テーブルの向こう側
ムラサキハルカ
第1話
「なぁご」
テーブルの向こう側。ふざけるように言葉とも鳴き声ともつかぬことを口にする女を、信春は呆れとも関心ともつかない目で見てから、
「いいから、早く食え」
とやや乱暴に言った。女は、うん、と頷き、手元にあるイチゴのジャムを塗った食パンを齧る。その眠たげな目だとか、薄っすらと浅黒い肌だったりを眺めながら、信春もまた何も塗っていないパンに歯を立てた。
この女は、いつまでここにいるんだろう。ちょっとした衝撃で浮かびあがった小さな泡みたいな疑問の答えは、今すぐには出なさそうだった。
大学のサークルの飲み会。その二次会か三次会の途中、たまたま一人飲みしていた女と出くわした際、正体をなくしたのを見て放って置けず介抱した。それ以来、信春の住むボロアパートに女は居ついていた。
帰れと言っても、バツが悪そうに頭を掻いて何も言わず、追い出そうとすれば柱に無理やり縋りつく始末。おまけに事情を話せと訴えかけても、曖昧に笑ってごまかす。
いっそ、警察に突きだすか? そう思ったことは一度や二度ではないが、そこまでする気力は湧かなかったし、仮に連れて行ったとしてもさっぱり相手にされなかったら、目も当てられない。その結果、女は何日も信春のアパートにいる。
「ノブ君。今日はずっと大学にいるの?」
手元にあったパンを片付けた女は、フォークで目玉焼きの黄身を行儀悪く突きつつ、そんなことを尋ねてきた。
「たぶん、夕方くらいには帰ってくるよ」
なんにもなければだけど。そう付け加えてから、薄っすらと湯気を揺らめかせるコーヒーに口をつける。インスタントの豆を雑に突っこんでお湯を入れただけの飲み物の味は可もなく不可もなくという感じだったうえに、暑い夏であるところの今現在においては、あまり適した飲み物とはいえない。眠気覚ましとはいえ、無駄に体が熱くなるだけだったなと早くも後悔しつつ、対岸を見れば、女の席が空になっていた。食べかけの目玉焼きと、半分ほど残されたイチゴジャムの塗りたくられたトースト、そして信春の手前にあるカップと同じように空間を屈折させる黒い液体から吹きだす気体。女だけがいない。
もしかして、元々あの女は俺の頭の中にしかいなかったんじゃないのか? そんな妄想は、数秒後に聞こえたどたどたとした足音に打ち消された。再び席に腰を下ろした女は、冷凍庫内から取りだしてきたとおぼしき、水を氷に固めるために用いている、内側が細かい四角のスペースで区切られたトレイを手にしている。そしてトレイをカップの上まで持っていき、後ろから強い力で叩きはじめた。
「おい」
「なに?」
「せめて、氷とか食べ物を持ってくるんだったら、俺に許可をとってくれ」
呆れ気味に告げた直後、四角くカットされた氷がカップに二つ吸い込まれ、もう二つほどがテーブルの上に着地した。女は残りの氷を手づかみしてカップに突っこみながら、
「いいじゃん、これくらい。ほとんど、ただみたいもんなんだし」
などと言ってみせる。
「水道代も電気代も俺持ちなんだけどな」
ついでにいえば、幾分かの食費も吸いあげられている現状でもある。女はコーヒーに口をつけたあと、カップをテーブルに置き直してから薄く笑った。
「ノブ君持ちって言っても、ほとんど仕送りでしょ?」
「だったら、もっと悪いと思ってくれよ……」
その上、事実関係はどうあれ、信春自身が実質的には女に貢いでいる男みたいなものであるのは疑いようもないため、情けなさが込みあげてくる。女はスティックシュガーが入った小盆を手元に引き寄せたあと、
「置いてもらってありがたいとは思ってるよ。あっ、砂糖もらっていい? よくよく考えてみると私、苦いのそんなに得意じゃなかったし」
気のない様子でそんなことを聞いてきた。
「いいけど……」
置いてもらっている、というよりも、半ば強引に居つかれているというのが正しいのではないのか。そう考えつつも、突っこみが追いつかないのもあり、ただただ、許可を出すに留める。
「うん、ありがと」
嬉しそうに目を細めた女は、白地にピンク色の線の入った包みを破き、砂糖を黒い液体に落としていく。飄々とした女の振るまいに毒気を抜かれた信春は、テレビを付けた。国営放送の朝のドラマが終わったあとの画面上では、コンビのお笑い芸人と女性キャスターが、顔だけ知っていて名前をよく知らない老年の男性有名人にインタビューを試みている。さほど、興味がなかったのでチャンネルを一つ一つ回していくものの、いくつか民放で繰り広げられるワイドショーの類や、ちらりと映った時代劇などはどうも興味をそそらない。もっとも、大学の一コマ目から出席する関係上、のめりこんでも途中からいなくならなくてはならないため、これくらいでちょうどいいともいえるのだが。結局、適当に選んだワイドショーで男性キャスターが芸能人の不倫スキャンダルを語るのを、聞いているような聞いてないような感じで耳を傾けるというところに落ち着いた。
「そっちは、今日どうすんの?」
なんとはなしに尋ね、残っていたパンを口の中に突っこむ。女は食べ終えたばかりの黄身を唇の端にこびりつかせたまま、ウチ? と右手の人差し指で自らの胸を指した。頷いてみせると、女は、そうだなぁ、と軽く唸ったあと、
「たぶん、だらだらしてるかな」
なんともありきたりな答えを返してくる。
「俺の家は、お前がサボるためにあるんじゃないんだが」
「まあまあ、そう言わずにさ。もうちょい、ここに置いておいて欲しいな。ほら、この通り」
両手で拝んでくる女の薄ら笑いからは、誠意の欠片すら感じられない。やはり追い出すべきなのではないか? という何度目かの問いかけが頭の中でなされたが、積極的に追い出すほどの気力も湧かず、コーヒーを一気に飲む干す。暑さと苦さに、自分もまた氷をもらえば良かった、と半ば後悔したあと、
「好きにしろよ」
言い捨てて、席を立つ。アパートから大学までの距離はきわめて短かったものの、そろそろ行かなくてはならない、と洗面所へと向かおうとした。
「ありがとね」
背中に振りかかった言葉は、いつになく切実に感じられる。とはいえ、顔も見ていないので気のせいかもしれない、と思い、手洗い場につけられている鏡の前に立つ。
鏡面に映る信春自身の顔はどことなく気持ち良さげだった。
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