観測員だけでなく、艦長である彼女もである。
そのため報告書のうち半分はそうした試験に関する記録であり、航行中にほとんど書き終えていたので、オリヴィアの負荷はさほどのものではない。
もっとも、あまりの一大事に、空軍総司令部に帰って来てすぐに書かされることとなったので、まったく休めていないというのはある。帰投にかかった三日間ほどを除くなら、ほとんど休みなく動いている事になるだろう。
司令部に呼び出されて尋問、などという事態にならなかっただけまだ余裕はある。だがオリヴィアの本音としては、カフェインなどとらず、このままベッドに伏して眠りの世界へとび立ちたい所だった。
これから報告書を上層部まで届ける必要があるために、そうすることは出来なかったのだが。
「まー、あまりご無理はなさらずに。エリザ副艦長も心配されてましたんで」
「ええ、まあ。働きずめでしたからね。報告書を届けたらいくらか休暇があるはずなので、休みはそちらでゆっくり取ります」
「おお、そりゃあいい! 俺……っと、本官らも休暇ですか?」
「定期訓練には出てもらいますけどね」
小躍りせんばかりの様子を横目に、オリヴィアはコーヒーに口を付けた。すこしぬるい。ただ、ベッドへの欲はたしかに遠ざかってくれた。
思考はまだずいぶんとのろいが、後はちょっとした事務仕事を済ます程度で終わる。ようやく腰を落ち着ける事ができそうだった。
「……また、戦争になりますかね」
そんな折に、ブルーノがふと呟いた。
軽い様子で吐き出されたように見えて、ずしりとした、重たい言葉。彼は前戦役経験者なのだ。この世の地獄でさえまだ温情があると言われた、前戦役の。過去に類を見ない、血みどろの殴り合い。それを生き抜いた男の言葉は、つまり、あの生き地獄の再来を恐れてのことだろう。
今、帝国は深刻な人材不足に喘いでいる。王国の艦も随分撃沈したので、相手方は物資がほとんど底をついているはずだ。もしも再び戦争が起これば、カンテブルク戦役を超える惨禍が広がりかねない。
場をとりなそうと楽観的な言葉が喉元まできた。けれど、ブルーノの様子をみて、オリヴィアはどうにかそれを飲み込んだ。
「……なる、かもしれません。向こうの事は知りませんが、こうしてちょっかいをかけて来ているわけですから、ただでは終わらないでしょう」
「ですか」
「ええ。しないというなら、初めからあんなちょっかいはかけてきませんよ」
「……それもそうですね。アポミネテスまで出てきた訳ですから。おふざけ、じゃあ済まされませんし」
「おふざけであんなものが出せるような相手なら、帝国はもうとっくに負けてます」
どちらともなく、乾いた笑い。少しだけ余裕が戻って来たような気がした。お互いに、だ。
何が起こるにせよ、オリヴィアにも、ブルーノにも、止められるような流れではあるまい。二人は所詮、佐官級とはいえただの人間である。エリザも、ジュロイも、マルナスも。
まして、ヴァルカンドラの全クルーをひっくるめても、戦という時代の奔流の動きなどどうしようもない。戦いや諍いはおこるのだ。どれだけ人が嫌がっても、否応なしに。
「出来る事をしましょう。私たちにできるのはそのぐらいです」
呆然としたような言葉を言い放って、オリヴィアは窓の方へ振り向いた。ちちちと鳥が鳴く外の風景は、平和ぼけしたかのような静けさを持っていて、彼女の胸中をどことなくざわめかせた。
王国も、帝国も、彼女を安穏とさせてはくれない。
雲鯨級一番艦、"
その中でも特徴的な一つとして数えられるのは、第一の出陣、演習飛行だったはずの戦い。この後に連続して行われる"交差する稲妻"作戦と合わせ、俗に『
空の試練とは、神話において、神が課した空を飛ぶ為の試練である。これを超えたものは空を飛べるようになる。試練内容は地域によってさまざまに異なっているが、最終的に雲鯨は空を飛ぶ事を許されたのだ。
後の人々は、ヴァルカンドラに課せられた運命を、それになぞらえたのである。
さて、この戦いにおける被害総数は、アルフェングルーでは死傷者約二百名。軽重傷者を除いた死者は七十三名で、死者のうち軍人は七十名。これらは、ヴァルカンドラが到着する前におこった占領事件による被害だ。
この死亡した軍人七十名は、のちに慰霊碑が建てられ、
また、"交差する稲妻"作戦においては、対空機銃三丁が戦闘中に故障、一丁が破損。また、下部装甲に関しては敵砲弾を受けて損壊した。
負傷者は一名。甲虫兵の射撃による負傷で、火器管制長は瀕死の重傷を負ったが、命に別状はなかった。しかし、被弾箇所が悪く、後遺症をもって軍役から退くこととなる。
この作戦におけるもっとも重要な点は、ヴァルカンドラ――というより、空戦における機動力の高さの認識にあった。
早く動ければ、それだけ有利。ヴァルカンドラの空戦隊隊長にして、
また、副艦長であるエリザ・ロート=フォーゲルンは別の視点から機動戦を捉え、「朝早くに起きて並びにいけば、人気の食事処でも朝飯にありつける。こんな簡単なことだったのだ」と述べた。
これらは少し詩的な表現であり、また日記ということもあって公的記録からは除外されるものの、帝国空軍の痛感した機動力の重要性をそのまま言い表した言葉であると言われている。
つまり、「速さ」は"戦闘"における被弾を減らし、「早さ」は"戦術"における重大な要因であるということだ。空戦が現実のものとなってはや数十年、再発見とも呼べる気づきであった。
この結果を受けて、帝国空軍は雲鯨級二番艦の製造に着手したほか、王国の新兵器と目される甲虫兵の研究を開始した。王国側もこの情報を知って機動戦に適した艦を作り始めたが、すでにヴァルカンドラが製造済みである帝国側と比べると、技術的には一歩遅れる形となった。
剣から銃へ、馬から車へ。そして飛行戦艦へと変わって来た戦争の形が、再び変わろうとしている。ヴァルカンドラは、その狭間を戦い抜いた艦だ、と総評することができよう。
その戦いは、"空の試練"作戦が入り口に過ぎないほどの、過酷なものとなっていった。
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