春の朝

小狸

春の朝



 春は苦手である。


 正確に言うなら、嫌いである。


 気候や花粉症の類は、我慢することができよう。

 

 しかしどうだろう。

 

 出会いと別れ、卒業と入学、環境と心境の変化。

 

 新たな一歩。

 

 そしてそれらを祝福するように咲く桜が、私は苦手だった。


 こぞって皆が花の写真をSNSを投稿するのを見て、ああ――と納得してしまう。

 

 彼らは、春の訪れを喜べる人間なのだ――と。

 

 きっとそれが正しいのだろう。

 

 天候が変わるように、今日と同じ明日が来ないように、人だって毎日変化する。細胞は生き死にを繰り返すし、心は交流電圧の如く変動し続ける。

 

 そういうものをきちんと受け入れることのできる人々を。

 

 私は心底、羨ましいと思う。

 

 そして、変化のたびに身体と心に支障をきたす私は。

 

 きっと間違っているのだろうとも。


「はあ」


 溜息のつもりはなかったが、何となく息が漏れた。


 吐息は白くはならない。


 朝だからだろうか、もう四月だというのに肌寒かった。


 家にウインドブレーカーか何か羽織はおるものを取りに行こうか迷ったけれど、親に会いたくないので止めた。


 朝早く――まだ部活が始まっていない時間に、毎日私は散歩をする。お気に入りのコースは、小さな川に沿って団地を横断し、池を一周して帰ってくる、というものだった。人通りが少ないから楽だし、何より知り合いに会うのが面倒くさい。


 彼らは私がずる休みしていると思っているのだから。


 最初は両親に制止されたけれど、癇癪を起してからは何も言われなくなった。


 年頃の娘が朝早くに外に出るな――とか。


 危ないから――とか。


 驚くほどに、その言葉は私には響かなかった。


 心配とか。

 

 不安とか。


 どうしてなる前に、言葉をかけてくれなかったのだろう。


「とかね」


 つぶやいてみた。


 小さな声だったので、川の流れる音にかき消された。


 川沿いに桜が咲いているからか、上流の方から、桃色の花びらが流れてきていた。


「きれい」


 何となく、これも声に出してみた。


 久々に喋ったので、舌を噛んだ。


 絢爛けんらん豪華ごうかに咲き乱れる桜の花より、散って流れる方が綺麗に見えた。


 朝日はまだ昇っていない。


 街燈の白い機械的な光に照らされて、時折花弁が水面できらめいた。


「最後の輝きってやつ?」


 口に出してみたものの急に恥ずかしくなって、つい辺りを見渡した。


 再三言っているように、早朝なので周囲には人はいない。


 家からここまで、ランニングしているおっさんくらいにしか会うことはなかった。


 だからこそ、唯一の生き物――植物である桜の残滓が、妙に目立っていた。


 そういえば昔、植物は生きているのか、なんて考えたことがあった。

 

 こうして川を流れる花びらは、植物を構成する要素は、生きていると言えるのか。

 

 溺れたり、苦しんだりはしないのだろうか。


 それはとても楽なのだろう。


 役割を終えて、散って、意思も苦しみもなく、どこかに流されて消えていく。


 もう輝かなくていい。


 皆を期待させなくていい。


 頑張らなくていい。


「いいなあ」


 勝手に声が出てきたけれど、何が『良い』のかは私には分からなかった。


 今日は四月五日。始業式の日である。


 クラス替えや担任発表、新しい先生など、期待を膨らませる同級生たちの気持ちを、私は全く理解できなかった。

 

 いつまで経っても騒いでわめいて――静かにしないと、また教頭先生が怒るというのに。


 そして連帯責任だとかで、言われるのだ。君らの学年は過去最悪だ、と。


 いや――そんなことよりも、だ。

 

 新しいクラス。


 新しい環境。


 新しい場所。

 

 何にでも、定型句のように新しいの付く、いわば総とっかえのこの季節が、私には耐えがたかった。


 小学校の頃は、いつも始業式の次の週は休んでいた。


「なんでこんな風になっちゃったんだろうなあ」


 これは意図して、声に出してみた。


 ただ、答えははっきりしている――変化についていけなくなったのだ。


 中学にあがって一年目。途中から、私は学校に行けなくなった。


 部活動と、塾と、学校の宿題と――今まで会ったことのない別の地区からのクラスメイトと。その余りに過多なる変化に、耐えられなかった。


 周りの皆が、当然のように毎日登校していることが信じられなかった。


 皆の方が異常だと思ったこともあったけれど、実際異常なのは私だった。


「異常なのは私」


 言ってみて、優越感めいたものに浸っている自分に気付いて、また恥ずかしくなった。


 異常。


 響きは格好いいかもしれないが、誇れるものは何一つない。


 当たり前のことを、当たり前にできない私。


 ――お前みたいな奴は、皆の迷惑だ。


 誰かに言われた台詞である。


 誰かは忘れた。


 ――そんなんじゃ社会に出た時苦労するぞ。


 これも誰か大人に言われた言葉だった。


 知らねえよ、私みたいな奴はきっと大人になれずに死ぬから良いんだよ。それが世

 の中のためなんだから。


 心の中で毒づいた。


 毒を振り切ろうと、ふと後ろを振り向く。


 曲がり角で住宅から離れ、神社のある場所だったので、夜の闇がそこにはまだ残っていた。


 怖くなって、前を向くと。


 どれだけもがいても、どれだけ走っても届かないくらいずっと遠くに、日の光が差している。


 私が止まっている間、皆は前に進んでいる。

 

 その事実が。


 胸に、不安と共に襲ってきた。


 もう勉強もほとんどついていけていない。


 欠席数もかなり溜まっている。



 卒業できるのかさえ怪しい。


 そんな中でも、周りの皆は、同級生は、かつての友達は、私を殴ったあの男の子は、私を叩いたあの女の子は、私を笑ったあの先生は、普通に毎日を過ごしているのだ。


 生きて、今日とは違う自分になっている。


 それに対して、私はどうだ?


 私は、ずっと、いつかの私のままだ。


「いやだ」


 走った。


 少しだけ顔を覗かせる朝日に向かって。


 一応上下ジャージではあったけれど、運動不足である。すぐに息は切れたけれど、それでも無理矢理足を動かした。


 止めてしまったら、全てが終わってしまうような、そんな気がして。


「怖いよ、怖いよ、嫌だよ」


 視界が縦になびく。


 ずっと川には、花びらが流れていた。


 この先は、どこに続いている?


 いつ、終わる?


 いつまで私は、このままなのだ。


「嫌だよ、こんな私、嫌だよ、怖いよ、助けてよ!」


 顔から汗が、鼻水が、涙が、言葉がどす黒く広がって押し寄せてくる。


 逃げなくては。


 そのためには、走るしかなかった。


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。 


 走って。


 走って。


 走って。


 走って。


 そして、走って。


 池のほとりのところで、ようやく止まった。


「はあ……はあ……はあ……」


 全身から汗が吹き出て、ジャージの中に籠っているような感じになった。家を出た時の寒さが、まるで嘘のようだった。


 呼吸を落ち着かせるために――川沿いのフェンスに肩を預けると。


 丁度、池の取水口が目に入った。


「…………」


 川から池へと水を通すために、関門のようなものがある。


 そこまで順当だった流れはよどみ、複雑な渦を形成していた。


 水はそのまま池の方へ導かれるけれど、大半の桜の花びらは――取水口の横の淀みに溜まっていた。


 咲き誇る絢爛たる輝きも、流れる幽玄な美しさなど見る陰もない。


 水中のゴミやにごりと共に、り固まって悪臭を放っていた。


「……あはは」



 



 何となく、そう実感したら、勝手に笑ってしまった。


 こんな近くに、私がいた。


 先に進めず、取り残されて、変な匂いを放ちながら、それでも、こうしてあり続けて――生き続けている。


 きっと皆は笑うだろう。だから私が先に自分を笑っておくのだ。こんな桜の残骸に、勇気づけられるなんて。


 池の方へと進むと、丁度朝日が昇ってきていた。


 水面みなもが浮かび、神々しく輝いている。


 きっとあの綺麗な水面こそが、皆なのだ。


 私は、あっち側には行けない。


 ずっと淀んで、沈んでいるだけだ。


 悪臭を放ち、周囲に迷惑をかけ続けるだろう。


 でも。


 そんな私でも、生きていても良いかな。


 そう思えるようになった。


 きびすを返して、家へと帰る。


 街燈は消えていた。


 今日は私が不登校になってから、半年の記念日である。


 おめでとう、私。



(了)

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春の朝 小狸 @segen_gen

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