春風ドリップ

七瀬

 第一話 相談



毎日がせわしなく流れていく中で、やりたかったことや叶えたい夢を見失い、ただ時だけが過ぎていく。


周りの人間が家庭を築き、地位を確立し、安定を得ていくことに焦りを感じたりして。


やがて後悔すらしなくなり、惰性と妥協の中で生き続ける。


長い人生の間で、すれ違う夢追い人にかつての自分を重ねたりなんてして。ひそやかに応援なんてしてみたり。


いつからだろう、夢を追うことが苦痛に変わり始めたのは。


いつからだろう、過去にすがり立ち止まってしまったのは。


「あの……なんですか、これ」


私は思わず、目の前にいる女性へいぶかしげに問いかける。


小さなメモ帳に殴り書きされたこの文章を、二十代後半である彼女が書いたのだから聞きたくもなる。


「何ってそりゃあ、私の名作だよ!」


私の問いに、どこか自慢げな様子の女性。


――ここは、駅から離れた閑静かんせいな商店街に位置する、レトロな雰囲気が漂う喫茶店、ミニドリップ。


戸建の二階の一部を店舗として使用し、営業している。


カウンター席が四つと、テーブル席が三つ。喧騒けんそうから離れた物静かな雰囲気が売りである。


そこで働く、私こと香笛かふえ 春風はるかぜ。白のワイシャツに黒のスカート、黒いエプロンはこのお店の制服だ。


そして目の前にいるのは、このポエムのような文章を書いた張本人である、武藤さん。


端正な顔立ちに肩まで伸びた薄茶色の髪は、ふんわりとカールがかっており、物腰柔らかな印象の女性。


黒のスーツ越しにも分かる細い腰回り、それに反比例するような豊満な胸部、多くの女性がうらやみそうな体型をしている。


本人曰く、容姿に対する努力は人一倍しているとのこと。


「いやー私ね、作家デビューしようかなーって」


少しだけ気恥ずかしそうに呟き、表情を隠すように先ほど私が淹れたコーヒーを飲み始める。


「……このセンスで、ですか?」


思わず、私は冷たい視線を武藤さんに送る。


「はるちゃん、結構バッサリ言うね……」


「いえ、これも武藤さんのためを思ってです」


表情を変えずに切り返すも、武藤さんはどこか不服そうだった。


「その顔は、絶対思ってないやつ」


そんな武藤さんの言い分も意に介さず、私はカウンターにて洗い終えたカップを拭き始める。


六月も半ばに差し掛かる頃、時刻は二十時。目の前の武藤さんを除いて他に誰もいない。


私が高校生であるため営業時間は十七時から、長くても二十二時辺りとなっている。


来店のほとんどが養父の代からの常連か武藤さんで、新規のお客さんは少ない。


学生である私がここで働いている理由は一つ。このミニドリップの店主である養父に、一方的にお店を押し付けられたからだ。


あれは確か、今から一年前くらいだろうか。


******


「店のことは任せた」


それは唐突だった。いつものありふれた朝、学校へ行く前の朝食の時間。養父がさりげなく呟いた一言からすべては始まった。


白髪でオールバック、口の周りに白い髭をたくわえた六十代の老人。身長が百八十を超えていることもあり、だいぶ大柄な男性だ。


目の前に立たれると、なかなか威圧感がある。


対面に座り、私と同じようにテレビの天気予報を見ながらそんな大事な話を振ってくるのだから、理解するのにも時間がかかる。


「……帰ってきたら、手伝って欲しいってことですか?」


何とか言葉の意味を理解しようとして、私はそう解釈してみせる。正直、もう少し人に伝える努力をして欲しいものだ。


「違う。しばらく店を空ける」


無愛想に呟く養父。相変わらず言葉が足りない。


「はぁ……え?」


ロールパンを頬張り、テレビに視線を向けたまま流し聞きしていた私は思わず聞き返す。


視線を養父に向けるも、目線はテレビを見つめたままだ。


「いや、しばらく店を空けるって……その間、お店はどうするんですか」


「お前に任せる」


「え? 嫌ですけど」


変わらずテレビを見たまま淡々と話す養父に対し、私も淡々と拒否し返す。


「……即答か」


拒否されたことで、ようやく私の方へ目線を向ける養父。


「ただの高校生には荷が重すぎます。もしかして、学校を辞めろっていう話です? 確かに学費を出してもらっている立場なので、辞めろと言われれば辞めますが……」


「そういう話じゃない。ただ……」


どこか寂し気に言いかけて、養父は口をつぐんだ。この目を私は知っている。私が敬語で話すと、たまにこんな寂しい目をするから。


私はいつからか、誰に対しても敬語で話していた。幼い子や、父親代わりの養父も例外ではない。


実の親に棄てられた過去から、私は人との距離感や接することに対して壁を作っている。もっといえば、人と積極的にかかわろうとしない。


それについては、養父も理解を示しているようだった。


ただ、同時に養父が寂しく感じているのも私は知っていた。血は繋がっていないとはいえ、ここまで育ててくれた私の父親だ。娘が敬語で話すのは思うところがあるのだろう。


でも、決して無理に敬語を止めさせようとはしてこない。そんな養父が私は好きだ。


「もう少し、人と交流をしてみるといい。このお店を通じて色んな人と」


「……なるほど。旅行に行きたいと」


養父の魂胆を見抜いた私は、間髪入れずにそう答える。観念したようにどこからかチラシを持ち出して、私に説明を始めた。


「見ろ、このオーロラ。綺麗だと思わないか?」


さっきまでもっともらしい理由を付けて、お店を押し付けようとしていた癖に……。切り替えが早すぎる。


「……これ、どこです?」


「カナダ。こっちはアラスカ、これはノルウェー」


「……で、それを見たいからしばらくお店を空けたいと」


「……ああ」


どこか申し訳なさそうな養父を見て、私はやれやれとため息をつく。こんなことは何度もあった。養父は元々旅行が趣味で、私も小さい頃は色んな場所に連れ回されたものだ。


……正直、断れるわけがない。


「……分かりました。好きに行ってきてください」


観念した私は残りのロールパンを口に放って、学校へ行く支度を始める。


「戻って来た時にお店が潰れていても、責任はとれませんからね」


「…………」


苦笑いを浮かべる養父を横目に、私は学校へと向かうのだった。


******


そうして、店の金庫に入っていた莫大なお金と、経営から淹れ方まで網羅もうらしている秘伝の書を読破し、何とか今日まで続けている。


あまり心配していないが、そういえばいつ帰ってくるのかを聞いていなかった。


「それにしても、随分ずいぶんコーヒー淹れるの上手くなったよね」


手元のカップを見つめながら、そう呟く武藤さん。


「毎日練習しましたからね」


「最初の頃と比べれば、もうプロ並……!」


からかうように笑みを浮かべながら、当時を振り返る武藤さん。


「確かあの時は……武藤さんが各業界の御曹司達と合コンして失敗した日でしたっけ」


やり返すようにしたり顔で聞き返す。案の定、武藤さんのスイッチが入った。


「あの合コンはホンット最悪だったわ! 所詮親の七光り共で、甘えた考えの……!」


「あ、もういいです……」


罵詈雑言がすらすら出てくる武藤さんをなだめ、下手にスイッチを入れてしまったことをすぐに後悔した私。


容姿が良いのに未だ結婚相手がいないのは、きっとこういう所なんだろうか。


「どうしたの、急にまじまじ見ちゃって。ホレちゃった?」


からかうように、こちらを指差しながらささやく武藤さん。


自分の容姿と比べてみるも、若さ以外で勝てる部分はありそうにない。


混じりのない黒髪を背後で束ね、腰ほどまで伸ばした清潔感のある髪型。いわゆるポニーテールというやつである。


無駄な肉がない自信はあるが、必要な肉もほとんどないので、あまり強くは言えない。


愛想なしとよく言われるが、個人的には笑顔を出してるつもりではある。


あくまでも、個人的には。


「中身がもっとまともなら、きっと今頃、結婚に苦労はしてなかったんでしょうね……」


「誰が生き遅れの、お一人様エンジョイ勢だって? ん?」


「いえ、そこまでは言ってないです」


見た目は良いのに中身がなぁ……なんて失礼なことをつい考えてしまった。


「はぁーどっかにイイ男いないかなぁ」


頬杖つきながら嘆く武藤さん、割と目が本気である。


……そんなに結婚をしたいのだろうか? 私にはまだ分かりそうにない。


「ところでなんだけど、一つ聞きたいことがあるのよ」


おもむろにミニドリップのメニュー表を広げ、ある部分を指差す武藤さん。


「このさ、一曲サービスって何?」


「私がそこにあるカラオケ機器で、一曲歌うサービスです」


淡々と、端に置いてある機械に目線を向けながらそう答える私。


ちなみに私の代から生まれたメニューで、料金は五百円である。


「いやはるちゃんが歌うのかーい! そこはお客さんでしょ!? しかも五百円ってちょっと高いし!」


「良心的だと思ったんですが……ちなみに、お客さんが歌うのは無料です」


「お客さんが歌うのは無料なのね……謎過ぎる」


怪訝けげんな顔で私を見ながらそう呟く武藤さん。


「じゃあ、どうせだしちょっと一曲歌ってもらおうかなーここは」


ふくみ笑いを浮かべながらそう言う武藤さん。表情はイタズラっ子のそれだった。


「曲は相手の年代に合わせて私がランダムに歌いますが、よろしいですか?」


カラオケ機器の準備をしながら、注意事項を淡々と話す。


「なるほど。つまりはるちゃんが、私を何歳と思っているかが分かると……!」


「そうとも言います」


準備を終え、おもむろに曲をセットする。


カウンター下にある少し年季の入った銀のマイクを握り、慣れた様子で始める。


「それでは不詳、香笛春風が歌わせていただきます。曲は杏里で『オリビアを聴きながら』」


「ちょちょちょっとストップ、曲ストーップ!」


唐突に叫びをあげ、すぐさま演奏停止ボタンを押す武藤さん。


「……なんでしょうか?」


何かが不服だったのか、唐突に曲を止める武藤さん。


「だーれが四十代後半よ! 違うからね? 二十代だからね?」


「そうでしたか……ちなみに今ので、一曲サービスは終了になります」


「まさかのボッタクリシステム!? 五百円くらい払うから、もう一度歌いなさい!」


不満全開の武藤さんをよそに、淡々と対応をする私。


「かしこまりましたお客様、もう一度歌いましょう」


もう一度曲をセットし、準備を整え始める。


「その変にかしこまった言い方が、またムカつくなぁ」


「さて、止められましたが改めまして歌わせていただきましょう。杏里で『cats'eye』」


「ストーップ! ストップ!」


「また何か不満がおありですか?」


「ありまくりじゃ! むしろないと思ってるのが不思議なくらいよ!」


不満が爆発しすぎて、もはや口調がおかしくなっていた。


「だから私は二十代なの! 怪盗三姉妹キャッツアイなんて世代じゃないしミステリアスガールでもない!!」


「おかしいですね……今度は当たったと思ったんですけど」


「さっきとほとんど年代変わってないのに、よく言えたわ」


「じゃあ今度は、もう少し本気で選びますね」


慣れた手つきで再び曲の選択を始める。変わらず武藤さんは不満そうだ。


「さて、次はやはりこれでしょう……」


セットを完了し、歌う準備をする。武藤さんからの目線が少し怖い。


「三度目の正直、と言う事で歌わせていただきます。曲は杏……」


「はいもうストップ! あん……の時点で予想がつくわ!! 杏里のsummer candles辺りでしょどうせ!」


「何でわかったんですか……」


曲をピンポイントで当てられた事に、思わず動揺を隠せない。


「流れ的に誰でも分かるわ! というかさっきから、この猛烈な杏里推しは一体何なの!?」


まくし立てるようにツッコむ武藤さん、さながら芸人のようなキレである。


「名曲ですからね、仕方ないです」


「いや名曲だけども!? 趣旨が違うでしょ! ていうかはるちゃんこそ四十代でしょこの曲選!」


「私は十七歳です。高校二年生です」


貼り付けたような笑み、見事な営業スマイルを見せつける。


「高校二年生が杏里を推してきてたまるか! もう杏里はなしだからね!」


武藤さんの怒りにも似たツッコミの叫びが店内にこだまする。


そんなやり取りを幾度か繰り返し、気づけば時刻は二十一時を回っていた。


「はぁー……どっと疲れたわもう」


カウンターにて突っ伏し、ぐったりした様子の武藤さん。


「ありがとうございます、武藤さんのおかげで今日の売り上げがプラスになりました」


うってかわり、満面の笑みでそう返す私。


「本当、タチの悪い悪徳商法だよこれ。ずっと四十代がひっかかるような曲ばかりチョイスするし、最終的にあずさ2号歌い始めるし……」


不満げな表情でこちらを睨みながら、そう文句を言うが、どこか楽しんでいるようでもある。


「名曲ですから」


「はぁー……まあいいわ、明日も仕事だしもう帰るとしようかしらね」


おそらくブランド物であろう純白のバッグから、可愛げのある薄桃色の財布を取り出す。


「お会計が、七千五百円になります」


「本当良い商売してるわ、はるちゃん」


どこか降参したようにため息をもらしながら、武藤さんが料金を差し出す。


「また、お待ちしてます」


「さーて、一笑いもらったし明日も仕事だしなー。大人しく帰るとしますかぁ」


銀の小柄な腕時計を一目見て、背筋を伸ばしながら残念そうにぼやく。


「気づけばもう二十一時ですか、早いですね」


調子に乗るのであまり本人には言いたくないが、武藤さんと話していると時間の経過が早い。


ちなみに武藤さんは、唯一私が継いでから出来た常連のお客さんだ。


養父の代ならともかく、私の代で常連になってくれた稀有けうな人である。


「また愚痴りにくるから、それまで潰れないでねー」


「最後の最後に、不吉な事を言わないでください……」


ひらひらと手を振りながら去っていく武藤さんに、恨めしそうに思わずそう返す私だった。


******


あれから少し経ち、時刻は二十一時半。


遅くまで働いていたであろうスーツ姿のサラリーマンが、窓から見える歩道に多く見受けられる。


暇を潰すように窓の外を眺めていると、一人のスーツ姿の男性がこの喫茶店の入り口に止まった。


目が合うと非常に気まずいのですぐに窓から離れ、カウンターに戻った。


見覚えのない顔だ、おそらく常連の人ではない。


数テンポおいて入り口が開き、来店を知らせるベルが店内に響き渡る。


周りを見渡しながら、どこかおどおどした様子で入ってくる先ほどのサラリーマン。


年齢はおそらく三十代程か、様子とは裏腹に胸板が厚く背筋が伸びているので体格の良さが伺える。


「いらっしゃいませ」


私は淡々とそう言って、カウンターの席に案内した。


「えっと……初めてなんですけど、喫茶店であってますか?」


案内された席に腰かけ、黒の革製であろうビジネスバッグを椅子の下に置いてから、男性がそう尋ねてきた。


「はい。あまり人がいないので、静かな時間を過ごしたい人にお薦めです」


現在の人がいない状況をプラスに捉えさせる、大事なところである。


「確かに、誰もいないですね……」


少し気まずそうに男性が答える。


「今日のこれは、もう閉店が近いからです」


辺りを見渡しながらそう呟いた男性に、ついムキになって答える。


「なるほど、じゃあ私が今日最後の客というわけですか」


「そうとも言います。何か飲まれますか?」


「そうですね……」


渡されたメニュー表を受け取り、興味深そうに眺め始める男性。


「……この、愚痴を聞くってオプションはなんです?」


「コーヒーを頼まれたお客様にのみ行っている、私が話を聞くサービスです」


「へぇ面白いですね。じゃあホットコーヒーのブラックと、そのサービスをお願いします」


「かしこまりました」


伝票にホットコーヒーと殴り書きし、カウンターにてコーヒーの準備を始める。


こだわり故、毎回豆を丁寧に挽いている為、少しだけ時間がかかるのが欠点である。


「挽きたてのコーヒーが飲めるのか、これは嬉しいですね」


カウンター席からこちらの行動が見渡せるので、豆の苦味ある香りと様子に気づいた男性が、嬉しそうにそう言ってくる。


「父のこだわりです」


「なるほど。そのお父さんは……今日お休みなんですか?」


「……はい。今日は私が店番です」


 少し間を空けてから私はそう答え、淹れたばかりのホットコーヒーを男性の前へ差し出した。


「お待たせしました、ホットコーヒーです」


「ありがとうございます、良い匂いですね」


香りを楽しんでいるのか、差し出されたカップを鼻に近づけたまま、すぐには飲もうとしなかった。


「ありがとうございます」


やがてコーヒーを口に含むと、男性はどこか満足げだった。


「いいね、これだけで癒される……」


お世辞か、はたまた本音か、私は深く考えず素直に受け取っておく事にした。


「……さて。愚痴ってほどでもないけど、少し話に付き合ってもらいましょうか」


カップをソーサーに置き、どこか物憂げな瞳で男性は話し始めた。


「いやー今日の話なんですけどね、ずっと働いてた会社でとうとう上司にキレちゃって、退職届叩きつけてきちゃったんですよ」


乾いた笑いを浮かべながら、自虐的にそんな事を言ってのける男性。


「全然笑い事じゃないと思うんですが」


どこか呑気にそう言う男性に、思わずツッコミをいれる。


「そ、そうなんですけど。でも凄いスッキリしたのもまた事実ではあるんですよ」


「原因は何だったんですか」


「当たり前にさせる残業と、あからさまな私自身に対するイビりが原因ですかね」


「凄く、最近の社会の闇って感じがします」


返答としてあまり正しくなかったかもしれないが、つい口に出てしまった。


「そうですね、最近多いですからこういう話」


私の思いとは裏腹に、特に気にしている様子はなさそうだ。


「本当、自分でもびっくりしてまして。今までカッとなったこととか、なかったものですから」


コーヒーを一口含んで、間を置いて再び語り始める。


「最近周りの人が結婚だとか、出世だとか、色んな事を語ってて、そんな中自分はって考えた時に、凄く虚しくなって」


そう語る男性の瞳は、どこか遠くを見つめていて寂しげだった。


「気づいたら上司に言い返してる自分がいました。もう、そんなことやるような歳でもないんですけど」


「お客様も、まだ若い方だとお見受けしましたが」


「いやいや、もう今年で三十二ですよ、充分アウトですって」


「……でも、キレてしまったんですよね」


冷静に、男性の瞳を見つめながら呟く。


「ま、まあ……そうですね」


「何も変化もなければ期待もない、そんな平凡すぎる日々が嫌になったんでしょうか」


「そう、かもしれません」


どこか気恥ずかしそうにそっぽを向きながら、男性が答える。


「こんなはずじゃなかった……かつての頃はもっと夢に溢れていて、何もかもが輝いて見えたのにって」


洗い終わったカップを布巾で磨きながら、淡々と語る私。


「周りは歳相応に時を重ね、家庭や地位を築いていくのに、私は……ということですか」


「そう……本当、そう思っちゃって」


「悲しいですね。たった一時の憂いで積み重ねたものが、一瞬で壊れてしまう」


ほんの些細なきっかけから、自分の人生を大きく左右してしまうなんて。


それはあまりにも、些細だなんて言葉では片付けられないものであると、私は思う。


「後悔は、あるんですか?」


「不思議とあまりないです。変な話、実感すら」


意外にも、自分の行動に後悔はないと言う男性。


「ただ、これが本当に正しかったのか、ってずっと考えてはいます」


「正しいかどうかなんて、倫理や社会的、道徳的かどうかで色々変わるものですよ。自分が間違っていない、正しいと思っているのなら、他が何であれ正しかったのではないでしょうか? 他人がどうであろうと、自分は自分。誰も自分の人生の選択に対し、責任なんて取ってくれませんから……」


ありふれた言葉ではあるけれど、私なりに考えそう思ったのもまた事実なので、そのまま答える事にした。


「そう、ですね。確かに色んな事に惑わされ、色々見失っていたかもしれない……」


自嘲にも見える笑みを浮かべながらそう言うと、男性は残っていたコーヒーをぐっと飲み干した。


「ありがとう、結構心がスッとしたよ。また落ち着いたら来てもいいかな?」


どこか晴れやかな表情でそう言う男性、口調が幾分か柔らかくなった様子を見るに、私の助言は間違っていなかったみたいだ。


「いつでもお待ちしております」


不安げに問いかける男性に対し、私は静かに微笑みを浮かべそう返してあげた。


やがて会計を済ませると、男性は恥ずかしがりながらも笑顔でこちらに手を振り店を出て行った。


きっとこれからが大変だとは思うけど、この人のこれからが、きっと明るいものでありますように。


そんな事を考えながら、私は男性の姿が見えなくなるまで見送っていた。


「明日はどんなお客様が来るでしょうか……なんて」


異世界に転生されたりだとか、世界が滅ぶとか、そんな突拍子な事はまるでないけれど。


この喫茶店で働き色んな人と関わり、色んな話を聞いて、時にはささやかながら助言なんてしたりして。


この街に住む沢山の人々と共に生きていく、そんな私の何気ない日々。


夜空に浮かぶ満月を窓から見つめながら、私はきたる明日に思いをせていた。


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