初めての触れ合い方
ラスターの言葉に戸惑った。
他の人間と会うなというのはリディアの退路を断つためだろうが、名前を呼ぶなとは一体どんな意味があるのだろう。
(名前を呼んだらだめって難しいのでは……? 人類の半分が男なのに……)
むしろ女性を免除するあたりやっぱり優しいなと思いつつ、ぽわんと脳裏に執事のエイベルが浮かぶ。もしもうっかり彼の名前を呼んでしまったら……無事ではすまないとは具体的にどんなことになるのだろうか。知りたくない。
そんなリディアの困惑をどう受け取ったのか、ラスターの瞳がまた昏く沈む。
「……だめと言われたところで、ディアが聞くわけないよな。なら実力行使しかない」
「実力行使?」
不穏な言葉に首を傾げると、ラスターがリディアの頬を撫でながら、冷たい声音で驚くべきことを言う。
「もう逃げられないように足の腱を切って、絶対に誰も侵入できないような部屋に閉じ込める。この唇が生涯俺の名だけを呼ぶように」
「えっ……」
何てことを言うのだとマクシミリアンに腹を立てたばかりなのに、聞き覚えのある発想をラスターが口にしたことに絶句した。
先日までこの弟子は復讐のふの字も知らなかったはずなのに。
「そして俺がいなければ生きていけなくなればいい。そうなればこの耳は俺の声だけを聞き、この目は俺だけを見て、この手は俺以外に触れられなくなる」
物騒な言葉を、あまりにも優しく話すので混乱する。
(怒っているのはわかるけど……なんだかこの怒り方、変な気がする……)
許せない相手が逃亡を計って怒っているのとは少し違う。表情だって、怒っているというよりはとても傷ついたよう顔だ。
罪悪感に胸が痛んで目を伏せる。ラスターのいない場所で会わなければならなかったとはいえ、きっとまたリディアはラスターを裏切ってしまったのだ。
うなだれるリディアの顎を、不意にラスターの指がつかむ。上を向かせられて、あっと思う間もなく冷めた瞳が近づいてくる。
(ち、近……!)
驚きすぎて目を閉じることもできずに、ただただ水面の青い瞳を見つめていると、ごつん、と音を立てて額に温かいものが触れた。ラスターの額だった。
何かを堪えるようにたっぷり五秒目を瞑ったラスターが、低い声で呟いた。
「……そういうことをされたくなければ。もう二度と俺の元から離れようとするな」
そう言ってラスターがリディアから身を離し、背を向けた。
ラスターが遠くの者と通信する陣を描く。途端にロードリックの「ひどいじゃないですかラスター様ぁぁぁ」という悲鳴が聞こえてきた。
(な、な、何……? 今のは、)
胸の奥が、微かにむずむずとする。抱きしめるのも抱きしめられたことも一緒に眠ったこともあるのに、今のはなんだか、今までに経験のないような触れ合いだった。
◇
先日までツンツンしていたラスターは、ツンツンツンツンツンツンツンくらいに戻ってしまった。裏切ってしまったのだから当然だ。黒猫のディーも、なんだか「馬鹿なことしたわね」という呆れた目で見ているような気がする。
今まで通り朝は必ず起こしに来るけれど、冷ややかにリディアが食事をするのを見届ける。
仕事に出かけても、少しでも時間が空くたび帰ってくる姿に、一抹の信頼もないことを思い知る。
仕事の邪魔になっているだろうと、リディアは重苦しい気持ちでため息を吐いた。
「お疲れですか。今日はここまでに致しましょうか。もうじき完成ですしね」
横で刺繍を教えてくれるエイベルが、心配そうに片眉を上げた。
この執事は使用人の少ないこのヴィルヘルム公爵家一番の有能なおじいさんで、何の特技も身に着けていないリディアに、よくこうしていろいろな技術を教えてくれるのだ。
先日までエイベルさんと呼んでいたが、ラスターからの「名を呼ぶな」という言いつけを守って最近は「ベルさん」とあだ名で呼ぶことにした。ラスターには冷ややかすぎる眼差しで見られたが、何も言われなかったので正解だったのだろう。
「いいえ、大丈夫。ちょっと考え事を……あ、ねえベルさん。ここのサファイアは、一色ではなくて五色を使って立体的に仕上げたいの」
「かしこまりました。それは、ご主人様も大変お喜びになるかと」
「なるかなあ……」
最近、リディアは刺繍を練習している。
先日はディーのためのリボンを数枚作り、今はようやく本番であるラスターのハンカチに取り掛かっている。
すぐに形を変える液体とは違って、個体に精霊力はこもりにくい。時間をかけて入れ込んでも、ごくごく僅かな精霊力しか入らない。
しかしごく僅かな力であっても、精霊力を入れ込んだ糸で刺繍を刺したものなら、気休め程度のお守り代わりになるんじゃないかと思ったのだ。
しかしきっとリディアが刺したものなど、迷惑でしかないだろう。渡すかどうかも迷っている。それでも償いと日ごろの感謝の気持ちをこめて、毎日少しずつ刺していた。
「渡すのも迷ってるの。でもベルさんのおかげで上手にできているから、私が使っちゃおうかしら。ラスターの紋章なら強くて魔除けになりそうだし」
「いえ是非お渡しください。最近ご主人さまのご機嫌が悪く戦々恐々としている私共のためにも、どうか」
「え、そ、そう? まあこれを渡しても機嫌は直らないと思うけど……わかったわ」
珍しく食い気味のエイベルの鬼気迫る姿に思わず頷いてしまった。彼はどこかホッとしたような顔をしている。
どんなに機嫌が悪くても、ラスターが使用人に理不尽なことをすることはないけれど、不機嫌な美形というものは迫力があって怖いものだ。不機嫌の原因たるもの、できることはどんな些細なことでもやらなければならないだろう。
「じゃあ今度、お出かけする時に渡してみるわね」
「かしこまりました。それでは間に合うように、仕上げていきましょう」
エイベルが珍しくホッとしたような微笑みを浮かべる。
今週末は、ラスターと二人でサラヴァン辺境伯城へと向かうことになっていた。行かなければならないと言っていたラスターの顔は珍しく不快そうじゃなかったので、きっと彼も楽しみにしているのだろう。
(一生懸命刺した刺繍だから、いらないと突き返される……のはまあいいけど、目の前でゴミ箱に捨てられたら悲しいものね)
近くにゴミ箱がないところで渡そう。そんな姑息なことを考えながら、リディアは手を動かした。
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