第3話 峠道の怪談
とある山道に、幽霊が出没するという。
日が落ちれば暗闇となる、曲がりくねった狭い道。ヘッドライトを頼りに走っていると、突然車の前に女が現れる。
避けることも出来ずに急ブレーキをかけるが、衝撃はない。
運転手は恐る恐る車から降り、辺りを見回すが誰の姿もなく、車の下を覗き込んでも何もない。
木の枝でも飛んできたのを見間違えたのだろうと、運転手は車に戻る。
気を取り直して走り出そうとするが、車内に妙な違和感がある。運転手がバックミラーを見ると、血塗れの女が後部座席に座っているのだ。
その女の姿に、運転手は心底驚かされるという。それは、いかにも幽霊という黒髪の女などではなく、あまりに現実味のある『百貨店などに居そうな中年女性』だからだ。
恐怖よりも仰天して振り返ると、女の姿が無い。もう一度バックミラーを見ても映っていない。
あとには、強い化粧品の臭いだけが残っているという。
車を走らせている者の前にだけ現れ、歩行者やバイカーの目撃談はない。
何をしてくる訳でもないが、不気味な化粧臭の女は暗い山道を走る自動車にだけ出没するのだそうだ。
付近のドライバーたちが口をそろえて話すので、有名な怪談になっていた。
そんな怪談話の主が、角無し鬼の
勧めるでもなく、適当なティーセットに紅茶を出している。茶菓子は必要無いと黒テーブルが判断した。
「この前、案内人みたいな人が来て、それは罪だって言われたんです」
塗り固めたような化粧、パーマをかけた短い髪。高いのか安いのかわからない派手な服装に、大きな耳飾りと金色のネックレスをしている。『おばさん』という文字が服を着たようなその女は、見るからに御立腹という様子で話し始めた。
「あの人たちは、どちら様だったのかしら」
「
と、角無し鬼は答えた。
「現行犯で押さえられたとか言われちゃって。こっちは罪だとも知らなかったのに、そっちで勝手に決めたルールを盾にして。警察みたいに現行犯だの押さえるだのって、とんだ侮辱ですよ」
女は当てつけるような口調で話している。
「そうでしたか」
苦笑する角無し鬼をちらりと見てから、
「いったい、何が罪だって言うのかしら。あなたが説明して下さるの?」
と、言って、女は深々とソファに座り直した。
どっぷりとソファへ体重を預け、黄色いハイヒールを履いた足を組み直す。
角無し鬼は、独特の化粧臭とお怒りの態度に少々怯え腰になりながら、
「ご希望なら、お話します。例えば、あなたが『勝手に決めたルール』とおっしゃったものを、案内人の人たちがあなたに教えてやると言ったら、上から目線に感じませんか」
と、聞いた。
「感じますね。上から目線で偉そうな態度を取られるほど、嫌なことはありませんよ」
「嫌ですよね。案内人さんの言っていた罪というのは、その気持ちに由来してるんです。あなたは車を運転する人たちに、実際に人をひいてしまった体験をさせて、ひき逃げをするかどうするかを考えさせていたんですよね」
角無し鬼は落ちついた声音で話すが、女はイガイガした口調で、
「体験するまでわかりませんから。体験して初めて、交通事故の危険性や運転の重要性を知るんです。誰かを殺さなきゃわからないことを、死んでる私が、実際には誰も殺さずに教えてやってたんですよ。勝手にやっていたとは言え、罪だなんて」
と、言った。
「教えてやってたんですね」
「教えてやって……」
「あなたの、上から目線の意識が、罪だと言われたんです」
「は? 教えてあげるなら良いわけ?」
女がさらに声を尖らせたので、角無し鬼は少し困った顔を見せ、
「んー、あげるという言葉を使っても、真意は上から物申していることもありますからね」
と、言った。
女は、演技のような溜息を吐きだした。視線を黒テーブルへ向け、ティーカップを口へ運ぶ。反対側から見てもわかるほど口紅のあとをカップに残し、ソーサーへ戻した。
「あなた、何が言いたいのかわからないわよ」
言いながら、女は角無し鬼に威圧的な目を向けた。視線に押しこくられそうになるのをこらえ、
「どうしても知って欲しいのとは違うんです」
と、角無し鬼は言う。
「知って欲しいんですよ。どうしたら、わかってもらえるのかしら」
「どうせひき逃げしようとする、逃げることを考えるだろうと思っていたでしょう?」
「迷わせなくては、安全意識に繋がりませんからね」
「突然の怪奇現象に右往左往する人たちを見て、あなたは楽しんでいましたよね」
角無し鬼の言葉に、女は思い切り眉を寄せた。
「……何を言ってるの。そんなはずないでしょ」
「怯えるドライバーに対して、こいつはどうするかしらと見下ろして楽しんでいたのでしょう」
「何を言うのっ? 馬鹿にするのもいい加減にして!」
小さな懺悔室に嫌な声が響いた。怒りあらわという表情だ。
耳の奥まで響いた声が抜けるまで、角無し鬼は数秒口をつぐんでいた。そして、小さく息を吸い込み、
「死後の世界では、これまでのあなたのありのままが見える者がたくさんいます。僕もそうですが、嘘も言い訳も通用しません」
と、言った。
「……あなた、鬼と言ったわね」
「はい、角無し鬼です」
「人を散々侮辱しておいて、あなたの言うことの証明は出来るんでしょうね」
そう言って、女は黄色いハイヒールの足を組み替えた。
「では、水鏡でお見せしましょうか」
黒テーブルに、木目の浮く大きな盆が現れた。薄く水が張られている。
角無し鬼は指先で水に触れ、水面を揺らした。水面が平らに戻った時、夜空に浮く女の姿が映されていた。
身を乗り出して、女は水鏡を覗き込んだ。
夜空に浮いている女の真下に、一台の車が止まっている。
車の中から若い男の慌てふためく声が聞こえだした。女は真っ赤な口紅の大きな口を空へ向け、
「あははっ、あの顔ったらないわ」
と、嘲るように笑い出した。
「さっきの女もよかったけど……今日は大漁ねぇ!」
「――ずいぶんと、大袈裟にしてない?」
と、女は言ったが、角無し鬼は肩を落とし、
「ありのまましか映せないんです」
と、答えた。
「私は、ひき逃げされたのよ。許せなかったのよ。未練もあったし私をひいたドライバーを恨んだわ。車を運転する者が許せなくなって、私の恨みを思い知らせてやろうと思ったの。目にもの見せてやらなきゃ、私は浮かばれないもの……」
女の言葉に勢いが無くなってきたので、角無し鬼は少し安心しながら、
「思い知らせてやる、目にもの見せてやる。あなたをひき逃げしたドライバーへの恨みだったはずが、いつの間にか同じ道を通る車の運転手にわからせるという目的に変わってしまったのは何故ですか」
と、聞いてみた。女は言葉を詰まらせるように、
「……そうするのが、思い知らせる手段に調度良いと思ったから」
と、言った。
「本当は、ひき逃げする姿を見たかったのではありませんか」
「私が? 何故?」
「あなたは確かに一度ひき逃げをされましたが、そのドライバーは思い直してすぐに車を戻し、救急車を呼んだでしょう。本当の死因は交通事故で、ひき逃げ未遂でしかないんです」
「そんなはずないわ」
「忘れてしまいましたか。お見せしましょうか?」
角無し鬼が水鏡に手を伸ばすと、
「嫌よ。死ぬところなんか見たくないわ」
と、女は言った。
「そうですね。僕には見えていますが」
角無し鬼がそう言うと、女は投げやりに、
「もう思い出したわよ」
と、言った。
「一度でもひかれた人間を置いてその場を去ったら、例え戻ったってひき逃げはひき逃げだと私は思うわ」
「それが執行猶予となってしまったので、許せなかったんですね」
「……そこまで知っているのね。プライバシーの侵害に思えてきたわ」
と、女に睨まれ、角無し鬼は、
「すみません」
と、謝った。
女は、もう一度ティーカップを口へ運んだ。
「もう良いから、あなたの見えるありのままとやらを教えて」
「はい。見通しが悪くて速度を十分落として走り、運転手の過失は大きくないと判断されたものです。被害者はすれ違うのもやっとの狭い道で中央に車を停め、エンジンも切っていた。車の外へ出て、イヤホンで音楽を聞きながら煙草を吸っていたんです」
黒テーブルの上の水鏡は姿を消していた。角無し鬼は静かに聞いている女の目を見て、ゆっくりと話した。
「運転手はカーブを曲がった瞬間に、被害者ではなく停車中の車に気が付いて急ハンドルを切りました。被害者は停車中の車と、斜面に乗り上げながらスレスレで通り過ぎた車の間に挟まれて亡くなりました。運転手の主張は、衝突を免れた安心と何かを挟んだ感触の不安がごちゃごちゃになって車を走らせ続けてしまったというものです。ドライブレコーダーにも残っている状況と事故後の心理が考慮され、運転手は執行猶予五年という結果になりました」
角無し鬼が話し終えると、女は小さく何度も頷いた。
「それは、あなたが見える状況? それとも裁判の結果?」
「どちらも言葉にすると、ほぼ同じになります」
「あら、そう」
女は、演技ではない自然な溜息を吐いた。
「あなたも、裁判を見たのでしょう?」
と、角無し鬼が聞くと、女は視線を逸らし、
「加害者が、こっちが被害者だって呟くのも聞いたわ」
と、言った。
「そうでしたか……それで、案内人の人たちに罪だと言われて、お怒りだったんですね」
「どうせ私が悪いわよ。でも私は被害者よ!」
「もちろんです」
さらりと答えた角無し鬼に、女は一瞬口をつぐみ、
「……え?」
と、聞き返した。
「あなたは被害者です。相手の運転手は加害者であって被害者でもあるように思いますが」
「あなたたちは、私が加害者だと言いたかったんじゃないの?」
まばたきを繰り返しながら、女は言う。
「まさか。あなたに非があれ、亡くなったあなたは被害者です。しいて言うなら、あなたはあなた自身の運転への甘さによって被害にあったのかな」
「運転への甘さ……」
「後悔したのでしょう? 自分は死んでしまったし、犯人は執行猶予になるし。それがやるせなくて、矛先を他のドライバーたちに向けてしまったのではありませんか」
「そうね……そうだったかも知れない」
化粧の塗り込まれた目元に、涙が浮いていた。
「私だけが悪いなんて、思いたくなかったのよ」
「あなただけが悪い訳ではありませんよ」
女は小さく頷きながら、
「ありがとう」
と、言った。
女はきちんと頭を下げ、
女の座っていたソファに、大きな空気清浄機が置かれている。
「凄いにおい……早く吸い込んで」
ゲッソリとして角無し鬼は、自分のソファで伸びてしまっている。
もちろん、空気清浄機が冥界に出回っている訳ではない。角無し鬼が雑誌で見付け、黒テーブルが出してくれたものだ。コードもコンセントも無いが、ヒューヒューと音を出して空気を吸い込んでいる。
「それっぽい噂が確定的な怪談になることって多いらしいけど、本当に亡くなった人の残存霊が関わってることもあるんだ」
ソファに寝そべりながら呟く角無し鬼の言葉を、宙に浮く
「わかっていてもわかりたくなくて、どうしようもないまま、やりたいことを続けてしまう……なんだか可哀想なおばさんだったね。紅茶は、なんだっけ」
角無し鬼は目を閉じていたが、黒テーブルの上にティーカップが現れ紅茶の香りが広がった。
「あ、ダージリンだ」
香りで言い当て、羽筆が懺悔日誌へ書き込んだ。
「案内人の人たちも、もう少し配慮とかしてくれると良いのにね。優しい案内人さんも居るけど……あ、それは書かなくていいよ」
記入を迷っていた羽筆に言うと、懺悔日誌はひとりでにパタリと閉じてしまい、その上に羽筆も横になった。
「あー、くさいとは違うけど、きつい臭いだったなぁ……女の人って大変なんだなぁ」
怪談にまでなった強烈な残り香に、角無し鬼は溜息を吐いていた。
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