第五章 災厄の日

一 内裏

 自身が身につけている白の襦袢を、無意味に数度撫でる。ただの襦袢だが、軽く触れた肌触りだけで上等さがわかった。

 藤は無駄に広い部屋に敷かれた、これまた上等な布団の上にいた。

 船旅の末、藤が都についたのは二日前。港からは馬車に乗せられて移動したため、都の景色をほとんど見ることなく、今滞在している場所に着いた。

 だが、今己がいる場所がどこかは分かっている。内裏だ。

 内裏とは、都の中心地のさらに核。帝の私邸のことだ。常人であれば足を踏み入れることもできないはずの場所に己が寝ている不思議を、藤はしみじみと感じていた。

 締め切られていた障子が開き、藤は無為に見ていた天井から、そちらへと視線を向ける。姿を現したのは、梧だった。

「やあ、おはよう。気分はどうだい?」

 梧は気安い調子で藤へ声をかけ、手にした桃を齧りながら、布団の横へと座る。

「昨日と変わらん」

 藤は横になったまま、低い声で答えた。

 当初は松柏の町についた時点で別れることになっていた梧だが、役人に都までの同行を申し出、今も側にいる。

 藤が都についてから対面したのは、身の回りの世話をする侍女だけだった。加えてその侍女も、藤が何を話しかけても一言も言葉を発さない。

 ここまで藤を連れてきた役人も姿を消した結果、藤が会話できる唯一の人間は梧だけになった。己が今、内裏にいると分かったのも、梧が教えてくれたからである。

「悪化していないなら良いことだ。ほら、朝ごはんに桃、食べるかい?」

 齧っていない方の桃を持ち上げて示しながら、梧が問う。その丸々とした立派な桃を一瞥してから、藤は頷いた。

 着替えや傷の手当、体を拭うのは侍女がやってくれるが、三度の食事を運んでくるのは何故か梧だった。藤の中からは、もはや彼への不信感はなくなっている。

 梧は柔らかく微笑むと、携えてきた包丁で、桃の皮を器用に剥いていく。

「内裏で刃物の持ち歩きが許されているとは、朝廷からの松柏への信頼は、よほど厚いのだな」

「様々なことを積み上げてきた結果だよ。五年前に今の帝が即位した時、式典に駆けつけたのも三組織の中では私だけだったしね」

 梧の言葉に、藤は目を瞬く。

「今の帝の即位って五年前だったのか」

「都の外の人間にとってはどうでも良いことだよね、帝が誰かなんて。でも、そう。先代が病で崩御されてね。毒殺されたなんて噂もあったけど」

「わたしが内裏にいるのもお前の影響か?」

 藤はずっと気になっていたことを問いかける。浄に対する人質として藤を確保しておくにしろ、そんな者を内裏の中に置いてく必要はないはずだからだ。

「まさか。私にそんな権限などないよ」

 皮を剥いた桃を食べやすい大きさに切りながら、梧が笑う。

「帝が何を考えているかなんて、想像するだけ無駄だよ。生まれも育ちも私達とは根本的に違う。別の生き物だと思っていた方が良い。蜘蛛が何を考えて生きているかなんて、考えたって仕方ないだろう? ただ、今の帝がこの都以外にも興味を持っていることは確かだね。白虎と六堂との戦いだって、先代の時には考えられなかったことだ」

 梧はくし形に切った桃を、藤の口元まで運んでくる。藤は一瞬の躊躇の後、口を開いて差し出された桃を手ずから食べた。

 そんな藤の様子を見て満足そうに笑って、梧は言葉を続ける。

「ところで、今日は少しだけでも起き上がっていられそうかい? そんな帝が君に会いたがっているらしい」

 何でも無いような調子で告げられた言葉に、藤は次々与えられる桃を食べながら目を剥く。

「帝が? わたしに拒否権などあるのか」

「ないね。まあ、だから頑張って。会うといっても御簾越しだから、帝が満足するまで座敷に座っていられればそれで良い」

 藤は吐息を一つ漏らし、頷く。咀嚼しながら黙り込んだ藤の様子に、梧は笑った。

「帝の考えていることなんて、想像するだけ無駄だって」

 という、ありがたい助言を授けて。


 藤が侍女から支度をするように促されたのは、昼餉をとってから半刻後のことだった。昼餉の膳を下げてから梧は姿を消している。

 侍女が運んできたのは、そこにあるだけでふんわりと白檀の芳しき香りが漂う、浅縹あさはなだ色の狩衣だ。狩衣は、都の外では目にする機会すらない。どのように着ればよいのか見当もつかなかった藤だが、着付けは全て侍女が行ったので、藤は言われるままに手を上げたり下げたりしていただけである。

 さらに下ろしたままにしていた髪をくしけずり、頭の高い位置に丁寧に結い上げる。

「わたしにここまでする理由は何なのだ。どうして帝がわたしなどに会いたがる」

 ずっと抱いていた疑問を口に出して問うてみても、侍女はやはり言葉を発しない。

 支度が整うと、侍女に体を支えられ部屋を出た。障子を隔てた先には、直垂ひたたれ姿の武士が立っていた。腰には太刀を佩いている。涼やかな面立ちで全体的に気品があり、竹林の家までやってきた武士たちとは、一目で格が違うことがわかる。

 無言のまま侍女が武士に藤の体を預けると、武士もまた無言で藤の体を受け取る。侍女とは比べ物にならない力強い腕で支えられて、長い廊下を歩いていく。

 まるで、己が物になったかのように感じるやりとりだ。藤は半ば強制的に体を引かれながら、深々と溜め息をついていた。

 華美ではないが、あらゆるもののつくり一つひとつが、最上級であることが伺い知れる寝殿。敷地の中は静まり返っている。藤が歩いている廊下は雅な庭に面していて、そこへ訪れている鳥のさえずりが、やたらと大きく聞こえた。所々で武士の姿を見かけたが、誰もが口を閉ざし直立不動でいる様は、頼もしいというよりも不気味に見えた。

 連れてこられたのは、板張りの間。部屋の中央部に、丸々とした立派な二本の柱がたっている。柱の間には御簾がかけられ、間が完全に二分されていた。御簾の奥にはうっすらと、さらに布で四方を覆われた区画があるのが見える。それが御帳台みちょうだいであり、中に帝がいるのだと理解できた。

 武士に促され、板間の上に座らされる。座ったまま何とか御簾の中を見ようと目を凝らしていた藤だったが、後ろに控えた武士に強制的に頭を下げさせられた。

 しばらくして、御簾の向こうからごく微かに衣擦れの音がした。御帳台の幕が上がったのだ。

 頭を下げたまま待っていると「面をあげよ」という少し高めの男の声がした。

 一瞬逡巡した藤だったが、己に言われたものであろうと判断し、ゆっくりと顔を上げた。御簾越しに、たしかに御帳台の中に座る人影らしきものが見える。

 部屋の中には藤と、その後ろに控える武士。さらに御簾の奥にも複数人の気配を感じるにも関わらず、誰一人として声を発さず、身じろぎもしない。息が詰まりそうな程の緊張感が満ちていた。

 無意味なように思える緊迫の時間は長く続いた。藤の体が痛み、熱の上昇を感じだしたころ、不意に御帳台の幕が降ろされた。

 それを合図に動き始めた武士が、藤の腕を掴む。強制的に立ち上がらせようとするが、藤は体に力が入らなくなっていた。

 結局、藤は武士に体を抱えられ、元いた部屋に戻されることになった。待っていた侍女に、また人形のように襦袢へと衣を着替えさせられる。布団へ横になり、見飽き始めた天井を睨みつけた。

 藤には、帝が何をしたかったのか、その思惑も全く分からない。己はいったいここで何をしているのかという、情けなさだけが募っていくのだった。

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