月明かりの下で

 



「……神官長、手を貸そう」

「結構だ!」


 差し出したマクシミリアンの手を振り払い、神官長が這う這うの体で去っていく。この少女は何者なのだろうか、とリディアが訝しむと少女が振り向いた。


「大丈夫か?」

「え? あ、はい。私は……」


 むしろ大丈夫じゃないのは神官長ではないだろうか、と思いつつ、リディアは少女を見た。年齢はおそらくリディアと変わらないだろう。


 可愛らしい顔立ちだが、老成した雰囲気を纏っている。柔らかな菫色の目の奥に、背筋が寒くなるような深淵が息づいているような気がして、リディアは目を瞬かせた。


「そんなに警戒せずとも」と、少女がおかしそうに笑う。


「わたしはアレクサンドラ・サラヴァン。一度そなたとお会いしたいと思っていた」

「……! お会いできて光栄です、サラヴァン辺境伯令嬢」


 慌てて淑女の礼を取りながら、リディアはその名前を思い出す。

 サラヴァン辺境伯令嬢とは確か、ラスターがプロポーズをしようとしていた相手ではなかっただろうか。


(ラスターは否定していたけれど……)


 貴族流の礼をしたリディアを見て更に愉快そうに目を細めたアレクサンドラは、不機嫌を極めた表情のラスターに身を寄せ何事かを囁いた。

 ラスターが少し驚いたように彼女を見つめ、リディアには聞こえない声で一言何かを会話している。


(ものすごく、お似合いだわ)


 どこか居心地悪くリディアがその様子を見ていると、手持無沙汰だった手のひらにじわ、とほのかに熱を感じた。


 懐かしい感触にそっと視線を落とすと、古代文字で書かれた文章が、黄色く宙に浮かびあがっている。


『三日後の昼十時に』


 驚いてマクシミリアンに目線を向けると視線が合った。微かに頷くと、手のひらの文章がさらりとかき消えた。



 ◇



 一連の流れに王宮のホール内はドン引きといった風情で冷えていたが、それからすぐに何も知らない国王陛下が現れ、ラスターの功績を褒めたたえた。


 おかげでやや空気が温まり、その後たくさんの人々がラスターの元へ集まってきた。それを笑顔……は全くないものの、きちんと応対するラスターに立派になったものだと心の中で感動する。あの生意気な子どもが。


 それに付き合い、不本意ながらリディアも婚約者として振る舞った。


 しかし実は、リディアは知らない人間と接することが少し苦手だ。いい加減疲れ果ててきた頃、タイミングを見計らったラスターが手を引いてリディアをテラスへ連れて行った。


 夜風が熱くなった頬を撫で、月が真上で輝いている。王宮の庭園を彩る湖にその月や満天の星空が映っていた。


その光景を綺麗だなと眺めながら思い切り伸びをする。ヒールを履いて疲れた足に治癒をかけてみると、ぐんと楽になった。


 そんなリディアを黙って見ていたラスターがぽつりと「悪かった」と謝った。


「え? 何が?」

「……色々だ。あんな男の戯言を少しでも耳に入れてしまったことや、目の前で嫌なものを見せたことも」


 言っている内に思い出して怒りが再燃したのか、ラスターが舌打ちをする。


「あの時、あの男は古龍の爪研ぎにしておくべきだったな」

「爪とぎ」


 小声だけどばっちり聞こえてしまった。リディアの復唱にラスターがややバツの悪そうな顔をして、リディアは神官長が言っていた数々の言葉を思い出す。


 ――元平民の孤児。

 それの何が悪いのだろう。神官長の想像以上に過酷な子ども時代を過ごしたラスターは、生き延びただけでも偉いのだ。


 思い出して胸が痛んだ。

 あんなに口汚く罵られて、途中まで堪えただけでも偉いかもしれない。

 挙句の果てにはマザコン扱い、それも相手は嫌いな詐欺師――となれば。

 もしもリディアなら腹いせに髪の毛を全て鼻の中に移してやりたいと思うだろう。やらないけれど。


 反省したのか少し困った顔で、ラスターが口を開いた。


「もう暴力は……魔術では、極力やらない」

「確かに、暴力は良くないわね」


 元々ラスターには、魔力を生き物に向けて使うことはしてはいけない、と強く教えこんでいた。


 魔術というものは誰かを幸せにするために使うもので、何かを攻撃するために使ってほしくないと、いくらお花畑と言われようがリディアは思っているからだ。



「でも他のことは、ラスターはものすごく立派でかっこよかったと思う」


 青い瞳が驚きに見開かれる。月明かりにきらきら揺れる五色の瞳はやっぱり水面のようで、どうしてこの弟子はこんなに綺麗なのだろう、とリディアは思った。


「話し方もきちんとしてるし、ひどいことを言われても途中まではこらえていたし、人に対してもまあ……頑張って対応してたし、それからこうして私が疲れたら休憩に連れ出してくれたし、ああ、あとこんなに素敵なアクセサリーやドレスも用意してくれて。それに何より、あなたは本当に立派な大魔術師になった。こんなに凄い子、なかなかいないわ」

「……」

「本当に……ラスター、この十六年間、すごく頑張ったのね」


 そう言って微笑むと、ラスターがぎゅっと唇を引き結ぶ。何か激情を堪えるような強張った表情に、師匠然とした態度を取ったから怒ったのだろうかと焦った瞬間、ラスターがリディアを強く抱きしめた。


衝撃に、頭の中が真っ白になる。


「――うん、頑張った。本当に」


 掠れた声と共に、熱い息がリディアの耳元をかすめた。人は混乱しすぎると固まるのだなと頭の片隅で他人事のように思っていると、ラスターは「でも、全部が報われた」と絞り出すような声で言った。



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