夢の中ならば
PROJECT:DATE 公式
4/1
本日、4月1日。
嘘をついてもいい日と仰がれる今日は
何ともからからとした空気で
春だというのに喉が奥でひっついていた。
ふぁ、は、は。
だらしのない欠伸が床にぽんぽんと跳ねる。
カーテンにまで到達すると
陽の光に慄いたのか
へばって動かなくなってしまった。
梨菜「……。」
視線を右に、左に。
眼鏡どこだっけ。
カーテンの隙間から漏れ出た光が
すうっと布団の端くれと遊んでいる。
それを無視して蹴散らして
両手足を縦へ縦へと緩めてく。
梨菜「…んんー…。」
探すのを諦めて伸びをひとつ。
春休み真っ只中の今日という日が
焦ることなどないと諭してくる。
それに甘えてもう1度布団を被る。
二度寝ほど幸せなものはないよ。
太陽と遊ぶのはお預け。
ちらちらと埃が部屋を舞っていて
私が起きるのを待っている。
しかし二度寝をするには目が冴えすぎてしまって
どうやらその望みは叶わなさそう。
埃らの言いなりになるしかないようだった。
午後4時半。
私は休みの日の代名詞とも言える
昼夜逆転の生活を始めてしまった。
今日の午後眠たくなって
ふと毛布を被ったらこれだ。
そろそろ学校が始まるのに
なんてタイミングで
生活習慣が狂ってしまったんだ。
あと1週間程で学校か。
もう少し時間が経てば幼馴染である
波流ちゃんの部活が終わる。
嘘を吐きにだけ行こうかな。
あれ、午前中にしか言っちゃ駄目なんだっけ。
別に罰金されないし
なんと言っても波流ちゃんだからいいか、
なんて温い考えが脳に巣を作り出す。
茶化しに外に行って、帰ってきてご飯を食べる。
休みの日って幸せすぎる。
学生の特権だよね。
梨菜「……。」
寝起き直後だからだろう。
意識がはっきりしないままスマホを見やる。
それと同時に耳を澄ます。
スマホなんて見ているだけ、
何の情報も頭には入ってこなかった。
家から音がしない。
そっちの方に気を取られていたのもあって
からんと腕で押しのけて落とした
電気のリモコンにさえ気づかない。
部屋は仄暗いまま夜を告げようとしていた。
梨菜「……せり…ぃ…?」
星に李と書いてせり。
私の実の妹だ。
いつもなら部活に行ってるか
家にいて曲を聞いたり勉強してたり
家事をしていたりするんだけど。
不気味さを覚えて緩んだ寝具から
状態を起こし鞭を打つ気持ちで体を立たせる。
漏れ出ていた斜光は遂に私を捉えて
視線を外すまいと睨んできた。
それにさえ気づかず部屋を徘徊しようとすると
足元に固形物。
思いっきり踏みつけてしまい土踏まずが
凹むかの勢いだったのか鈍痛が走った。
梨菜「……った…。」
まだ寝ぼけてる。
寝そべっていたのは電気のリモコン。
ああ、さっき落としてたっけ。
どこで学んだのか、手を器用に使って
またベッドの上に放る。
トランポリンの選手のように
華麗なる着地を決めたその先で
御目当ての眼鏡が寝息を立てていた。
梨菜「…。」
眼鏡を取ると日にあたってなかったからか
ひんやりとした感触が手中に渡る。
眼鏡をかけると視界が開け
住む世界が違うように見えた。
家では眼鏡だけど外ではコンタクト。
それさえ日常。
いつも通りの一環だった。
梨菜「…星李ー…?」
寝起きの声特有の覇気のなさ。
覚束ない足の運び。
立ちくらみかけて体重を寄せた白い壁。
少し背を丸めて静止した後
漸く直立しても視界が泳ぎ出すことはなくなった。
それにしても、だ。
星李がこの時間にいないなんてどうしたんだろう。
それこそ朝には顔を合わせた。
今日は部活がないんだー
なんて話をしていた気がする。
あれ、それは昨日だっけ。
休みの日ということに託けて
好きな時に寝て起きてをしているものだから
日付の感覚が合わなくなってきている。
好きな時に寝起きとは言いつつも
基本は規則正しい生活だけれど。
それでも休みの日が続けば
誰だって曜日やら何やら
感覚はずれていくものだろう。
梨菜「星李ー…いないのー…?」
きいいと聞き慣れた不快な音を流しつつ
自分の部屋の扉をゆっくり開ける。
なんだろう。
何故か不安が影を落とす。
急に隙間が怖くなるだとか、
鏡のある部屋だと
誰か自分以外が映るんじゃないかとか、
今後ろに誰かいるんじゃないかとか。
そういうことあるよね。
それと同じような感覚だった。
何故かそわそわと落ち着かない。
リビングには強盗犯とかがいるんじゃないか、
なんて突飛な想像さえ膨らむ始末。
こういう時って大体というか絶対
何にも起こらないんだよね。
私の今までの人生経験上そうだった。
何かあると思った時ほど何もないの。
逆に予期していないタイミングで
何か大きなことが起こってしまったり。
私だけなのか世の中みんなそんなもんなのか
未だに計り知れないまま。
廊下に出ると今までと違った温度が
足裏をくすぐってくる。
こんなに寒かったっけ。
日当たりがないから冷えやすいのか。
脳内で問い自己完結した頃には
既にリビングへの扉に手をかけていた。
梨菜「…?」
飛び込んできた光景は
なんともいつも通りでなんの変哲もない部屋。
見覚えしかないリビングだった。
ただし星李は見つからないまま。
洗濯物が干されている。
その下には丁寧に畳んである服ら。
きっと星李がしてくれたんだろう。
キッチンはというと洗ってない食器が少し。
星李が昼ごはんの時に使ったお皿が
まだ洗われずに今か今かと待ち侘びていた。
ひと、ひと。
蛇口から時に落ちる雫の音が
ここの部屋に響く音の殆どを占めている。
ぼうっとしていても
星李は出てこないことくらい分かっていた。
けれど寝起きの頭は思うように動いてくれず
ただ部屋を歩き回る事しか出来なかった。
梨菜「…何これ。」
食卓の方へと回って漸く
質素なメモを見つけた。
星李は外で使うものは
飾りのついているものの方が多いんだけど、
家の中では質素なものばかり使う。
筆記用具をはじめ何かしら色々と。
生活費の事を気にしてるんだろう。
妹にそんな事にまで気を遣わせてしまって
申し訳ないという気持ちが募る。
どちらが姉なのか時々分からなくなる程
星李はしっかり者だった。
メモには
『買い物行ってくるね』
と走り書き。
梨菜「……そっか。」
やはり嫌な予感なんて外れて
今日もいつも通りの日々だった。
いつもは私が買い出し担当なのに
こんな時間まで寝ていたがために
痺れを切らして星李自身が買いに行ったんだろう。
普段私は起きていることが多いから
買い物についていく。
でも今日は睡魔に負けた。
星李ったら叩き起こしてくれればよかったのに
そうしないあたり優しいなぁ。
学校がある日はよく叩き起こされるんだけど
休みの日はそうでもないらしい。
梨菜「……んんー…。」
伸びをもう1つ。
欠伸のおまけ付きだった。
梨菜「…よし、波流ちゃんのとこ行こっと。」
波流ちゃんは部活後で疲れてるだろうけど
嘘つきに行くんだ。
どんな顔をするかな。
部活後で疲れがどっと溜まってるはずだから
流石に生々しいのはやめといてあげよう。
少しだけでもくすりと笑ってくれたら
これ以上ないんだけどどうだろうか。
どんな嘘吐こう。
トイレに行ったら
トイレットペーパー切れてたとか。
いや、それは嘘ではなくただの日常会話か。
星李が宇宙人に連れてかれた、とか。
流石に子供っぽすぎるかな。
なんだか幼児のようにるんるんと
スキップし出すかのような勢いで
服を着替え始めていたの。
***
梨菜「波流ちゃーん!」
大声で彼女の名前を呼ぶ。
程々に閑静な住宅街に私の声が盛大に響く。
通行人のうち幾ばくかは
音の根源である私の方をちら見しただろう。
遠くで揺れる長い髪。
学校から結構近い距離で
部員の子とはばいばいすると聞いたことがあった。
だからか波流ちゃんが
私や波流ちゃんの家の近くに来る頃には
1人のことが多かったんだ。
たったった。
運動部なだけあってすいすいと泳ぐように
こちらまできのせいでいいてしまう。
大きなラケット鞄が波流ちゃんの
後ろで揺れていた。
波流「梨菜ー!」
小走りながら余裕の歩幅。
私だからいいや、みたいなところがあるんだろう。
お互い様みたい。
近くの公園で遊ぶ子供らの奇声が
住宅街の壁という壁に反響している気がした。
波流ちゃんはというと
私の元に寄ったと思えば
てい、と軽いチョップを食らわせてきた。
ふやふやと髪が靡いてた。
春風に煽られてしなやかに煌びやかに。
不意に頭に感触があった事を思い出す。
梨菜「ふぇ、もう何ー。」
波流「声でかすぎ。昔っから声だけはでかいんだから。」
梨菜「身長もでかくしてほしかった…。」
波流「あはは、どんまい。」
私よりも幾らか身長の高い波流ちゃんは
遇らう様に笑っていた。
ああ。
ここ数日間会ってなかったのもあって
やっぱり会いに来てよかったなって心底思う。
波流ちゃんとは幼馴染ってこともあって
幼い時からほぼ毎日顔を合わせてきた。
高校生になって個々の時間、
例えば部活とか、を持つ様になって
何だか距離が空いた様な気がしてた。
だけど全然そんな事はなくって。
それどころかいつも通り。
波流ちゃんもにししと笑顔。
波流「そういやなんか用事?珍しいよね。」
梨菜「うん、まあね。まずは部活お疲れ様!」
波流「やった、ありがと。」
梨菜「どういたしまして。」
波流「ついでに飲み物1本欲しいな。」
梨菜「残念、お金持ってないもんね。」
波流「ちぇ、なんだ。」
口を窄めて子供のよう。
マスクをしているが
その表情までは予想がついた。
波流ちゃんは表情がいくつもあって
見ても見飽きない楽しさがある。
私はこの表情、感情豊かさに
育てられてきたと言っても過言じゃない。
波流ちゃんはよく飲食物をせがんで来るけど
常識人なところが捨てきれてないからか
取るのはいつも少量だったり
欲しいと言ったのは波流ちゃんなのに
いざあげるとなると遠慮したりする。
そういう時は大体半分こにして分けてきた。
周りからは仲が良すぎて怖い、
なんて言われる程だった。
どっかの噂では私と波流ちゃんが
付き合ってるどうこうみたいなものもあるらしい。
そんなことは全くないんだけど。
噂は一人歩きを辞めず行進していた。
梨菜「いつも私のお弁当から盗み食いするんだから、寧ろ奢って欲しいのはこっちだよ。」
波流「分かった分かった。今度何かするから。」
梨菜「あはは、そればっかりー。」
波流「うん、そうだねぇ…カラオケ2人で行った時全額負担する!」
梨菜「波流ちゃんの歌が聞けるなら万々歳!」
万歳と両手を上げる。
ちょろいな、私。
なんて思いつつも
長年こんな調子だったものだから
今更かと諦めの念が浮かぶ。
春の夕暮れはまだ肌寒く、
薄着で外に出るものじゃないと思い知らされた。
波流「やったー!ちょーろいー!」
案の定波流ちゃんはそう言ってた。
昔から知ってるのに
こうやってわざと口に出す。
意地悪なもんだ。
梨菜「そんな事ないもん。」
波流「そう?大体甘いでしょ。」
梨菜「いいや、そうとは限らないよ。」
波流「だって普通だったらお弁当何回もとられてたら「もーやめてー」って言うでしょ。」
梨菜「波流ちゃんはいつもりんご1欠片とかその程度だし、「もーやめてー」の域は越してる。」
波流「あぁもうそのレベル?」
梨菜「流石に4、5年くらい続いたらそりゃあね。」
波流「そっか、小学生の頃はお弁当じゃなくて給食だったっけ。」
梨菜「そーだよ!わあぁ懐かしいや。」
私はあんまり食べない方だったけど
波流ちゃんは今に劣らず食欲旺盛だったはず。
あまり同じクラスにはなれなかったけど、
家は近いし地域の集まりとかあった時に
その胃袋の大きさを
思い知ったっていう思い出がある。
波流「あっはは、話逸れてる逸れてる。」
梨菜「そうだった。…何だっけ?」
波流「ん、何だっけ。っていうか何でここまできてくれたの?」
梨菜「あ、そう!それだよ!」
波流ちゃんありがとうという意を込めて
肩を鷲掴み前後に揺する。
波流ちゃんはと首をぐわんぐわんさせながら
うあうあと情けない声をあげていた。
思わず忘れるところだった。
そう、私は今日波流ちゃんに
嘘を吐きに来たのだ。
側から聞いたらただの
とんだ迷惑娘だが今日は違う。
なんて言ったってエイプリルフールなのだから!
梨菜「波流ちゃん聞いて聞いて!」
波流「の前に手、離して離して。」
梨菜「あぁ、ごめん。」
ぱっと肩から手を離す。
手中にあった温度が寂れ出す。
近くの公園からだろうか。
やいやい言っている少年少女の声が
悪戯をするように耳を掠めていった。
横を見知らぬお姉さんが通る。
長い髪。
お手入れ大変そう。
なんて片隅には思ったけれど
明日どころか数分後、
否、数秒後には忘れているだろう。
波流「もう勘弁してよー。」
梨菜「ま、それはいいとして。聞いてよ!」
波流「はいはい、何ですか。」
適当に遇らってくるものだから
思わずむっとした顔をしてしまう。
波流ちゃんはそれに気づいたのか否か
じっと視線を合わせてきた。
一間空けてる間に風が一回転。
梨菜「私、未来人に会っちゃった。」
波流「……ん?」
梨菜「だーかーらー、未来人に会ったの。」
ダジャレを言った後かのような空気感。
時が止まった…?ってつい思ってしまう
あの状態が今ここで再現されていた。
波流ちゃんは疲れてるだろうから
一発で分かるものを考えたつもりだけど
どうだったのだろうか…?
子供っぽ過ぎたかな。
なんて考えていると、
唐突に波流ちゃんは俯き出す。
彼女の表情は見えない。
帰れ帰れと烏が鳴く。
嘶くように泣いていた。
そう思えてしまった。
梨菜「えっと…波流ちゃん?」
波流「…。」
未だ下を向いたまま。
えっと…。
え?
私は時間でも止めたのだろうか。
未来人に会ったっていう嘘以前に
いつから時を止める少女になってしまったのだ。
刹那。
ふっ、という空気が漏れ出る音。
波流「ふっ…あっはははっ。」
さっき私に声が大きいだの
煩いだの言っていた彼女は
盛大に春に笑い声を手向けた。
遠くを歩いていた人でさえ
思わず振り返ってこちらを確認していた。
梨菜「も、もー!何笑ってるの、笑うところないでしょー!」
波流「あっはは、ごめんごめん。はっはっは、いやーいいもの見れたわー。」
梨菜「あーもう知らない。」
波流「あははっ、もう何ー、はははっ。」
梨菜「恥ずかしいからやめやめ!」
それから少しの間波流ちゃんは
マスクをしているのに口元を隠して笑ってた。
よく分からないが彼女にとっては
笑いのツボだったらしい。
長年、それこそ10年くらい一緒にいても
波流ちゃんの笑いのツボは理解できなかった。
波流ちゃんの笑いが収まる頃、
こちらのことが気になって振り返ってた人は
まるで風にでも呑まれたみたいに
何処か視界の外に姿を消した。
梨菜「笑いすぎ。」
波流「えへへ、ごめんってば。」
梨菜「そんなに笑うところあった?」
波流「だってあんな真剣な顔して言ってることお子ちゃまだったから思わず。」
むっとした顔をしたはずが
波流ちゃんからすると真剣な顔に見えていた様子。
ううんこれだから表情は難しい。
その前に。
梨菜「言ってることお子ちゃまって!」
波流「だってそうでしょ?」
梨菜「むー。」
波流「何で急にそんな話したの?」
梨菜「今日は何月何日でしょうか。」
波流「あ、そっか。エイプリルフールだからか。」
梨菜「そういうことー。あ、じゃあもう1つ嘘吐く!」
波流「嘘って言っちゃってるじゃん。」
梨菜「それじゃあ、えっと。うーん。」
波流「その上決まってないんだ。」
梨菜「よし、決めた。私の存在、実は嘘なのだよ…。」
波流「…うーん、1個目の方が良かったかなあ。」
梨菜「別に漫才やってるわけじゃないからね?」
波流「あはは、確かに。」
くすくす。
陽だまりが足元を照らし出してくれているような
そんな暖かさが一瞬漂う。
けれどやっぱり夕方なだけあって
日は落ちてきているし寒くなってきた。
梨菜「まだ寒いね。」
波流「私全然だわ。」
梨菜「あんだけ笑ってたらそりゃそうなるでしょ。」
波流「あっはは、そりゃそう。」
伸びを1つ。
波流ちゃんと話して目が覚めてきたのか
気分爽快、本調子といったところ。
けれど彼女は早く帰りたいだろう。
まだまだ雑談していたいところだけど、
早めに切り上げて帰ることにしとこう。
梨菜「んじゃあ私帰ろうかな。波流ちゃん部活後だしゆっくり休んで。」
波流「本当に嘘だけ吐きに来たんだ。エイプリルフール楽しみすぎでしょ。」
梨菜「本当は午前中しか嘘は言っちゃ駄目なんだけど、すぐ分かる嘘だったらいいやって思って来ちゃった。」
波流「詳しいね。エイプリルフールマスターになれるよ。」
梨菜「それくらいだったら未来人になりたいよ。」
「そんな暇があったらちょっとは家事手伝ってよね。」
梨菜「まぁ、それとこれとは話違っ…ん?」
横から聞き馴染みのある声。
ん?
いつの間に?
私よりも長く整えられた
セミロングの髪が春風に揺蕩っていた。
波流「星李ー!わあ、久しぶりに会ったー!」
星李「久しぶりです、波流ちゃん。」
律儀に1つお辞儀をする妹。
どこでそんな礼儀正しさを学んだんだろうか。
私にはこれっぽっちも持っていないものを
妹はいつの間にか多々習得していた。
手にはエコバッグ。
何やら食材が見え隠れしている。
どうやら夕飯の買い出しだった様子。
波流「あれ、また見ない間に大人っぽくなった?」
星李「全然そんなことないですよ。」
梨菜「元々私より大人っぽいからなぁ。」
波流「それはそう。」
星李「その通り。」
梨菜「星李本人が言ってるのは分かるけど波流ちゃんは許せない。」
波流「何で私だけ?」
波流ちゃんのラケットカバンに
木陰が住み着きだしていた。
低木には春らしく蝶が舞っていた。
それから少しの間3人で話し込んでしまって
気づけば陽だまりなんて過去のもの、
夜が近づいてしまっていた。
子供らの声も気付けばしなくなっていて。
時間が経っていた事に気づかなかったんだ。
波流「もうこんな時間。」
梨菜「暗くなってきたね。流石に帰ろっか。」
星李「そうだね。」
梨菜「じゃあね、波流ちゃん!」
彼女はもう歩き出してて、
半身を翻しながらこちらに声を飛ばす。
波流「うん、またね。あ、言い忘れてたけど口元に涎の跡残ってたよ。」
梨菜「え?」
最後にものすごい勢いで爆弾が投下された。
今言う?
もっと早く言ってよ。
なんて思いながら慌てて口元を
袖で擦ってしまう。
いや待て。
マスクをしているじゃないか。
波流「えへへ、嘘ー。」
梨菜「んっ!?」
波流「仕返し。」
にししと笑う彼女は
なんとも意地悪が大好物ですと
言わんばかりの顔をしていた。
ほんとこういう意地悪なところがあるのに
何故か憎めずずっと一緒に過ごしてきてる。
不思議だった。
波流「じゃあまたね。」
星李「ばいばい。」
梨菜「今度見てろよー!」
少し遠くに行って小さくなってゆく彼女。
敵にいる弱いキャラが吐きそうな捨て台詞を
波流ちゃんにプレゼントしてやったら
片手を上げて手を振っていた。
受け取った印なんだろう。
その後背を向けて、こちらを振り返る事なく
影が縦に伸びきっていた。
星李「さ、うちらも帰ろ。」
梨菜「荷物持とうか?」
星李「んーん、大丈夫。」
梨菜「お姉ちゃんが何でもしてあげる。」
星李「それなら夜ご飯作って?」
梨菜「それは一緒にやろうよ。」
星李「えー。」
2人で通る何度目かも分からない帰路。
子供どころか人も少ない住宅街。
いつも通りの光景、
いつも通りの日々。
私の大好きないつも通りだった。
***
結局星李はうだうだ言いつつも
一緒にご飯を作ってくれた。
今日は魚を買ってくれてたから
それを焼いて食べたの。
2人で用意して2人で食べる。
それが私達の日常だった。
梨菜「ふう、美味しかったな。」
やっぱり焼き魚にはご飯が必須だよね。
大根おろしも勿論いいけど、
白ご飯に行き着くというところはある。
よくパン派とか聞くし偶に麺派とか聞くけど
私は断然ご飯派だな。
なんてくだらない事を脳内で議論しつつ
ベッドに大の字でダイブする。
仰向けで飛び込んだから天井が丸見えだ。
意味もなく手を伸ばしてみる。
遠近法で電気をつかんでいるかの様な
感覚に陥れられる。
梨菜「あ、思えば日本で芋派ってあんまいないような。」
またしょうもない事が浮かんでは
口にしてしまった。
でも気になる。
日本では芋派があまりいない理由が
気になってしまった。
梨菜「後で調べてみよ。」
私にはそういうところがある。
気になったら1から10まで調べてしまう。
何故そうなったのかと問われても
私には思い当たる節はない。
言うなれば気になってしまったから。
研究者タイプなのかもしれないが
私が選んだのは文系だった。
もうすぐで高校2年生としての生活が始まる。
去年のいつ頃だっただろうか、
文系、理系どっちにいくかを決めたのは。
今後の人生において
大きな選択になるみたいな事を
担任の先生は言っていたけど、
その選択だけで人生の全てが
決まるわけじゃないのになと
適当に聞き流していたっけ。
結局最後まで提出を渋って悩んだ挙句、
波流ちゃんもいる文系を選んだ。
まあ理系より楽だろうしね。
未来にならないとどっちが良かったかなんて
判断しようがないのだから
今不安になったって仕方ない。
梨菜「…何の話からこんな事考えてるんだっけ。」
さっき起きたばかりだったのに、
夜ご飯を食べたからか
徐々に瞼が重くなってゆく。
しかも今は心地よく
ベッドに寝転がっているときた。
眠るしかないじゃないか。
思考はだんだん溶けてゆく。
しかし寝る前にLINEが来てないか確認したり
少しTwitterを覗いたりでもしてみるか。
波流ちゃんが何かしら
呟いているかもしれない。
そんな淡い発想の元体を半回転。
ベッドに投げられていた
冷えているスマホを手に取った。
梨菜「……?」
そこで気づく。
着信が多数来ている。
アイコンの端に赤い丸が付いているものだから
気づく事ができたはいいものの。
一体何事だろうか。
梨菜「…しかも全部波流ちゃんだ。」
5、6件ほど来ていた着信履歴は
全てが波流ちゃんの名前を記していた。
何かあったのだろうか。
それこそ強盗が入り込んで
助けを求める電話を私にかけていた…とか。
もう手遅れ…だとか。
嫌な発想ばかり巡る。
大丈夫。
嫌な予感は大体当たらないのだから。
私の経験上当たらない事の方が
多かったのだから。
多かった、だけ。
だけ、だけど。
梨菜「波流ちゃん…っ。」
無意識だろうか。
波流ちゃんの名前を呼んでいた。
今まで現実味がなかったのか
スマホを手にぼんやりしていたけれど、
急に焦って電話をかける。
手汗でスマホケースが滑り
落としそうになってしまう。
轟々と血が回り出す。
嫌な予感よ、外れてくれ。
波流ちゃんがこんなに
電話をかけてくるなんて今までなかった。
緊急事態…。
その4文字が脳裏を過る。
お願い。
益なんてあるのか否か
祈りにも等しい何かを心の中で唱え出す。
とるるる。
とるるる。
暫くコールする音が鳴り響く。
もしこれで何回かかけて出なかったら
走って波流ちゃんの家まで行こう。
じゃないとー
つ。
そこで。
そこで漸くコール音が止まって。
波流『もしもし、もしもし梨菜っ!?』
波流ちゃんの逼迫した声が聞こえた。
電話に出てくれた事に
安心しているはずなのに、
その真剣さが故安心しきれない。
梨菜「どうかした、何かあったの?」
相手が焦っている時ほど
何故か自分は落ち着いてしまう。
ジェットコースターとかでもそう、
おばけ屋敷とかでもそう。
自分より酷く怯えてたり
震えてたりする人を見ると
かえって私は冷静になっている。
その状態に等しかった。
梨菜「落ち着いて、波流ちゃん。」
無機物に耳を当てて
微細な音が聞ける様耳を澄ます。
焦ってはいるけれど息が切れてる訳でもなく
波流ちゃんの声以外騒音とかはしていない。
波流『うん…ごめん。』
梨菜「全然いいよ。どうしたの?」
波流『梨菜、自分のTwitterのプロフィール開いてみて。』
梨菜「え、Twitter?」
波流『そう。』
何だろうか。
もしかしてドッキリし返されてる?
さっきのあの子供の様な嘘に対して
やり返しをしているのだろうか?
でもそれはその場で仕返されたし、
何より波流ちゃんの声を聞いて
演技だとは思えなかった。
とはいえ私の誕生日は過ぎているし
星李もまた全然違うからサプライズとかでもない。
この焦り具合からTwitterのフォロワー数が
〇〇人越したっていう内容では無さそうだし、
何よりその内容なら
私自身のTwitterプロフィールを
開けだなんて言わない。
検討がつかなかった。
波流ちゃんの声が聞こえるように
スピーカーにした後
恐る恐るTwitterを開いてみる。
波流ちゃん程は動いていない
タイムラインがそこにあって。
梨菜「…?」
アイコンが。
自分のアイコンがおかしい。
梨菜「プロフィール、だったっけ。」
波流『うん。』
プロフィール。
ぱっと変わった画面。
そこに表記されているはずのいつも名前は
今日は不在していて。
そのかわり。
嶋原梨菜
名前が私の本名に変わっていた。
アイコンはいつ撮られていたのか
自分の顔写真になっていた。
梨菜「…っ!」
波流『…梨菜?見れた…?』
梨菜「何これ、乗っ取り?」
波流『分からないけどその可能性が高いと思う。これ絶対梨菜が自分でやった訳じゃないだろうなって思って電話したの。』
梨菜「やってない。…私やってないよ。」
不可思議。
そして不可解。
変な汗が止まるところを知らず
春の筈なのに暑くて仕方がなかった。
ただただスマホを手に動けず
浅く呼吸をするしかなかった。
まだカーテンを閉めてなかったのを
思い出し窓を見やる。
私が映っていた。
その先には闇。
誰かが今も尚いるのだろうか。
そんなふうにも感じ取れてしまう。
私のアカウントはこの1日で
大きく変わってしまっていた。
日常の崩れる音を聞いた気がした。
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