第十話 焼け付く地にて4
「他に聞きたいことは?」
ココア色に染まったコーヒーが、カップの中で渦を巻く。さすがに案内するだけのことはあり、良い豆を使っているのだろうと思えた。苦味はほどほどに、酸味はさっぱりとしていて薫り高い。
甘味などによく合うし、どちらを食べていても舌がしびれるということもない。奢りということでさっさと注文したミニパフェをほおばると、くどさなく舌を流れていく甘味に、なんとも言えない幸せな気持ちになった。
まったく鉄面皮を揺るがさないまま、さっさと終わらせようと思っていた彼女も、この代金分ぐらいの話はしてやろうと思えたのだ。
「えーと、そうですねえ……あ、そういえば戦っていた鯨みたいな船、見たことないですけど、新型ですか?」
「黙秘します。……といってもまぁ、見ての通りですよ」
「やっぱり! 見た瞬間からそうだと思ってたんですよ、新型艦かぁ」
どこか夢見がちな声と顔。ああ、ロマンチストなのだな、とオリヴィアは思った。祖父が自分の冒険について語るときもこんな顔をしていたものだ。
冒険家として今も生きている祖父。家の便りもほとんど無視して好き勝手飛び回り、隙を見てオリヴィアに会いに来る祖父。冒険の夢を見させてくれた人。今はどこで何をしているのだろう。今思えば少しだけ、寂しいような気がした。
そんなことを考えていると、エドワードがハッと我に返ったように頭を振り、ぼんやりとしていた顔をすぐに消した。それから、ジャーナリストらしい、曖昧な笑みを浮かべる。
「それじゃあ最後に……もし転職できるなら、何になりたいですか?」
「……転職、か」
今度はオリヴィアがぼんやりとした顔をする番だった。転職。それを一度も、考えたこともなかったのだ。
実際のところ、帝国にはある程度職の自由がある。軍人が明日パン屋になろうがかまわないのだ。
もちろん能力者ということもあり、オリヴィアがやろうとしても、随分な苦労を伴うだろう。まして彼女は、一応とはいえ志願兵である。下手すれば一生軍に縛られる可能性もある。
だが、もしも。
自由に生きることができるなら。
「……冒険家……」
「え?」
「……いえ。やっぱり、軍人でしょうね」
オリヴィアはすぐに言葉を取り消して笑った。干からびたような笑い声だった。
「性分、なので」
エドワードは二、三挨拶の言葉を言い、店を出ていった。支払い分の金だけ置いて。残ったコーヒーをあおる。芳醇な香りとカフェインの効能は、しかし彼女の動揺を抑え切るには足りなかった。
夢は夢だ。心のなかで、何度もその言葉を反芻する。憧れた祖父の背中など、もう目指すべきではないのだと。もはや自分は夢見がちな少女ではなく、帝国軍人なのだと。
そのうちカフェインが効いてきたのか、あるいは燃えるように疼く夢への古傷が落ち着いたのか、震えていた指先はいつのまにか止まっていた。その頃にはエドワードの影など微塵も残っておらず、また"護衛"の男たちもいなくなっていた。
腹もすっかり落ち着いていたので、オリヴィアは店を出て、どうにも落ち着かない曇り空の下を歩いた。
そういえば、軍人以外とまともに話したのは何時ぶりだったろう。ふとそんなことを思う。家に数人いた使用人を除けば、話すような相手は軍属の兄と父だけ。姉は遠くに嫁いでいるし、兄と父が連れてくる人はほとんど軍人だった。
おまけにそれからは士官学校に通っていた時間が長く、当然みな軍人か、そうでなくても軍関係者である。一般人と喋れるはずもない。
だから、彼女にとって――取材の名目があったとはいえ――エドワードとの会話は、本当に久しぶりな、何も気負わない会話であった。
もう会うことはないだろう。そう考えながらも、会話をなぞるように思いだす。そこで突然、オリヴィアは違和感に気づいた。
「……訛りが、ありませんでしたね」
帝国は広い。領土だけで言うなら、おそらく王国の二倍近くある。それゆえ多くの地方に分かれており、宗教やもとの言語によっては言葉に方言が混じったりする。どれだけ排除しても完全とはいかない。
しかし、エドワードの言葉にはそうした語やアクセントの訛りが一切なかった。思い返してみると、たしかにそうなのだ。これはそうそうあることではない。なにかの偶然か、あるいはよほどの環境でなければ。
「……考えすぎ、ですよね。疲れてるんでしょうか」
エドワードは一人、小高い丘まで来て、アルフェングルーの街を見下ろしていた。人気のない、ちょっとした展望台がある程度の、寂しい場所である。
キャスケット帽を外すと、下から輝くような金髪が現れて、風に揺れた。メガネも外してしまうと、どこか垢抜けない雰囲気のあったエドワードは、目が覚めるような美青年となった。
その後方、何もいないはずの場所から声がする。
「よろしかったのですか。もっと話をするべきだったのでは」
「急ぐべきではないよ、セパール。急いては事を仕損じるというだろう。 ……ところで、追手はどうなった?」
「ご指示の通り、今日のことは忘れてもらいました。それ以上はしていません」
「まぁ、彼らに死んでしまっては困るからね」
ふぅ、とため息一つ。自分を偽るということはずいぶん気をもむことなのだ、とエドワードは思った。もとより我の強い人間ではあるが、それ以上に誰かを騙すことがあまり好きにはなれなかったのだ。
「……どうでしたか、彼女は」
セパールと呼ばれた女が、何もなかったはずの場所から、帳をはがしたかのように表れ出でる。感応能力者だ。それも、光の反射を操れる類の。その透明度から、相当な能力の強度と練度がうかがえた。
しかし、セパールのつけた眼鏡の奥には卑屈な光が見える。自分を卑下する目である。エドワードはそれが気に食わなかった。
「どうだろうね。真面目な子ではあるんだろう。職務に忠実だけど、ある程度の柔軟性もあるし、リスクとリターンを見て動ける聡い人間、ってところかな」
「ただの優等生だ、と?」
彼は小さく首を振る。
ただ優秀なだけの人材であれば、目にかけて、わざわざ接近するほどのことはない。オリヴィアに特別な何かを感じたから近づいたのだ。実際、それが特別であると気づくことはできた。
「彼女は……多分、今に満足していない。でもどこにも行くこともできない。どんな始まりだったにせよ、責任を抱えて捨てられない、そんなジレンマを抱えた人間だよ。僕と同じように」
再び町を見下ろす。あれほどの事件が起こったというのに、人があちこち動いていて、夕暮れの町をせかせかと歩き去っていくのが見える。
人の営みというのは案外頑丈なのだろう。あるいは、当たり前のようにふるまうことで、つい直前の悲劇さえも忘れてしまおうというのだろうか。どちらにせよ、悲しさと人の強さの両方を感じさせる風景である。
「……彼女が帝国に、どんな影響をもたらすかは未知数だ。良きにせよ、悪きにせよね」
「では、監視は続行ですか」
「そうしてくれ。下がっていいよ、セパール」
彼がなんでもないように手を振ると、セパールの姿はもう消えていた。足音どこか、衣擦れの音一つなかった。大した隠密能力である。国一番の密偵と呼ばれるほどの名は伊達ではないのだ。
エドワードは再び展望台に向き直った。日が暮れていく。町が橙に、そして赤に染まって、やがてまた夜に落ちていくだろう。
その向こう側には、再び翼を閉じた異形の船がある。帝国における、新たな時代の象徴。"
「きっとまた会うだろう、オリヴィア。僕らは奇妙なほどに、よく似ているから」
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