俺が迫られて、怒ってる?⑤

「ねぇ」


 俺たちは放課後、毎日のように図書室の地下に逃げ込んでいる。幸いなことに、永美は人を探し当てる才能が欠如していたようだ。この絶妙な隠れ家はバレていない。

 下校時間が繰り下がることになるが、元より急ぐ理由もなかった。適度に図書室で暇を潰すのが日課となっている。

 茜音を巻き添えにしているのは、こいつが捕まるのも煩わしいだからだ。俺より人を躱すのが苦手な茜音は、ともすると永美に家まで追いかけられかねない。俺の杞憂であるかもしれないが、茜音も一抹の自覚があるのだろう。永美について、一人でジャッジを下す機会は少なかった。


「ねぇってば」

「……なんだよ」


 最近の図書室は、なかなかラノベが充実している。退屈凌ぎにお互いに捲っていた手を、茜音は止めていた。

 ちらりと視線を上げると、膝の上に手を置く万全の態勢でいるので眉を顰める。そんな改まった態度で何の用だろうか。


「涼ちゃんに何か言った?」

「なんで?」

「瑞樹君ってシスコンなんだねって言われた」


 誰が!

 と叫び散らしそうになったものを嚥下して、咳払いで気を鎮める。努力の甲斐もなく、ラノベへの集中力は一瞬で霧散した。


「……日頃の態度じゃねぇの?」

「え、そんな態度取ってんの?」

「いや、知らないけど。そう見えるんじゃないのって話だろ」

「そんなことなくない……?」


 渋い顔で首を傾げられても、俺だって逡巡する。

 茅ヶ崎に言明したことは、シスコンと呼ぶべきものだっただろうが、常日頃からそう見えるかなんてことは知らない。俺は大事に思っているつもりだけれど、茜音からはぞんざいに扱われているのだ。俺だって、言動が一致しているとは言えない。

 客観的に見たときにどう映っているのかは謎だ。


「やっぱり、なんか言ったんでしょ?」


 どうやら、日頃にシスコンさは見当たらないと判断したらしい。

 それで俺を弾劾しようとすることに気持ちが荒むが、勘は鋭いので油断ならなかった。これに関して、俺は反撃に出ることはできない。


「言ったとして、それでどう思うかは茅ヶ崎次第だろ」

「でも!」

「……信用してねぇの?」

「だって」


 唇を尖らせて、ぶちぶちと零す。「でも」と「だって」ばかりの不満は、分が悪いと分かっているんだろう。


「茜音」

「……嫌なんだもん」

「は?」


 信用問題に言及しているのに、感情論をぶつけられて間が抜ける。

 茜音は長い睫毛を伏せて、首を竦めていた。ほの暗い地下部屋の中で、照れるような仕草はやめろ。心がざわつく。


「私がいないところで、私のことで盛り上がって欲しくない。お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんだもん」

「お前……」


 自分のことが知らぬ場で俎上に上がるのが嫌いな人間は、多いだろう。俺だって、気持ち良くはない。しかしそこに、お兄ちゃんなのだから。と暴論をくっつけられると、意味が変わってくるのではなかろうか。

 俺は図らずも頭を抱えて、机に突っ伏した。

 どういう理由だよ。


「……お前、最近何なの?」

「何が」

「ツンデレがすごい」

「ツンデレじゃないし! もう流行りじゃないし! 意味分かんないこと言わないで」


 どう見たってツンデレだよ、お前は。それとも、照れてキレるから、デレギレ? 新ジャンルかよ。


「茜音ちゃん、妬くじゃん。永美に。そんでキレんだろ? 茅ヶ崎のこともそうだし、お前マジ兄ちゃん好きすぎ」

「違うし! 違う! 妬いてないもん! キモいこというな」

「声、でけぇよ。響くだろ」


 あまりの叫喚に顔を上げて、俺は臍を噛んだ。

 何、真っ赤になってんだよ。


「馬鹿じゃん?」

「罵倒以外ないわけ?」

「……お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃん。ミズキさんだし」

「分かった。分かった。永美とのことを怒ってる。それだけな」

「だらしないことするから」

「だから」

「分かってるけど、どうにかするつもりもないじゃん」


 不貞腐れているだけとは、違う。そこには、真面目に今後の対応を問うニュアンスが含まれていた。いかにも、いつまでもこんな生活をしているわけにもいかない。

 どうにかする。

 茅ヶ崎へ告げた言葉は、リアルに求められているものだった。今のままでは、じわじわと茜音にしわ寄せが行く。


「どうにかするよ」

「どうにかって」

「お兄ちゃんに任せなさい」


 こんなことを言ったのは、小学生以来ではなかろうか。お兄ちゃんぶって、かっこつけていた遥か昔のことだ。兄らしくしなくては、と肩肘張って、任せろなんて言ったことがあった。

 茜音はぱちぱちと瞬きをして、物珍しいものを見る目つきを寄越す。そうして、ふっと目を伏せた。

 どういう感情だよ。

 分からない。俺は茜音のことを、まるきり分かっていないのだと近頃いたく打ちのめされている。

 好きなキャラはミシュ。かっこいい一面を持った女の子を好む傾向にある。FOは大好きで、考察にまで手を出しているくせに、肝心のゲームの腕はからっきし。

 他にも色んなアニメを追っていて、にわかだとかブームだとか、そういった言葉に振り回されない。何にいつ嵌ろうが、好き勝手、自由奔放で、ブームだからと言って嫌厭することもなかった。世間に対しては、天邪鬼ではないらしい。

 自分に合わなかった作品については、それはそれと割り切っている。批判という名の罵詈雑言を並べることもしなければ、これといって議題にあげることもない。

 できた妹だとも思うが、これはどちらかと言えば、事なかれ主義が先行しているだけだ。

 茜音は他人との軋轢を嫌う。そりゃ誰だって好みはしないだろうが、茜音は争うくらいなら辞退するような危なかっしいやつだ。

 それが俺には謙虚さを喪失して、強く当たってくるのだから、分からない。気を許しているだとか、甘えてるだとか、ポジティブな捉え方はいくらだってできるだろう。だが、ことはそんなに甘くない。

 少なくとも、俺の女好きを茜音がよく思っていないのは本心なのだ。忌み嫌っていると言ってもいい。

 甘えている。ただそれだけで、摩擦が大きいわけではなかった。

 シスコンの俺だって、茜音に苛つくことはある。乱暴なことを言うのも、度々だ。そんなとき、甘えているだとか頼っているだとかかと言えば、そんなことはない。正直に怒っている。

 だから、茜音の誹謗中傷にも、きっと本懐はあるのだ。だからこそ、俺は尻込みをしていた。どこまで踏み込めばいいのか、躊躇せずにはいられない。

 そんな風に考えていたら、制服の袖口を引かれて、ぎくりとした。隣同士に腰掛けていた現実を、今更になって知覚する。


「適当に付き合って解決しない?」


 茜音は袖を引いて、上目に見上げてきた。俺は額を押さえて、ふっと息を吐き出す。

 なんだろう。俺は目がおかしくなったのかもしれない。低姿勢で、儚そうな態度を取られると、どうにも魅力的に映る。


「しねぇよ、馬鹿。何の心配してんの?」

「……お兄ちゃんは、なんでもない顔して、そういうことできちゃうから」

「うん」

「怖いの。知らないお兄ちゃんになるみたいで、怖いの」

「……だから怒ってんの?」


 うん。と続いた相槌は、専ら音がなくて、今にも泣き出しそうに掠れたものだった。不安や心配が怒りになる心境は、俺にだって分かる。

 馬鹿だな。俺は何をやっていたって、お前の兄ちゃんだよ。


「茜音。大丈夫だよ」

「……ごめんなさい」

「なんだよ、急に」


 めっきり気力を失くしてしまったような茜音は、しょんぼりと謝罪を寄越す。笑って応じても、茜音はぐずるように鼻を啜った。


「おい、泣くなよ」

「泣いてないもん」


 言いながら、目を擦る。涙こそ零れていなかったが、瀬戸際だったんじゃないか。


「頼むから、泣くなって。謝んなくてもいいから」

「だって、わがまま言ってるもん。ごめんなさい。お兄ちゃんを怖いなんて思って、ごめんなさい」

「茜音」


 首を垂れてしまった茜音の頬を掴まえて、顔を持ち上げる。目線を合わせると、うるうると潤んだ膜が瞳を覆っているのがよく分かった。

 ちっとも我慢できてないじゃないか。


「心配かけてごめんな。安心しろよ。何があったって、俺はお前の兄ちゃんなんだから」

「何があっても?」

「……当たり前だろ? ちゃんと、お前のとこに帰ってくるよ。俺は」

「かっこつけ」

「気分屋も大概にしろよ。兄ちゃんはかっこいいの」


 凝視していた顔が歪む。こんな場面でも怯まずに、反論を寄越すつもりか。


「……知ってる」


 渋るような肯定に、俺は目ん玉を引ん剥いた。茜音は頬を染めて、ふいっと視線を逸らす。


「離して」


 頬を掴んだ手に触れた茜音は、ぼそぼそと呟いた。相手がへっぴり腰なのが分かると、途端にゆとりが生じてくる。涙に弱い俺にとって、茜音は少し強気なくらいがちょうどいいのかもしれない。

 俺はしっかりと顔を固定したまま、動かさなかった。


「ちょっと!」


 そうすれば根負けしてこっちを見るのなんて、お見通しだ。伊達に遊んでいないし、いくら離れていたって、伊達に妹を大切になんて思っていない。


「……ちゃんとするから、お前は馬鹿な話してろよ」

「私のこと、馬鹿にしてる?」

「してない、してない」

「してるじゃん!」


 直前までの泣き声が、綺麗さっぱり立ち直っている。ぎゃんと吠えられて、俺は茜音から離れた。


「ムカつく!」

「はいはい」


 面倒だなんて、重々承知だ。わがままだらけで面倒くさい妹だなんて、とっくの昔に知っている。

 でもお前は、ちょっと怒ってるくらいのほうがずっといいんだ。

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