『マッチ売りの少女』の感想

マッチ売りの少女

作者 前 陽子

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893062378


 外房生まれのキヨシの誕生日であるクリスマスに、店の大将と常連に祝ってもらい、山形出身の紅と酒を酌み交わしながら互いの人生を語り合って結ばれる物語。



 童話と同名のタイトルが付けられている。

 果たしてどのようなお話なのか、楽しみである。


 すばる文学新人賞一次通過作品とある。縦書きをコピペしたらしく、改行等がずれている。また誤字等が見られるも、気にしない。しないのだけれども、おそらく文体表現も物語を構成する一部と思われるので、できるのであれば手直しされてみてはどうかしらん。


 三人称と一人称がまざったような文体。主な登場人物のキヨシ、大将、紅の三人の視点がコロコロっと変わる。三人称神視点や第三者視点も入っている感があり、誰が語っているのかがわからなくなる箇所がある。

 大将の店でお酒を飲みながら、頭に浮かぶ順番で吐き出すように昔話を語るので、会話の合間に状況視点や心情、注釈、思い出の中に出てくる他人の視点も混ざり、時系列どおりですらないため、語られるお話自体迷走している。

 しているのだけれども、キヨシや紅は酔っ払っているので、まさに酩酊状態を作風で表現しているかのような作品として読み取れなくもない。後半以降、酔いが冷めかけているのだろう、文章がスッキリしてくる感がある。

 とはいえ、読みにくさがあるのは間違いない。

 ないのだけれども、酔っぱらいの話を素面の人が聞くと、理路整然としていなくて理解に苦しむ様を読者が追体験できる作品として、楽しめる。

 メロドラマのような中心軌道で、互いに語り合うことで、抱えている障害をクリアして前に進んでいく。


 掲載が二〇二一年九月なので、二〇二〇年に執筆したと思われる。そこから、書かれた内容の時代をそれ以前、二〇一九年の十二月と仮定する。コロナ禍で自粛している様子を感じられないから。

 大将は、昭和二十二年二月二十二日生まれ。なので、二〇一九年において推定七十二歳。社長さんも大将と同い年なので七十二歳となる。

 キヨシの父親と漁をしたのはいつだろう。

 東日本震災以前と以後の海は違う、とある。

 子供だったとき親の取ってきた魚を見聞きしているだろうし、その頃に親の船に乗せてもらった経験等があるのでは、と考える。

 高校中退後、マグロ漁船に乗って遠洋へ出ている。お手軽に一週間くらいで取ってこれるマグロ漁船もあるけれど、遠洋漁業となると少なくとも一年は帰れない。

 キヨシが高校二年で中退したと仮定し、戻ってきて十八歳。

 その後、父親と漁をしていたとすると、期間は七~八年だから二十五歳くらい。

 台風で遭難してなくなり、葬儀にタカが出席。母親が民宿をはじめ、キヨシは手伝いをしていたがそのうち家に居づらくなって、帰らなくなっていく。

 中古車セール、板前見習い、パチスロ、ホスト三日、ビルの窓拭き十日、雀荘と点々としてタカと再会、ヤクザの道へと進んでいく。

 半年したら職を移ったとあるので、単純に、家を出てから二年くらいしてタカと再会したと考えると、二十七歳。

 シマを任されるようになるまで数年は必要と思われるが、タカがキヨシに地元を任せたのかもしれない。

 大将の店に行くようになって八年とあるので、本作冒頭でキヨシの年齢は、少なくとも三十五歳と推測される。

 タカがなくなった二年前は三十三歳。その後、新しいボスに言われてマッチ売りの少女をしていた紅に会い、大将の店で話をしたとすると、紅はキヨシより五歳年上なので、出会った当時は少なくとも三十八歳だったのかしらん。

 だとすると、作中クリスマスに誕生日を迎えたキヨシは三十六歳になったのでは、と計算してみた。

 作品から昭和臭が漂うので、ひょっとするとキヨシは四十代かもしれない。

 ウルトラマンのビームという表現がある。ウルトラマン世代はもう少し上なので、五十代かもしれない。(ティガ以降のウルトラマンもあるので、断定できない)


 誕生日がゾロ目だから、ゾロ目にこだわる大将。でも関西、大阪の人かもしれない。日本人はゾロ目が好きだけれど、大阪は特にゾロ目を好む県民性であり、イベントだけでなく値段設定や車のナンバーまでゾロ目で揃えたがる。

 大将を西の人にした方が、バランスがいい。

 遠洋漁業や漁に出たり、職を転々としたりと移り変わっているキヨシは千葉県出身。紅は東北山形出身。大将も東京の元ヤクザとしたら、東日本で固まってしまう。

 作風に合わない気がする。

 登場人物たちは紆余曲折あって流れに流れてきている。

 なので、大将は大阪出身でヤクザしていたけど足を洗い、自分の昔を知らない土地で再出発しようと上京して板前の道へ進み、自分の店を構えるようになったからこそ、キヨシや紅のような人が来店してお酒が飲めるのでは、と思えるからだ。

 実際のところはよくわかりません。


 漁師の入れ墨の話は事実だ。

 最近は少なくなったと聞く。なので、祖父は入れ墨をしていたが父親はキレイだった、というのは現実味がある。

 現代で、マッチ売りの少女をして稼ぐ人がいるだろうか。

 SNSを使い、本物のマッチ一本だけを売る人(火を灯して中を見せない)がいたのは確認したけれど、作中のマッチ売りの少女はフィクションかもしれない。

 ただ、現実味のあるキヨシや紅の遍歴があるから、「ひょっとしたら……」と読者に思わせることができるのだろう。お話に作り話を入れていいのは一つだけ、と言われる所以であろう。

 もちろん、大将やキヨシ、紅など作品は創作だろう。

 けど、どこかに事実が混ざっていると感じさせられる。


 冬の寒さと大将の料理や酒の香りが匂い立ってくる描写があると、より物語の世界に迷い込めたかもしれない。


 紅の、「キヨシのお酌とタバコの火付けの手に休みはなかった」という描写から、彼女が水商売の経験があると伺わせる。このような表現が散りばめられていて、紅という人物の背景が感じられる書き方が良い。

 蛍光灯の描写がこだわりを感じ、クリスマスはキヨシの誕生日と移っていく辺りが、意表を突かれて面白かった。


 キヨシの誕生日がなぜクリスマスなのか。

 おそらくタイトルの『マッチ売りの少女』と関係しているからと思われる。

  アンデルセン『マッチ売りの少女』とは、マッチを灯しクリスマスの幻を見ながら、寒い大晦日の夜に凍え死ぬ話である。

 ゆえに、クリスマスなのだろう。

 そもそもこの話は、アンデルセンの母親が子供の頃、両親に「物乞いしてきなさい」と出されて一日中橋の下で泣いていた思い出を、息子のアンデルセンに語って聞かせたことに基づいているという。

 アンデルセンが生まれた時代のデンマークは、ナポレオン戦争で敗れたことで経済危機に陥っている。ゆえに『マッチ売りの少女』は、経済困窮者に対して支援が行き届かなった当時の社会状況を現しており、少女は祖母のいるあの世へ行くしかもはや道がなかった様子を、メルフェンという形にして発表したのだろう。

 また、「キィーヨーシー、こーのよーるー、ホーシーはー」と歌っているように、『きよしこの夜(聖夜)』から彼の名前も来ていると思われる。


 なぜタカと、父は呼んでいたのか。

 タカの父親が校長先生をしていたからだろう。蛙の子は蛙、鷹の子は鷹といいたかったのだ。ヤクザをしていても、ガラが悪いわけでもなく筋が通っていて、行動力もある。タカの生き方に父親は惚れたのだろう。

 また、キヨシは父親をカエルではなくタカだと思っている。自分はカエルだけど、と卑下するキヨシに紅は「瓜の蔓にはなすびは成らぬ」という。瓜から茄子はできない。カエルからタカは生まれない。父親がタカと思うなら、キヨシもタカだと、紅はいいたかったのだ。

 お酒を飲みながらの会話っぽいけれど、頭の回転が速いことも伺える。紅の賢さを感じる場面だ。

 つまりキヨシにとって、生みの親は漁師の父親であり、育ての親はヤクザをしていたタカ。二人のタカの子供、それがキヨシなのだ。

 

 キヨシより五歳年上の紅は、山形の肘折の奥にある大蔵村の出だ。

 山形県北部、最上地方の南部にあり、南方には霊峰月山、葉山、それに連なる山々に囲まれ、山林面積が全体の約八十五パーセントを占めるという人口約三千人、山形県最上郡大蔵村には開湯一二〇〇年の歴史を誇る肘折温泉郷や日本の棚田百選に選ばれる四ヶ村の棚田を有し、景観や環境を大切にしている「日本で最も美しい村連合」に加盟している。 

 中学卒業後、高校に行けという母親の意見に背き、不動産会社に就職、上京し働き始めると、大手不動産会社の名前を誇大告知した孫請け会社。やらされたのは、アパート共用部分の掃除や退室後の片付けなどの清掃、駐車場整備の際は交通誘導員にもなった。四人部屋の寮でいじめに、会社ではパワハラにあい、退職。

 高額報酬という広告に誘われ、キャバクラやスナックに身を委ねるようになっていく。が、賃金のピンハネや警察沙汰に巻き込まれる。

 コンビニの早朝バイトと倉庫のピッキングの掛け持ちを三年続け、同列企業のコールセンターに転属、のちにクレーム部門に配属されるもクレーム部門にクレームがつき、辞めさせられてしまう。

 下町の路地の、その先の細くなった路地を、更に曲がった窪みで、一本千円でマッチを灯し、スカートの中を見せるお立ち坊をして人を集める。のちにキヨシと会う。


 新しいボスの命令でシマを預かるキヨシは『マッチ売りの少女』で稼ぐ紅と会い、大将の店で彼女にシマのハナシと事情、ルールと掟の違い、挨拶料という初診料金みたいなモノの意味、相場と歩合、取り立て方法、シマと付き合っていく方法などを話していくうちに親しくなっていく。

 

 紅の父親は働き者だった。が、同郷の先輩の保証人となるも逃げられ肩代わりをするだけで家の仕送りができなくなり呆け、胃潰瘍となり、その後、痴呆症となり施設へ入る。

 母親は雪の季節は内職やら共同浴場の管理、春になれば畑仕事に山菜採りなどを祖母と一緒に勤しんでいた。が、酔っぱらいの観光客にレイプされ首をつって自殺した噂が流れる。北海道のおじさんのところへ行かせた、と紅は思っている。

 七つ年下の弟と十歳違いの妹がいる。


 紅がしていたお立ち坊の仕事から、本作のタイトルが付けられていると思われる。が、作中に「以前、野坂昭如の本で読んだことがありましてね、こういう商売は昔からあるそうですよ」とあるように、野坂昭如が一九六六年に書いた小説『マッチ売りの少女』を参考にしていると思われる。

 昭和四十年代、大阪西成区釜が崎のドヤ街にて、マッチ一本の灯りがついている間だけスカートの中を覗かせる女性の仕事の話であり、おおさあなどで実在していた実話をベースにしているという。

「マッチ一本分のご開帳が五円、カキが五十円、尺八が二百円」異形な浮浪者の身なりで五十過ぎにしか見えないその女は、実は二十四歳。最後は木枯らし鳴る三角公園にて寒さに耐えかねながら、見たことのない父の温もりを思いつつ、マッチの火をあてがった末に粗末な服に燃え移って死んでしまう話である。


 本作は、困窮する現代社会を救済するメルフェンが描かれている。

 困窮する社会を描いたアンデルセンのマッチ売りの少女のようにバブル以降、失われた二十年三十年と賃金も上がらない社会であり、コロナ禍でさらに困窮する人々が増えた。そんな人々の代表としてのキヨシが夢をみた。

 野坂昭如の書いた悲しく終わるマッチ売りの少女を題材に用いながら、中学のとき旅館の中居の手伝いをしていたため、仲居になりたいと思っている紅はおそらく、キヨシの母親の民宿で働くことで夢が叶うのではと思える。

 彼女の救済とともに、キヨシも救われるだろう。

 夢みたいなありえないことが起きることを、奇蹟という。

 クリスマスは奇跡が起きてもいい日だ。


 読後が、救われた感じがする。

『きよしこの夜』の英語歌詞の和訳、「静かな夜、聖なる夜。神の子、純粋なる愛の光。聖なる尊顔は光あふれ、救いの恵みの兆しなり」と聞こえてきそうである。



 

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