第五十一話
ちょうどその女の子のインマルを見ていると、乗り換える駅に到着した。ここから待ち時間が十分程度あるはずだ。俺はその時間に母さんに電話をすることにした。時刻は三時半を過ぎていた。朝の話だと、今の時間にバスの乗れば三時間で目的の駅に着くといってたのを思い出した。それならその方が早かったんじゃないかとも思ったが、一刻も早く動き出したい自分がいた。そして、何かあった時に高速バスでは身動きが取れないとも思っていた。電車ならどこからでも軌道修正が効く。一度バスに乗り込んで仕舞えば、そこから先は停車する機会も少ないだろう。いつでも軌道修正できるようにしておくのは、いつもの癖だった。
――五稀がもしも電車で移動したなら、どこでもいけるはずだ。でももしもバスや誰かの車に乗って移動したなら、目的地の変更は難しいだろうな。
そんなことを思ったら、どちらの移動手段を利用していたとしても、不安な気持ちになった。手持ちのお金が今の自分のようにあったとしたら、電車に乗れば東京だって行ける。反対に誰かの車に乗り込めば、行き先は運転手任せになるということだ。
――だめだ。今は不安になるよりも、現実的な可能性を探すんだ。感情的になったら見えるものも見えなくなるだろ。
そう思い、駅のホームの端に歩きながら、母さんに電話をかけた。この駅は乗り換えが多い駅で、線路がいくつもいくつも横に広がっている。その茶色の景色が雨に打たれ、鈍い灰色となって不穏な空気を醸し出しているような気がした。寒い、冷たい、悲しみの雨が錆色の線路に吸い込まれてゆく。
「もしもし? 連絡きた……?」
しばらくコールして電話に出た母さんの声は、朝よりも力が抜けているような気がした。あれからまだ一睡もしていないのだろうか。その生気が抜けたような声に俺の心も萎みかけてしまいそうだった。でもこういう時こそ、しっかりしなくてはいけない。今までもそうやって、母さんとやってきたんだから。そして今はそこに父さんもいるんだから。
「まだ。そっちにも連絡、ないんだよね?」
「うん。ない……」
「父さんは?」
「ショッピングモールとか、ネットカフェとか見てくるって。向こうのお母さんと出かけて行った」
あてもなく探しに行ったのだろうと思った。思いつくところには電話をしただろうし、元々その土地に住んでいたわけではないから、探しに行く知り合いも少ないはずだ。それに、元奥さんの五稀のお母さんと一緒に探しに行くのは当然だと思った。俺は今家で一人でいる母さんのことを思った。そんな状況で、母さんの心は傷つき、苦しいはずだ。少しでも元気になってほしい。いや、そうじゃない。傷つき、一人きりで連絡を待つ母さんのそばにいてあげたい。
「俺、今そっち向かってるから」
「え……?」
「多分駅に六時半過ぎには着くから。迎えにこなくてもいいよ、自分で家まで向かうから」
電話の向こうで母さんが沈黙した。何かを考えている様子だった。もしかして良くないことをしたのだろうかと思って、耳をすましていると、母さんが申し訳なさそうに俺に切り出してきた。
「あのね、ヒロ君。今は家に来ないで欲しい……」
なんでそんなことを言うのだろうか。大事な妹が家出をしているのに家に帰らない兄貴なんておかしいのじゃないか、そう言おうと思って口を開こうとしたが、その瞬間に母さんの言いたい事がわかった。俺が家にいたら、五稀が帰ってきた時に嫌な思いをするんじゃないかと、母さんは心配しているのだ。直接俺には母さんは決して言わないだろうけれど、俺にはそう分かった。俺の心の中に重たい塊が落ちてくる。それは、取り返しのつかない罪の意識と罪悪感なんだろうか。
「……分かった。じゃあ、連絡あったらすぐに教えて。俺も心配してるから」
そう言って、電話を切った。
――そりゃそうだよな。俺が原因なんだから。そりゃ俺が帰ってちゃまずいよな。そっか、だから連絡があれから何にもなかったんだ。
そう思ったら涙がこみ上げてきた。俺は自分のせいで五稀が家出をしたと思い、急いで探さなきゃいけないと、ここまで勢いで来たけど、母さんにとってみれば、俺は原因の種だ。俺が余計なことをしなければ、俺と母さんは二人で生きていたし、五稀と父さんも二人で生きていたはずだ。今目の前にある線路のように、人生を乗り換えることなく、そのままの線路で走れば良かったんだ。それを、俺が余計な事をして、乗り換える駅を作ってしまった。新しい家族行きの電車は、それまでの人生の線路から離れていく。その行き先が幸せとは限らないのに。自分の欲で、自分のわがままで、俺は俺以外の家族の人生を間違いな方向へ誘ってしまったのか。そして、その結果が、これか。
――何なんだよ、俺は一体……!
ホームの一番端の俺の周りには誰もいなかった。それで良かった、と思った。大人の身体をした子供の俺が、子供のように泣いている姿を誰にも見られたくない。気持ちの追い討ちをかけるように雨粒は駅舎の屋根を唸らせてくる。その唸り声は轟音となり俺の心に降り注ぐようだった。お前のせいだと世界中が俺を責めているような気がした。コートの袖で拭っても、手のひらで顔を覆っても、終わりのない後悔の涙が、俺の中から絞り出すように流れ続けていく。
――もう、俺がいなくなればいいじゃんか。こんな俺のせいで家族がバラバラだ。母さんも、父さんも、五稀もみんなを傷つけてしまったのは全部俺のせいだ。
目の前には線路がある。もうすぐ電車が来るだろう。そこに飛び込めば俺の苦しみは終わる。そう囁く声が聞こえてくる。ふらふらと引き込まれるように足を進ませ、ホームの黄色いゴツゴツした点字線を踏むと、そうだお前のせいだとまた、自分の声が聞こえた。
――お前のせいだ。全部お前が悪いんだ。お前が家族の行き先を変えたんだ。不幸な終着点へと、お前が変えたんだ。
そうだ、全部俺のせいだと、その声に言葉を返す。
――俺さえいなくなれば、全てが丸く元通りになるはずだ。俺さえいなくなれば……。でもそれで元どおりになれるのか? もう狂い始めてるんだ。そんな状態で、どうやって軌道修正すればいいんだよ。
はっと我に帰った。
「軌道修正……」
一歩、また一歩と、後ろに足を戻す。
――自分が悲しくて苦しいから自分が消えるだなんて、どこまで自分勝手なんだ俺は……。何が苦しみは消えるだ。それだったら自分のために消えたいだけじゃないか。逃げるなよ! 逃げるなよ! 逃げるなよ!
「目の前のことから逃げるなよ!」
自分の思いを振り切るように、ありったけの力で大声で叫んでいた。そのまま下を向き涙が落ち切るのを急がせる。はやくこんな「俺が一番かわいそうな茶番」終わらせて、自分の罪を償うんだ。「それしかない。逃げることは許されないだろ? 」と、何度も自分に声をかける。
――軌道修正はいつでも可能なはずだろ? そうじゃなかったのかよ!
そうだ、悲観的になるのは、自分という存在が家族の中から消えるのは、五稀が見つかってからでもできる。まずは、五稀を見つけなくてはいけない。向かう先を変えるのだ。軌道修正できる場所を探せばいいだけのことなんだ。今の今まで、重たい空気と冷たい雨に俺の頭はどうかしていたようだった。まるで闇の勢力に飲み込まれていくように、意識がおかしな方向に向かっていた。そんなものに飲み込まれるくらいなら、罪を抱えていても、やれるだけのことをやるべきだ。
俺はすぐそばにある冷たい青いベンチに座り、スマホを取り出した。
――しっかりしろ! 家に帰るのじゃなければ、俺の行き先はどこだ? 泊まりに行く予定だったという女の子のところへ行くにはどうしたらいい? 母さんには聞けない。父さんにも聞けない。だとしたら、そのすべてのヒントは五稀のSNSの中にしかない。
暗くなり始めた駅舎には、安蛍光灯がチカチカと灯っていた。そのやけに青白い光の中で、俺はもう一度五稀のインマルを覗き始めるのだった。
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