夜明けの底でランデブー

2ka

夜明けの底でランデブー

「……君さ」

「名前で呼んでくださいよ、先生」

「なんで少しずつ高くなっていってるの?」

「いい大人が子ども相手にシカト?」

「このあいだ、もう大人だって言って迫ってきたのは君じゃないか」

「十七歳は子どもだって言い張ったのは先生です。ダブルスタンダード!」

「難しい言葉を知ってるね」

 先生と呼ばれた白衣の男は、屋上入口の扉からフェンスのそばに移動すると煙草に火をつけた。ふわりとなびいた紫煙を目で追うように振り返り、フェンスにだらしなくもたれかかる。自分を見下ろす少女のうしろには夜の色を濃く残した空が広がっていて、彼女の白い髪がよく映えていた。

「確か最初は四階ロビーの窓だったっけ? それが五階、屋上への階段、いつの間にか屋上の鍵まで壊して」

「壊してない! 壊れてたの」

「もうこれ以上はないと思ってたのに、給水塔にまで登る?」

「ほんの数メートルと思って侮ってるでしょ? 先生がいるところとここじゃ見える景色が段違いなんだから。先生も来ない?」

「遠慮するよ。僕は高所恐怖症なんだ」

「高所恐怖症の人は屋上のフェンスにもたれたりしない」

 機嫌よく足をブラブラさせていた少女はプイッとそっぽを向いてしまった。そういう仕草や口調、棒のような手足は彼女を実年齢よりも幼く見せる。しかし、空を見つめる彼女の瞳に十七歳らしさはなかった。

 彼女の入院生活はじき一年になる。彼女がティーンズらしいやかましさを保っていたのは、せいぜい一ヵ月程度だった。子どもの適応能力は高い。病気の悪化と共にスルスルと抜けていく髪の色よりもずっと早く、彼女の心は白く塗り潰されてしまったのだろう。今では一体化していると言っても過言ではないくらい、この病院に馴染んでいる。

 かといって、彼女は決して捨て鉢なわけでもない。朗らかに笑い、スタッフとは親しげに言葉を交わす。食事は残さないし、泣きわめいて暴れることもない。困ったことといえば、時折病室を抜け出して屋上に侵入することと、男に冗談としか思えない愛の告白をぶつけてくることだけ。

 いたって手のかからない、手の尽くしようのない患者だった。

「部屋に戻った方がいいよ」

「だって先生、病院の中、息苦しいんだもの」

「換気が悪いってこと?」

「違う」

 不意に彼女の視線が何かを捕らえた――ように見えた。男には何も見えなかったけれど、少女の眼は確かに何かを追いかけるようにキョトキョトと動いている。

「何かいた? 虫?」

「魚」

「魚? 水の中を泳ぐ?」

「そう」

 この世界に空を泳ぐ魚はいない。

「今は一匹だけだったけど、病院の中にはもっといっぱいいるよ」

「水族館みたいに?」

「そう。海の中みたいに」

 彼女は人差し指で宙空をさした。その指先がフラフラと動く。目で追ってみても、やはり彼には魚を見つけることはできなかった。

「海の中みたいにうようよいるのか……それはちょっと鬱陶しいな」

「うようよってほどいないよ。キレイなくらい」

「でも息苦しいって」

「あんまりリアルでキレイだから、水中にいるみたいに勘違いしちゃって」

 だから、ただの気のせいなんだけど。そう言いながら、また彼女の目が何かを追いかける。彼には見えない美しい魚を。

「屋上なら少しはマシなの?」

「うん、まあ。それにどうせ溺れるなら魚だらけの海中より星の海の方がロマンティックでしょ?」

「星の海?」

「まさか先生、知らないの? ここ、すごく星がよく見えるのよ」

「……しばらく夜空なんて見上げてないからね」

「先生はすさんだ大人ねぇ。都心の人間がお金を払って見る星空よりも、もっとすごいのがタダで見られるっていうのに」

「君にだけは言われる筋合いないと思うよ」

「天の川も見えるのにもったいない」

「っていうかね、君、いつからここにいたの」

 夜明けは近い。星の存在感はすっかり薄くなっている。

「下りておいで。病室に戻ろう」

「はあーい」

 彼が煙草をもみ消しているあいだに、少女は軽やかな身のこなしで給水塔から下りてきた。まるで病人には見えない軽快さ。軽過ぎてそのまま空へ向かって泳いでいってしまいそうだ。もしも白い魚のように星空へ泳ぎ出せたなら、きっと彼女は二度と地上に戻ってはこないだろう。

 スキップでもしそうな足取りで抱きついてきた少女を受け止めて、男はこっそり安堵のため息をつく。温かくはないけれど、確かな重みがある。まだ彼女はここにいるのだと実感できる瞬間だった。

「ほら、こんなに冷えて」

「だって先生、あたし、もうあまり寒いとか暑いとか感じないんだもの」

「それなら無難に綿の長袖とか着ればいいじゃない。なんで年中半袖なの」

「決まってるじゃない。少しでも多く先生に直に触れてもらえるチャンスを作るためよ」

 ぎょっとして思わず彼女を引き離すと、少女は茶目っ気たっぷりの顔で笑った。その表情は年相応に無邪気なのに、次の瞬間、彼を見つめてきた彼女の瞳は、やはり十七歳のものとは思えない。

「ねえ、先生」

「なに?」

「実を言うと、あたし、魚はあんまり好きじゃないの」

「そうなの? さっきキレイって」

「やっぱり牛肉が一番よ」

「……あぁ、そう……」

「先生」

 引き離した距離を彼女が詰める。

「病院内が魚だらけになって、あたしが溺れそうになったら、ここより高いところにつれてってね」

「……僕は高所恐怖症なんだよ」

 リアルな幻覚は末期症状だ。じきに彼女の世界は海の底に沈むだろう。

「先生」

「今度はなに?」

「病気が治ったらキスしてくれる?」

 少女の瞳はただただ静かに凪いでいる。いつでもそうだ。彼女に見つめられると、彼はときどき吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。

 こんな真摯な目は子どものものじゃない。けれど、大人にだってできない。

「いいよ」

「いいよって言うところが、先生が大人っていう証拠ね」

 ――僕にそんなことを訊く残酷さが、君が子どもだっていう証拠だよ。

 そのひと言を呑み込めたのも、彼が大人である確かな証拠だった。

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