最終話

 ※


 ようやく温かくなってきた春の午前中。両手で湯呑みを持った信春は、じっと容器内にある緑茶を見下ろしている。茶柱でも立ってないかなという考えからだったが、目を皿にしても残念ながら見つからない。

 元々、さほど期待していなかったのもありあっさり顔をあげれば、クリーム色のセーターに身を包んだ真衣が湯呑みを抱えてじっとしている。どことなくぼんやりとした様子のままでいる女になんとはなしに視線を注ぎながらも、手元の緑茶を啜った。少々熱い気がしたが、火傷するほどでもない。

「どうしたの?」

 ようやく信春の視線に気付いたらしい女が、柔らかな声で尋ねてくる。

「いや、なんかぼーっとしてるから。せっかく買ってきた団子も食ってないみたいだし」

 そう言って信春は、テーブルの真ん中に置かれた大皿の上に置かれた二本の三色団子と既に食べ終えられた串を指差す。真衣は、自らが買ってきたものであったにもかかわらず、ああ、と今存在に気付いたとでもいうように応じた。

「春だからかな。なんか、頭がぽわぽわしてて」

「まさか、風邪引いてたりはしないよな?」

「あはは。自分ではそうじゃないと思ってるけど、どうだろうね」

 気の抜けた声は、熱に浮かされているようにも、ただぼーっとしているようにも受けとれる。

「これから一人になっても大丈夫か?」

 なんならバイトに休みの連絡を入れるがと言おうとしたところで、うん、と頷かれる。

「もしも体調が悪くなっても、布団敷いて大人しくしてるから。だから、面倒でもちゃんと働いてきてね」

 薄っすらとした微笑みとともに口にされた言葉に、わかった、と答えてから、コンビニの店長とバイトの先輩からの叱責が思い出され、行きたくなさが募っていく。悪いのは働くのに身が入りきっていない自らだという思いが強くあるのもあり、より憂鬱は増したものの、やるしかないなとすっと飲みこんだ。

「そっちは今日、休みで良かったな」

「そうだね。自分では大丈夫だと思うんだけど、ぼーっとしてたら、なにしでかすかわからないし」

 自らの額に手を置いた真衣は、小さく首を捻る。そのおどけた仕種を見ながら、この間、女のバイト先に行った時のことを思い浮かべた。

 その日もその日とて、春休みらしくバイト以外の暇を持て余していた信春は、シフトを上手い具合に調整して帰省でもするか、などという考えを抱きながら、普段あまり行かない町外れの通りを歩いていた。特に目的地があったわけではなく、たまには学食や飲み会以外でも外食するか程度の思いつきではあったが、いざ、入ろうとするとなんか雰囲気が良さそう、くらいの緩い決め事のため、なかなか決まらないままただただ疲労と歩数ばかりが増えている状況だった。ただただ腹だけが減っていき、次第に、食べられればどうでもいいなという当初の目的はどこへやら、といった心持ちになった。やがて、喫茶店っぽい黒い外装の店に、OPENの看板がかかっているのを発見し、雪崩れこむように飛び込んだ。そして開けてすぐ、薄青のシャツの上に黄色いエプロンをかけた真衣と目があった。

「ぼーっとしてると、骨董品屋を喫茶店と間違えたりもするしね」

「しようがないだろう。腹が減ってたんだから……」

 同じことを思い出していたらしい真衣のニヤニヤ笑いから、顔を背ける。その先には、カエルの人形、小さな木彫りの熊、イルカとサメの置物、オオカミのぬいぐるみ、そしてユニコーンの絵が入った写真立てがあった。ここ半年ほどで急にごちゃごちゃしてきたな、と思う。

「良かったよね。結果的に急造の喫茶店になったし」

「あの時は、悪かった」

 潔く頭を下げながら、真衣の働いている骨董屋の店長である杉山さんが出してくれたカツサンドが信じられないくらい美味かったことを思い出した。豊かに蓄えた黒い髭を揺らし、信春の食べっぷりに、君面白いね、と豪快に笑ってこそいたが、突然訪れて迷惑をかけてしまったのは間違いない。

「心配しなくても大丈夫だよ。あの顔をしてる時の店長は、本気で面白がってるから。むしろ、次はいつ来てくれるの、って催促されてるくらいだし」

「さすがに話を盛ってるだろ……」

「いやいや、信じられないことに本当なんだな、これが」

 いつの間にかすっかり元気になった真衣とそんなやりとりを交わしながら、テーブルの向こう側の壁に貼ってあるカレンダーを眺める。本日、捲ったばかりの四月の日程が記されているその紙の上部には、定番といえる満開の桜並木の写真が印刷されていた。

「なあ、真衣」

「なに?」

「この団子って」

「予定があったら花見にでも行けたらいいなって思ってたんだけど、今のところなんかすれ違い気味だから……気分だけでも味わおうかなって昨日買ってきたの」

 そう告げてから、買ってきてから今日までなんでかわからないけど食欲がなくなっちゃったんだけどね、と自嘲気味に笑う。眼前の女の表情と、後ろにある写真を同時に視界をおさめながら、なんともいえない気持ちが胸に満ちるのを感じた。

「行くか」

「行くって……この話の流れだと、お花見?」

「ああ。今日は難しいが、とりあえず今度、予定を合わせてさ」

「その時には、桜、散っちゃってない?」 

 当然の疑問に、そうかもな、と応じつつも、信春の中に諦めは湧いてこない。むしろ、益々行きたくなった。

「ちょっとくらいは咲き残りがあるかもしれないし、最悪、桜じゃなくても花見は花見だろ?」

「そこは桜がいいよぉ」

 真衣は苦笑いを浮かべながらも、まんざら、悪い気はしてないように見える。

「じゃあ、できるだけ早く予定を合わせられるよう調整しよう。そしたら、見られる確率もあがるだろうし」

「なかなか、無茶なこと言ってくれるね、ノブ君」

 そう応じつつ、真衣は大きく伸びをした。

「なんなら桜を求めて、旅行に出てもいいかもな」

「北に行くってこと? それはそれで面白いかもね。いっそ帰郷に合わせてみたら?」

「休みが終わってすぐに帰ってきたら、あることないこと勘繰られそうだな……」

 いいじゃん、私もノブ君のご両親にはまた会いたいし。

 たしかに、普段はあんま帰らないし、こういう時に変えるのはありかもな。

 でしょでしょ。ねぇ、私って天才じゃない?

 なんとか紙一重な感じだったら、まあ。

 ちょっと、それひどくない。

 特に考えがあるわけではないまま、思いつきで予定らしきものを詰めつつも、その他の大半の話はどうとでもいえる益体のないやりとりだった。そうしているうちに、信春もまた、ぽかぽかとした陽気で、頭がぼんやりとしてくる。これでは真衣のことを言えないな、と思ってから、団子、もう一本もらっていいか、と尋ねた。

「なんなら、全部食べちゃってもいいよ」

「ありがとな。俺もあと、一本だけでいいよ。後で腹が減ったら食べろよ」

「そう。なんかごめん。それとありがとう」

「気にするなって」

 三色団子を手にしてすぐ、一番下にある蓬味の濃い緑に引きつけられる。現実的に考えれば、シフトやお互いの調整が終わったあとは、若葉溢れる季節になりそうでそうなると満開はおろか、散っていない花を探すことすら難しくなるかもしれない。しかし、それはそれで、真衣の言うとおり帰郷したり、ひたすら咲いている桜を求めて、更に北へ北へと旅をするのも悪くないかもしれなかった。

 たとえ、見つからなくても、それはそれで、きっとまあまあ楽しいだろう。というよりも、そうあって欲しかった。

「ノブ君、なんか楽しそうじゃない?」

 不思議そうな様子で尋ねてくる真衣に、信春は、そうか? 普通だろう、と応じる。

「普通かなぁ? 私の目にはとても楽しそうに見えるんだけど」

 テーブルの向こう側。キョトンとした真衣の顔。とりあえず今しばらく、ここにあってくれるといいなぁ、と漠然と思う。

「どちらかといえば楽しいかもな」

「ほら。もっと素直に言いなよ」

 唇を尖らせる真衣に笑い返したあと、蓬の団子を食べる。どこからかやってきた風がカレンダーをわずかにはためかせた。














「どうしたの?」

 素朴な声に尋ねられて、信春は我に帰る。テーブルの向こう側では、朝李あさりがキョトンとした様子でこちらを見ていた。

「悪い。お父さん、ちょっとぼうっとしてたみたいだ」

「もう。アサリのお話をちゃんと聞いてよ」

 頬を膨らます娘は、落ち着きなく体が動いているせいか、後ろにしばった髪が、ぴょこぴょこしているのが、どことなく楽しい。

「ごめんごめん。それで何の話だっけ?」

「この前、買い物の途中に、お母さんにクレープ屋に連れて行ってもらったんだけど、それがほっぺが落ちるくらいおいしかったの」

「そうか。どんなクレープを食べたんだ?」

「ストロベリーチョコバナナクレープ! すごく、甘くて、また行きたいな」

 朝李の白いすべすべとした頬を両手で押さえながら、たまらなさそうに目を細める様を見つつ、信春はクレープの中身を聞いただけで胃凭れしそうになっている。甘味自体は今も昔も嫌いではないが、ここのところはくどすぎるものには、食べる前から内臓が萎縮し、喉の奥からなにかが競りあがってくるような錯覚を覚えもした。年はとりたくないものだ、などという手垢塗れの述懐に浸りつつも、それはそれとして娘の曇りない笑顔自体は嬉しい。

「今度、お父さんも一緒に食べに行こうね」

「うん、そうだね」

 娘の言に頷きながらも、来るべき家族三人でのクレープ屋訪問に備えて、いっそのこと今までチャレンジしたことがない惣菜クレープにでも手を出すか、と考えを巡らしている。もっとも、朝李に、これおいしそうだね、などと甘ったるいクレープを指差されたりした日なんかには実質拒否権はなくなるだろうな、という諦めも浮かんではいたが。

「それでねそれでね。昨日、ミハルちゃんの家に遊び行った時にね、こんな大きなケーキが出てきたの!」

 両手を広げて、出してもらっておやつの大きさを表現する娘が、食い気を少しも隠さないところに好ましさをおぼえつつも、まだ面識のないミハルちゃんのご両親にはいつかしっかりとお礼しなくてはならないな、と思う。とにもかくにも、朝李がすくすく成長してくれていることは、ただただ嬉しい。今日は家を空けている戦友たる妻ともども、どうしても仕事で家を空けがちになってしまっている現状に寂しい思いをさせているだけに、こうして休みの日に元気な姿を見られるとほっとする。それと同時に、もっと娘と時間をとれるようにしなくては、という使命感も湧いた。

 ぐうぅぅ。思考を遮るように響いた音の方向に視線を凝らせば、恥ずかしそうな顔をする娘がやや薄汚れたオオカミのぬいぐるみを抱きしめている。その様に、可愛らしさをおぼえたあと、朝李の背後の壁に張ってあるカレンダーの上にある丸時計の表示板を見た。

「もう、こんな時間か。そろそろ夕飯を作ろうか? 朝李は、今日なにがいい?」

「焼きそば!」

 間髪入れずに叫ぶ娘の言葉に、またか、と思いながらも、朝李は焼きそばが好きだなぁ、と笑顔をつくる。娘は首をぶんぶんと動かし頷いてみせてから、

「うん。だって、お父さんの焼きそば、量が多くていくらでも食べられるから」

 目を輝かせた。量、という点がこの食い意地を張った娘にはなによりも重要らしかった。比較的繊細かつな上品な料理を作るの妻に対して、下宿生活時代よりはかなり上達したにしろどことなく大雑把な料理を作る信春。その大雑把な料理の中でももっとも試行回数を重ねた焼きそばがもっとも人気というのはさもありなんといった感じだった。楽しみだなぁ、と期待に満ちた眼差しを向けてくる朝李に応えるべく、背骨を伸ばそうをしたところで、ふとバクのミニチュアをみつける。直後に、まだ娘の胸に抱えられているオオカミのぬいぐるみを見て、もうテーブルに置いてあるのはこの二つだけになってしまったな、と寂しくなった。

「お父さん。もしかして、元気ない」

 信春の変化に気が付いたのか、あるいはたまたまなのか。どことなく不思議そうに尋ねてくる娘の言葉に、少々どきりとしつつ、

「いや、そんなことない。お父さんはいつも通り、元気だよ」

 とびきりの笑顔で応じる。客観的に判断して、いつも通りという言葉は、多少元気はなくとも元気だと振る舞っているのが常であるところからしても真だった。強いて言えば、元気、がやや怪しいものの、娘の前にいれば活力は湧いてくるので、まあ、たぶん、元気である。

「本当かなぁ……」

「本当だよ」

 疑わしげな目を向けてくる朝李を前にしても信春の笑顔は崩れないし、多少の噓を吐いているという自覚はあれど良心も咎めない。良くも悪くも機嫌良さそうにしているのが常態化していたし、大抵の時、ほんの少しは機嫌の良さがあるので本音の一端でもあった。

「それならいいけど……」

 朝李はまだまだ、父の言を信じていないらしかったが、とりあえずは矛をおさめることを選んだらしい。信春は、依然として気遣わしげな視線が向けられているのを感じつつも、話せることでもないしな、と心の中で思い出を反芻する。

 ある日、唐突にやってきた女は、春になる少し前の朝、唐突にいなくなった。持ち物やテーブルの端に置いてあった小物の大半が消え、好きな人ができたから、とほぼそれだけの意味合いが書かれた手紙が一通残されていた。信春はその前でしばらく呆然としたあと、多少落ち着きを取り戻してから、これだけでは納得できない、と女への連絡を試みたが通じず、居場所もわからなかった。それから程なくして、大学を辞めていることもわかり、その痕跡はほぼ消え去った。とりわけ、女は同居していた際も、自らのことをあまり話そうとしなかったため、本人が言っていたところの折り合いが悪いらしい実家の場所すらようとして知れなかった。

 後に信春のサークル仲間で、件の女と交友関係があった女子からの話を聞く機会があった。それによれば、信春と同居していた間にも、上は老人、下は高校生まで、色々な男と親しげに遊んでいるところを目撃したことがあり、大抵は酒場で何回かに一回はホテル街で見かけたこともあったという。曰く、いつも声を隠さない品のない笑い方をして媚びるように男に寄りかかっていた云々かんぬん。

 最後の方の印象はともかくとして、残した手紙からして、誰かしら相手がいたのは間違いないらしい。そんな現実を、信春は時間をかけて受けいれていった。元々、家を空けることが多くなった頃から、薄々、誰か相手がいるのではないのかと疑ってはいただけに、事実自体は受けいれられた。ただ、触れ合っていた時の女の印象と、他人が話している女の印象の乖離は、いなくなってから今にいたるまで受けいれられずにいるのだが。

 とにもかくにも、そんな出来事があったあとも世界は続き、信春は大学近辺の企業に就職しそれなりに年季を重ねたあと、故郷からの孫の顔を見せて欲しいという重圧におされるかたちで、結婚相談所に通い、今の妻と出会い、一人娘ができ、当時の下宿と同じようにやや手狭な部屋で、どうにかこうにか生きている。

「やっぱり、お父さん。ぼーっとしてる」

「ああ、ごめんごめん。お父さんもお腹空いたのかもしれないね」

「なぁんだ。お父さんって食いしん坊だね」

 乳歯が抜け落ちつつも、白く磨かれた歯を覗かせ笑う朝李に、そうだね、と応じながら、席を立つ。壁に張ってあるカレンダーの上には、葉が落ちきった冬の木の写真が印刷されていた。

 もう春ではないのだな、と思いつつも、テーブルの向こう側、ちょこんと座り笑う朝李を眺める。そこに小さな、それでいてたしかな未来のかたちがある幸を噛みしめたあと、どこへなりとも消えて行った別の未来のかたちを重ねた。

 娘と二重写しになった女は、頭の中で今も笑っている。

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テーブルの向こう側 ムラサキハルカ @harukamurasaki

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