【実話・エッセイ・体験談部門】短編特別賞『富田さんの瞳』の感想

富田さんの瞳

釣舟草

https://kakuyomu.jp/works/16816700428921086241


 DVがあると息子にいわれた富田夫妻は別れて施設に入れられ同時期に亡くなったことを思い出す話。


 第四回カクヨムweb小説短編賞2021において、

「短編賞を受賞した三作品はストーリー展開、キャラクター、文章力などが高いレベルでまとまり、小説として完成度が高く、なおかつコミカライズでさらに輝くポテンシャルを持っていました」

「短編特別賞の九作品はいずれも秀作で、わずかの工夫や見直しで短編賞を受賞した可能性がありました。作者の皆さまは力量十分ですので、次回にぜひ捲土重来を期してください。短編小説を書く方には参考になる作品ばかりなので、ご一読をおすすめします」

「コミックフラッパー奨励賞の一作品は短編小説としての完成度という点で他の受賞作と比較した場合、一歩足りないところはありますが、映像が情景として浮かびやすく、この物語を別の媒体で読みたいと思わせる作品でした」

「新設の実話・エッセイ・体験談部門では、七作品が短編特別賞に選ばれました。独自の経験、体験談を見事にアレンジし、読み手に届けることに成功した作品ばかりです。新しい知識が面白く得られる作品から、涙なしでは読めない感動の作品まで、幅広いラインナップとなっています。フィクションとはまた違った角度から、読む楽しみを味わわせてくれる作品ぞろいではありましたが、コミカライズという点では適さない部分もあり、惜しくも短編賞は該当なしとなりました」と総評されています。


 主人公は元介護職、一人称私で書かれた文体。見聞きし体験し、その時考えたり思ったりしたことが綴られている。


 体験談であり回想なのだけれども、メロドラマと同じような中心軌道で書かれているように見える。

 富田夫妻は、息子からDVだといわれて施設に入り、介護職員たちは富田正之を特別養護施設に入所させ、一方の奥さんのキノは、そこから歩いて数分のところにある系列の有料老人ホームにいる。

 それぞれ自分たちでは会いに行けない状況、障害にある。

 克服できるサブキャラの介護職員はいるが、障害をクリアできず富田さんが退場していく。

 クリアできないことで富田キノは亡くなり、それを察知した富田正之も後を追うように亡くなる。障害をクリアできず、前に進めなかった。

 それを主人公は離職後も何気なく思い出すも答えが出ない。

 はたしてあれは愛だったのかしらん。


「息子は幼い頃から、父による壮絶なDVを見てきた。母は殴られ、蹴られ、謝っても許されることはなかったそうだ」とある。

 これは息子の主観である。

 たとえば、そういうことが過去に一度あったかもしれない。

 その一度を頭の中でくり返し思い出し、ささいな言い合いでさえ息子の中ではすべてDVと捉えていただけかもしれない。

 彼の言葉だけですべてを決めつけるのは早計である。


 昔のドラマを見ればわかるのだけれども、昭和くらいまではそういうことは多々あった。あったから暴力が正しいとは言わないけれども、今現在の価値観で当時の価値観を推し量って良し悪しを決めつけるのは偏見を生みやすく、危険である。

 たとえば、「わずか二十四歳でバーゼル大学の古典文献学の教授に就任したフリードリッヒ・ニーチェは三十五歳での大学辞職後に十年の流浪を重ね、四十五歳のときにトリノの路上で発狂し、母や妹に介護されたまま十年後に死亡した。かつては天才と呼ばれていた男の五十五歳での終焉。なんと悲惨な末路であろうか」という文章にも偏見にまみれている。

 わずか二十四歳とは、平均年齢を下げる要因である病気や戦争などのない医療の整った長命の中で生きている現代人だからいえるのだ。百年ほど前は二十四歳は若者ではなく、中世なら七歳から大人に混じって働くのは当たり前だった。

 発狂も、正常と異常の二極化のレッテルを貼りたがる近代以降の考えに由来する。

 悲惨な末路とは、清潔な状態で穏やかに看取られて死ぬことが正しい死に方だとする、現代社会に生きる典型的価値判断から来ている。

 現代社会の、なんにでもラベリングしてインスタントにわかったような気になりたがる考えは、難しいことを自分の頭で考えずに楽をしたいから。

 

 いまもそうだけれども、自分の気持ちを正しく相手に伝えることは、誰にでもできることではない。不得意な人もいる。

 子供は駄々をこね、イヤイヤをし、泣きわめく。 

 言葉ではないけれど、行動や態度は立派なコミュニケーションツールである。

 大人になれば、すべての人が理路整然と自分の考えを持っていて、質問者の意図を組んで無難にそつなく返せるようになるかといえば、そんなことはない。

 昔の人なら、なおさらそういうところは、口よりも手が先に出る。中には本当に問題のある人もいるけれども、そうじゃない人もいる。

 それが二人の会話、コミュニケーションの方法だったかもしれない。


 女同士たまに会って話題にする他人の嫌味や悪口、愚痴や毒吐きも、立派なコミュニケーションだ。

 でも他人から見たら、他人を罵り罵倒し、平気な顔をして、あまつさえ笑みを浮かべて、声を荒げた高笑いまでする。

 この人達は他人をいじめているかもしれない、ろくな人間じゃない、と周りの人は思ってみている可能性もある。

 あまりにもひどい悪口は暴行罪に該当する。

 立派なDVだ。


 介護しなければならない多くの人と、やらなければならない多くの仕事に忙殺されて、一人ひとりの人生を深く考えず、十把一絡げの感覚で、DVだからとラベリングして対応してしまった職員側に問題はなかったのかしらん。

 現場にいないからそんな悠長なことがいえるんだ、と言われると、もちろんおっしゃるとおり。だからこそ、どんな現場で働く人も最新の注意が必要だと考える。現場を良くするのも悪くするのも、そこで働いている人次第なのだから。そこで働いていない他人は、やじるように、あれこれ外野でぼやくしかできない。


「お食事形態も、刻み食やミキサー食の人が多い中で、しっかり常食を召し上がっている」とある。

 老いると、歯が丈夫な人ばかりではないので、調理過程に刻むのだ。刻み食は、まだ自分で噛める人。ミキサーにかけてドロドロにするのは、噛む力が衰えてきてる人だろう。

 噛まないと食事は楽しめなくなる、と聞いたことがある。なので、少しでも食感を残すような工夫をしているかもしれない。それは入居者の状況次第だろう。

 そういうことがわかっていると、自分で噛んで食べれていた富田正之が弱っているのが食事からわかる。介護職員も食事で、入居者の体調を見ているのがわかる。

 

 他所の犬を可愛がってはいけない、と聞いたことを思い出す。

 犬は良くしてくれた人を覚えていて、また遊びにこないかなと待ち疲れて早く死んでしまう、と。

 あるいは客商売で、店を開いて来客を待っているけれど、誰一人来ない。チラシも配り、看板もあげ、告知もした。それでも、いつくるのかいつくるのかと待ちながら、結局今日も来なかったとなると、本当に心身が病んでいく。

 忙しい店で働くのも大変だけれども、暇な店で働くのは地獄。

 会社の中でも、自主退職を促すために暇な部署に配置換えするのも、似たようなことが言えるのではないかしらん。

 とくにコロナ禍で、来客がなくなり、店を閉めたところもある。

 利益が出なくなったのもあるけれども、客商売は特に客が来ないと心が荒んでいくものだ。


 富田夫妻は、別々のところに入れられて、周りは知らない人ばかり。旦那に会えず、妻に会えず、きっと息子も面会には来なかっただろう。面会に来た描写がないからだ。

 無視や無関心もまた、立派なDVである。

 孤立して寂しくて亡くなったのかもしれない。

 介護職員が会わしてくれないのはもう死んでしまったからかもしれない、と富田夫妻が思っても無理からぬこと。

 同時期に亡くなったのは、二人の愛を引き裂いたからだろう。


 災害が起きて避難したとき、コミュニケーションがとれるよう、普段の生活圏内の人たちで固めるよう心がけていると聞いたことがある。

 人は一人では生きられない。あらためてコミュニケーションが何より大切なことを、本作から教訓として学ぶことができた。

 

 実際のところ、どうだったのだろう。

 共依存による奇妙な偶然、という考え方もできる。

 そのアンチテーゼとしての見方をした感想を書いてみたまで。

 答えは誰にもわからない。

 



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