生(せい)の腐臭

Dokumushi

生(せい)の腐臭

 硬質化した日常は、彼の精神を食い殺した。残ったのは、過去の弔いだけを糧に生きる人間のような何かである。

 彼の一日は後悔から始まる。ただそれも感情が鈍化し、感傷が錆びついた彼には、記憶の中の彼自身の姿は、誰よりも遠く何よりも穢れている。その作業を後悔と呼ぶにはあまりにも反響がなさすぎるだろう。彼の心には何ものも谺しない。それでもそれを後悔と呼ぶのは、彼がそれを始めた当初は、確かにそこに生の未練が腐臭を放っていたのだし、彼はそのにおいを嗅ぐことで自分というものを取り戻していた。

 すでに後悔の持つ懐かしい手触りはなくなり、一つ一つ検品でもするように、確かめてはただしまっておくという対価のない労働を日課にしていた。

 日課の労働を終えると重い瞼に眼をこすりながら、布団から起き上がり、ただ一歩歩いて座椅子を目指す。彼の部屋において人間がいられる場所はその座椅子のみで、一年中こたつ布団の掛けられたテーブルの上の、黒いラップトップの画面から光が発せられて初めて彼は暗闇から抜け出る。

 それから彼はイヤホンを着け、小さな機械仕掛けの四角い窓をじっと見つめる。マウスがテーブルにこすれる音とクリック音だけがその部屋の沈黙を破る。何分見たところで彼がその内容を覚えているということはない。彼はただ時間が過ぎるのを待っているだけだ。

 爆笑と冠されていたり、無闇に付けられた「w」の連なりを見て、彼の表情は多少緩み、罪なき市民が凄惨なニュースにあって、知らない誰かの怒り狂う書き込みを見て、彼もまたいっぱしの義憤を感じるが、それらは全て暇を潰すために生産される疑似的な感情であって、彼がそれらの物事の内容を判断しているわけではない。彼にはもうその力は残っていない。他人の感情表現をなぞっているだけでどうにか世界と触れ合っているという錯覚を得ている。

 時間は無為に浪費され、彼の一日はほとんど停止している。

 彼が動き出すのは決まって、自分が空腹であると思いだしたときである。お腹の違和感を空腹と識別して初めて彼は座椅子から立ち上がり、部屋を出て、階下を目指す。足取りは重く、出来れば、動きたくないが、空腹という継続的な苦痛を収めるためには、行動が必要であった。4人掛けテーブルの食卓の上には、朝ごはんと弁当に入りきらなかったおかずの残りがラップをかけておいてある。彼はそれを立ったまま、腹を満たせるだけ食らう。好みはあるが、好き嫌いはない。腹を満たせればなんでもいい。足りなかったら、菓子を食う。目の前の窓からは、彼がこの生活で唯一目にする外の世界が見える。

 我が家と道路を分けるブロック塀とその先に隣家と田んぼ、さらにその向こうは国道が通っていた。お昼過ぎだというのに一定の交通量が覗かれる。

 彼はそれを無感情で見つめる。それもそのはずである。毎日見ているこの景色は昨日と何の変わり映えもない。彼自身の生活と同じように、止まっていると見紛うほどにゆっくりと推移している。敏感に物事を感じ取れる豊かな人間ならいざ知らず、彼のような外界への連絡を閉じた人間には、日常の中に潜む微妙な変化、例えば、国道沿いの新築群、毎年少しずつ増える耕作放棄地、カーデニング好きの隣人が植えたバラが花の盛りとあっても、少しも心に引っかからない。

 彼が収まっていく空腹を感じながら、最後に鮭の塩焼きを手づかみで口に運んでいると、窓の外に老婆が一人歩いているのを見る。彼の食事時間と老婆の散歩が噛み合ったときによく見る光景だった。とはいえお互い日々の生活リズムが大きく変わることのない者同士、少なくとも週に二、三度は、手押し車を押しながらゆっくり歩む小さな老婆の姿が彼の視界を横断していた。

 それだからそれは周りの風景と同じようになんら彼の意識を刺激するものではない。

 ところが突然老婆が止まり、胸に手を当てながら、顔を顰める。こんなこと今までなかったのに、彼には見慣れた光景であるかのように、いつもの風景に吸収される。老婆は、そのまま丸くなり、動かない。

 そこでようやく彼は自分の見ているものの異常性に気づく。退屈な過去が再現されているだけの世界が破られる。老婆は地に伏し、未知の生物にでも変容したようにそのまま、もぞもぞと蠢いている。明らかに老婆は苦しんでいた。突然の痛みに襲われ、耐えがたい苦痛のうちに地面に倒れ、防ぎようのない死の渦の中にいた。この世の中でそれを知っているのは、口に運んだ鮭を噛むことさえ忘れて老婆から視線を外すことができなくなっている、彼ただ一人である。

 彼は自分が大量の冷や汗をかいていることにすら気づかない。今この瞬間彼の全体は老婆の動向のうちにあった。弱弱しく生を繋ぐ老婆の沈黙が彼に強烈な生の感覚を呼び覚ます。自分だけが老婆の生死に関わっているというこの特殊な状況がいつかに忘れ去った彼自身を思い出させる。彼は久しぶりに自分に逃走の衝動が起こるのを感じた。逃げたくて逃げたくて仕方なかった。全てにそうしてきたように目を背けたくて仕様がなかった。だが彼は一歩も動けなかった。首を動かすことすらできなかった。

 このまま見過ごせば、殺人と同等だと判断する良心が彼にはまだあった。救急車を呼ぶという発想も出てきた。だが彼は最も肝心の、自分を動かす方法を忘れていた。残りカスのような良心が、彼がとるべき行動の不完全なイメージをどうにか与えてくれるが、彼のうちにあってそれらのイメージも、窓の外の世界と同じように、彼の手に届く範囲にないものだった。電話を手に取り、救急にかける自分を想像できても、それを実現できる自分は彼のうちにはない。あまりの不甲斐なさに泣き叫びたくなる。思い通りにならない自分にもどかしさだけが募る。熱烈な感情が辛うじて彼に行動の自由を許す。彼は床に座り込み、視界から窓を消す。代わりに目の前を塞ぐのは、林のように連なった椅子とテーブルの脚であった。

 彼は次に自分が立ち上がったときに、老婆がいなくなっていることを祈った。無事に起き上がり、何事もなかったように帰路へとつく老婆を想像した。それは運命は自分の思い通りにならないということを、ただひたすらに教え込まれてきた人生から彼が学んだ、冷酷な運命をやり過ごす唯一の手段だった。彼が祈って物事が解決に向かったことはないし、まして彼の祈る通りに事が運んだことなど一度たりともなかった。それでも、今まで祈って耐えることだけを頼みにしてきたのだから、今回も同じだった。

 外から悲鳴にも似た話し声が聞こえてきた。どうやら誰かが倒れている老婆を見つけたらしい。ようやく彼も救われる。慌ただしく人を呼ぶ声がし、老婆をどこか別の場所へ移動しようとしているらしかった。そのうち遠くに救急車のサイレンの音が聞こえてきたと思ったら、あっという間に彼の家の前に達し、停車した。すぐに老婆を乗せ、どこか遠くへ出発していった。全ては片付いた。

 これで送られた先の病院で老婆が死んでも、たとえ彼が助けたとしても一緒だったと一応は自分に言い訳がつく。ただ誰も老婆を助けず路傍で果てることだけが、無駄に大きい自責の念を抱えることになる。彼は安堵した。それからそのまま日が大分傾くまで動けずにいた。この家の台所は夕暮れ時になると嫌に暗くなる。家の者が帰ってくる前に、自分の部屋に戻らなければならない。万が一いつもと違う行動を見られて、昼間の騒動と関連付けられてはたまらない。鉄のように重くなった身体を起こして、ゆっくりと階段を上がっていく。

 今夜は布団の上で輾転として眠れぬ夜になるだろう。今日のことが色を失い、死んだ日常に嵌め込まれるまであとどれくらいかかるだろうか。それまでは、新鮮な生の腐臭をたっぷり嗅ぐといい。

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