空を征けヴァルカンドラ
秋月
第一章 空に挑め、ヴァルカンドラ
第一話 出撃、巡洋戦艦ヴァルカンドラ
ふと足元が暗くなった気がして、青年は足を止めた。
時間はまだ昼日中で、空ははっとするほどに青い。さっきまでは明るい灰色の石畳だったはずなのに、足元は黒曜石のような暗さを帯び始めていた。
なんだ、と首を傾げる。そこで、自分の体にも暗さが降りてきているのに気づいた。いや、違う。暗いのは地面ではなく――空か?
そこまで思いついて、顔を上に傾けた瞬間、青年は驚きに青い目を見開き、一瞬声を忘れた。
ゴウン、ゴウン。聞こえる。重く風を切る、大型プロペラの音。空を覆う、遥かな鋼の塊。彼を影の中へと取り込んだのは、正しくその、鋼の塊であった。
全長は数百メートルもあろうかという大きさで、緩やかな楕円形の、引き伸ばした卵のような形状。そこにコブのような装甲が側面から下にかけて走り、それはまるで、折り畳んだ腕のようにも見えた。
ゆったりと空を舞う姿は、いっそ優雅にさえ見える。空を覆う鋼の鯨。
「おおい、この辺をうろちょろされちゃ困るぜ、旅行者さんよ」
「あっ、す、すいません! 物珍しくてつい……」
軍人らしき制服の人物が、青年に声をかけた。青年は眼鏡の位置を正して頭を下げたが、視線はすぐに空へと戻っていく。
今も空をただよい、ゆっくりと加速していくそれは、下方にいくつもの太い砲台を抱え、見るに側面や上方にも武器を搭載しているように見える。だというのに、速度は随分早い。下から見ていると、あまりのサイズ感で鈍重に見えるが、実際はかなりのスピードが出ているはずだ。
軍人は青年の視線の先に気づくと、へっと鼻の下をこすり、きざに笑う。
「あれか? あれは我らが帝国空軍の新鋭艦にして――」
――第三艦隊六番艦、巡洋戦艦"
軍服の男はそう言うと、誇らしげに敬礼して、帝都の空を横切っていく鯨を見送った。
「エンジン出力、予測値より大きな変動なし……巡航速度に移行します!」
ヴァルカンドラの操舵士が歓喜にも似た声を上げると、総合司令室の全員が同じく歓声か、あるいは安堵を込めたため息で持って応じた。
フライトテストはこれが初めてではなかったが、それはほとんど骨組みのまま行われたのだ。計算上は問題ないとしても、装甲や武器が航行にどう作用するか、実際のところはわからなかった。
「……はぁ」
皆が船の無事を祝い、小さく抱き合うものさえいる艦内で、しかし少女は一人安堵とは違うため息を漏らしていた。
ぶかぶかの軍服に、大きさが合わずに不安定な艦長帽。襟に掛けられた階位証は二つ、騎士と大佐のもの。短く整えられた茶色の髪と、いかにも不機嫌そうな深緑色の目が、それぞれ不安げに揺れている。
「オリヴィア艦長」
声がして振り向くと、すらりと長身の女が居た。四角い眼鏡のよく似合う女で、軍服がぴっちりと決まっている。髪は黒で、癖の一つさえ見当たらない綺麗なロングストレート。
ただ一見の印象でさえ怜悧さを感じられる格好は、ともすれば艦長席の少女よりずっと、艦長という立ち位置が似合うのではないか、と思えた。
「エリザ副艦長、何か異常でも?」
「いえ……ご緊張なさっているようなので」
気づかれていたのか。少女――オリヴィアの仏頂面がわずかに歪み、それから帽子をより目深にかぶる。彼女はこれ以上情けない姿を晒すわけにはいかなかった。ただでさえ年齢も手足の長さも足りていないのだから。
「テストを兼ねた演習飛行ですし、あまり気負わない方が……お体にも良くないかと」
「……どうも。一応、分かってはいるつもりです」
副館長、エリザの配慮が、かえって胃を重くする。そこまで気遣われているのだ。なおさら情けなくなってきてしまったオリヴィアは、もう一度ため息をこぼす。
――ああ、やはりもう一発ぐらい蹴り飛ばしておけばよかった。厳格を通り越して理不尽な父と兄の顔が浮かんで、そして歪み、消える。そもそも、彼女がこんなところで苦しんでいるのは、全て彼ら二人のせいであった。
騎士家、つまり最下級とはいえ貴族であるエーレンハルト家は、古くから続く軍人の家系である。母方は南方の貴族であったという話だが、あまり詳しくは知らない。母は、自分の家族を語るよりも先に死んでしまった。
古く、由緒正しいということは、伝統があるということである。そして、伝統とは時として人の道を縛るものだ。オリヴィアもまた、エーレンハルト家のしきたりに縛られている。
すなわち、五年の軍役だ。姉も、兄も、父も、そうした経緯を過ぎて今に至っている。父と兄は今も軍属だが、姉は既に嫁入りしている。オリヴィアもそのしきたりのため、士官学校に通っていた最中だったのである。
本来なら後方で兵站管理などを行う予定だったのだ。そのように希望を出したし、その通りに受理されるはずだった。父と兄の、余計な手だしさえなければ。
「本当に大丈夫ですか? ひどい顔色ですよ。一度お休みになられた方が」
「いえ、大丈夫、大丈夫です。少し嫌な顔を思い出しただけで」
エリザはなおも食い下がろうとしたが、オリヴィアはそれを退けた。ここで引っ込んだら、いよいよ信頼を失ってしまう。任せられた仕事をまともにこなせない事は、彼女にとって、最も恥ずべき事であった。
たとえ志願書の偽造と、印鑑の無断使用と、本人への連絡や報告なしという前代未聞の状態で行われた人事異動であったとしても。彼女はもう、艦長なのだ。はぁー、と大きなため息。それからもう一度息を吸いなおして、告げる。
「総員、傾聴!」
ざわめきが静まっていく。
痛い沈黙。ぶしつけな視線。値踏みする目。
すでに彼女の胃はずっしりと重さと苦しさを訴えており、ストレスはいよいよ頂点へ達しようとしている。だが、震える手を握り締めて、彼女は喉を震わせた。悲鳴にも似た声だった。
「艦長オリヴィア・エーレンハルトの権限を持って、これより演習飛行の開始を宣言します。各員、持ち場につき、計測を開始せよ!」
――帝国歴304年。あるいは、王国歴270年。人類は反重力物体の存在を知る。ある炭鉱から発掘され始めたそれは、電気エネルギーの供給を受けることで、自らの重量で空に落ちる性質を持っており、それは人類を大空の夢へと駆り立てた。
だが、青空も遥かむなしく。反重力物体の発見からちょうど五十年後の帝国歴354年、世界最初の"
今や戦の場は、地でも海でもなく、空となった。オリヴィアが憧れた澄んだ雲の向こう側は、もう望めそうにはない。三年と在籍しなかった士官学校で学んだのは、そういう歴史だ。
オリヴィアの祖父は言った。空は自由だと。だから彼女も、その自由の空で生きたかったのだ。何のしがらみもなく飛びたかった。けれど時代はそれを許してはくれなかったのである。
だがそれでも、やるしかないのだ。もはや彼女に逃げ場など残っていないのだから。三度目のため息を飲み込みながら、少女は天を見上げた。つまり、鉄の配線走る無機質な天井を。
――今度会ったときは、金的ですかね。それとも顎?
怒りとやるせなさを復讐の展望に変え、オリヴィアは強く目的地を睨みつけた。最新鋭の鋼の鯨は、そんな憎しみをおくびにも出さず、青い空を横切っていった。
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