第4話 ペン先案内人


 由仁の背を追ってたどり着いたのは、年季が入っていそうな合板の戸の前だった。


「さあここが僕の仕事部屋だ。散らかっているように見えるかもしれないが、効率を考えて全ての物がレイアウトされていると思って欲しい」


 勿体ぶった前置きに続いて目の前に現れた仕事場は、私にとって想像外の空間だった。


「これが漫画家の仕事場……」


 巨大な液晶タブレットとディスプレイが鎮座しているとばかり思っていた私は、電子機器らしきものが一切ない部屋に唖然とした。


「上から下がってる原稿は乾かしてる最中だから、うっかり触れないように」


 由仁がそう言って目で示したのは、ビニール紐に洗濯挟みで吊るされた何枚もの漫画原稿だった。


「あの、パソコンとかタブレットは……?」


 私が真っ先に浮かんだ疑問を口にすると、由仁は「ないよ」と一言の元に切り捨てた。


「じゃあ、全部手描き……」


 私が絶句していると、由仁は「さあ西岡君、早く机についてくれ。まだ仕上がってない原稿が三枚あるんだ」と西岡に檄を飛ばした。


 由仁のいささか乱暴な指示を受け、先ほどまで接客される側だった西岡は異議を唱えることもなく消しゴムのかすやスクリーントーンの切れ端が散らばる机に向かっていった。


「なんていったっけ、ええと……」


 由仁が私を見ながら口ごもったので、私は仕方なく「星冲聖園です」と二度目の自己紹介をした。


「ああ聖園君、悪いけど君にはここの集中線を頼む」


「集中線……」


 いきなり渡された原稿を見て、私は思わず「うっ」と声を漏らした。


 原稿は下半分だけが埋まっており、上半分は枠線のみの真っ白な大ゴマだったからだ。


「ええと……どうすればいいんでしょう」


 私は原稿を手にしたまま、早くもギブアップの声を上げた。集中線と言えば中心を指定し線の種類を選んで微調整するだけ、というのが私にとっての「普通」だったからだ。


「そこに食事用の丸テーブルがあるだろう?そこを使って。定規とペンとインクは西岡君から借りて」


 由仁は矢継ぎ早に指示を出すと、がばっと机に伏して何やら細かい部分の描写に没頭し始めた。


 ――どうしよう、なんとかしてできないってことをわかってもらわなきゃ。


 私は西岡から道具一式を借りると、わけがわからないまま原稿用紙に向かった。


 大ゴマには真ん中に鉛筆で点が穿たれており、アナログを手掛けたことがない私でもそこに向かって線を引くのだ、と言うことぐらいは把握できた。


「こ、怖い……緊張する」


 私は真ん中あたりが点と重なるように定規を固定すると、ペン先を恐る恐るインクに浸した。


「――わあ!」


 枠線から中心に向かって一本、しゅっと線を引いただけで私は思わずペンを置いた。


「こ……怖くてできません。ずれそうで……」


 私が音を上げると、由仁が筆を止めて「怖い?」といぶかしげに眉を寄せた。由仁はつかつかと丸テーブルの前まで来ると、「こんなのはさあ」と言っていきなり、コマの中心に画鋲を突き刺した。


「……刺しちゃった」


「いい?見ててよ」


 由仁は私からペンを受け取ると、定規を画鋲に押しつけて回転させながら線を引き始めた。そのスピードは立ったままやっているとは思えないほど速く、私は「そうか、紙を回せばいいんだ」と初めて見るアナログテクニックに目を瞠った。


「……もう面倒くさいから僕がやっちゃうね」


 由仁は紙を回しながらそう言うと、数分後には大ゴマを綺麗な集中線で埋め終えていた。


「あ、アナログってすごいんですね……」


「単に僕が拘ってるだけさ。うちの仕事場にはパソコンもタブレットもないけど、締め切りは破ったことがない。それもこれも西岡君のような優れたアシスタントがいるお蔭さ」


「優れたアシスタント……」


 ふと気になって西岡の机を覗いた私は、目の前の現実離れした作業に目を疑った。なんと西岡は資料写真を渡されてから数分で、下描きもせずに大ゴマいっぱいの背景をほぼ完ぺきに描き終えようとしていたのだった。


「これ……トレースじゃないですよね?」


「まあ、言ってみれば脳内トレースかな。僕は一度見た物は完璧に紙に写し取ることができるんだ」


 西岡は私とやり取りを交わす間も製図ペンを動かし続け、さらに数分後には写真と見まごうような街の風景がコマの中に出現していた。


「すごい……」


 アナログの凄さに圧倒された私が半ば逃げ腰になりかけた、その時だった。「聖園君!」と唐突に由仁が手を動かしながら私の名前を読んだ。


「はい?」


「吊るしてある乾いた原稿を、一階に持っていってプリンタでスキャンしてくれないか」


「……プリンタがあるんですか?」


「一階にはね。この聖なる空間には置けないが、パソコンも下の階にはある」


「どうせ取り込むんなら、下で描いたらいいじゃないですか」


「描くために取りこむんじゃないよ。原稿が郵便事故で送れたら編集者が困るだろう?だから先にデータだけ送っておくんだよ」


「はあ……」


 取りこみ終えたら、残りを取りに戻ってきてくれ。あと三十分もすれば全部揃う」


「残りを三十分で……ですか?」


「心配はいらない。うちの仕上げは宇宙一早い」


 私は首を傾げつつ洗濯挟みから原稿を外すと、番号通りに揃えて一階へと降りて行った。

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