三 袁
村で一悶着があってから数日後。相変わらず気温の高い、のどかな昼下がり。
風を通すためにいたるところを開け放っている家の中に、浄が竹籠を編み込む手仕事の音が響いている。藤はその規則正しい音を聞きながら、家中の拭き掃除をしていた。
固く絞った雑巾で、畳の目にそって一つ一つ丁寧に拭いていく。
ふと、ある音を耳にして藤は手を止めた。家の外、竹林の向こうから聞こえた、乾いた高い物音。
その音自体は浄にも聞こえている。竹林に囲まれ、常時様々な物音が聞こえるのが自然な環境で、普通ならば聞き流してしまうような物音だ。しかし、藤にとっては警戒すべき音として、はっきりと認識できた。
優が家を訪れた日から、藤はよりいっそう警戒を強め、家の周囲に鳴子の罠をしかけていたのだ。
急ぎ土間へ向かうと、持っていた雑巾を置き、代わりに刀を帯に挟んだ。ちらりと浄の方を振り返る。彼は作業に集中している様子で、視線を手元に落としたまま。
藤は静かに家を抜け出すと、音の聞こえた方へと走った。
竹林の中を進むと、鳴子を設置した辺りで、複数の人影が見えた。
素早く視線を走らせ、数を数える。笠を目深に被り、帯刀して袴と着物をきっちりと身にまとった男が四人。藤は全身に緊張を漲らせ、刀の柄に手をかけた。
「何奴か。ここから先はわたしの領地となる。いかなる用であろうと侵入すること許さぬ。即刻立ち去れ」
そう通る声で呼びかけながら、行く手を阻むように立ち止まる。
と、男たちの中の一人が顎を上げた。笠で影になっていた顔が露わになる。
「待ってくれ、藤。俺だ」
その顔を見て、藤は「号?」と呟いた。見知った顔に、一瞬体から力が抜けかける。だが、再度浮かんできた怒りの感情に、刀の柄を握りしめ直した。
「貴様、性懲りもなく!」
「待て、違うんだ。俺たちは仇討ちに来た訳じゃない」
言葉を証明するように、号は腰に提げた刀に、手をやろうとする素振りも見せない。
次に口を開いたのは、号の隣に立っていた男だった。笠を押上げ、藤に顔を晒す。見えたその姿に、藤はまた、はっと息を呑んだ。
「久しぶりだな、藤。怒りに燃え、駆け出したお前の背中を見送って、もう一〇年以上経つのか。立派になったものだ」
口元には白い物が交じる無精髭。頬に深く刻まれた傷痕。声にも、姿にも、藤は見覚えがあった。彼の名は袁。彼もまた六堂タの生き残りで、藤と号の、忍の師であった男だ。
「袁先生……どうして、ここへ」
名前を呼びかけ、藤は深い郷愁に襲われた。だが同時に、確信に近い嫌な予感が胸を過る。先日優から聞いた白虎と六堂の現状。そして、号が袁を連れて己の元を尋ねてくる理由を考えれば、彼らの用件は推察できる。
「お前を迎えに来た。俺たちと共に六堂へ帰ろう」
袁の低く響く声でそう語りかけられ、藤は思わず笑った。
「嘘をつかないでください。先生が迎えに来たのはわたしではない。わたしたちの村を壊滅させた張本人である浄だ。浄のことを聞き、仲間に引き入れたいと考えている。違いますか?」
「お前と生活を共にする、その浄という男も、六堂へ迎えたいと思っているのは違いない。なにせ羅刹と異名のつく程の武人だという話だ」
「白虎が朝廷から狙われ、町に被害まで出した今、同盟を破棄し全面攻勢に出るべきだと判断したのではありませんか? 大戦へ臨むにあたって、浄の並々ならぬ戦力が欲しくなったと」
言葉を交わしながら、藤は号と袁の左右にそれぞれ控えている男二人に視線を向ける。彼らもまた六堂の者で、号と同じ袁の部下。立ち居振る舞いからいって、力量も号と同等のように藤には感じられた。
「このような所で隠居しているというのに、随分情報通だな、さすがは藤だ。お前は昔から、俺の教えた者の中で最も優秀だった」
袁は昔を懐かしむようにしみじみと呟いてから、頷いた。
「その通りだよ、藤。だが浄だけじゃない、お前が六堂に戻ってくれば、戦いは圧倒的な六堂の有利で展開できると、俺は思っている」
ようやく本音を引き出したところで、藤はゆっくりと息を吐く。
「わたしは、もう二度と、浄に人殺しをさせないと己自身に誓いました。いずれ、戦いから離れた浄が、人知れず死んでいくところを見届ける。それがわたしなりの仇討ちであり、あの日死んでいった村の皆への弔いなのです。どうか、お引取りを」
藤の目には、揺るぎない信念が宿っている。しかし、袁も引く様子は見せない。今藤が口にしたのは、あくまで藤個人の執念であり、心情だ。組と組長のことを第一に考えねばならない忍が、己の情を通そうとするなど、許されるはずがない。
「お前は六堂の忍だろう、藤。故郷へ帰り、組の役に立つことに、何の差し障りがある」
「わたしの故郷は、とうの昔に滅びました。そして六堂の忍であったわたし自身も、あの時すでに家族と共に死んだのです」
話しながら脳裏に浮かぶのは、あの日、血に染まった故郷の村。藤は言葉を続ける。
「そもそも浄は、人が御しきれるような者ではないのです。安易な気持ちで用いれば、あれを持て余した白虎の寿のように……いえ、それ以上の報いを受けます」
「お前がそれほど評価する男、いっそう手に入れたくなった。白虎を討ち滅ぼすことができるのであれば、一人の人間のことなど、どうとうでもなる。それに、今お前は浄のことを制御しているではないか」
袁の言葉に、藤はまた軽く笑った。
「制御などという清いものではないことは、すでに号からお聞きになっているのではないですか?」
「忍が清さなど、気にしても詮無いこと」
言葉を交わしながら、袁が一歩足を踏み出す。
その動きを見て、藤はすかさず鞘から刀を抜き放った。切っ先を袁へ向けて、真っ直ぐに構える。
「袁先生、お願いします。どうかお帰りください」
「帰らぬと言ったら?」
「かつての師、かつての同胞といえども、ここを通す訳にはいきません。たとえ、その命を奪うことになっても」
刀を握る藤のまなざしに、微塵も迷いはない。かつての恩師に刃を向ける藤の姿に、狼狽えたのは号の方だった。
「藤、お前本気なのか。ただ元いた場所に戻ってくるというだけの話だろうが」
慌てて言葉を挟むが、もはや藤の視界に、号は映っていなかった。戦いになった時、もっとも警戒すべきは袁だ。年月が経ち、師と仰いでいた頃からすれば精力も衰えたが、彼の実力の高さを藤は知っている。
袁は溜め息を一つ。彼もまた、刀の柄に手をやり、刃を抜き放つ。
「待ってください、先生!」
「号よ、もはや藤の、組の意思に背く覚悟は堅いようだ。そもそも、組から離反した時点で俺たちが殺さねばならん存在よ」
「しかし俺たちは、たった三人だけの、同郷の士ではないですか」
必死に袁の説得を続けようとする号を傍目に、残り二人の男たちもまた、刀を抜く。
「情よりも任務を優先しろと教えたはずだ」
袁がそう言い捨てた瞬間、藤は体に緊張を漲らせた。
同時に、袁が一歩大きく踏み込む。鋭い太刀筋が頭上から振り下ろされ、藤はそれを刃で受け止めて押し返す。
「おおお!」
野太い雄叫びを上げ、袁の横に控えていた男が藤へと斬りかかってくる。咄嗟に鍔迫り合いをしていた袁の刃を弾き、斜め後方へと飛び退く。
男は再度踏み込み、退いた藤を追うように、大きく刀を頭上へ振りかぶった。瞬間、藤は足を滑らせるように身を屈めると、電光石火の素早さで男の懐へと飛び込みながら胴体を撫で斬る。
手に伝わる、確かな感触。男は血飛沫を飛ばし、数歩意味もなく歩いてから倒れ伏す。
「まずは一人目」心の中でそう冷静に数えている己を、藤は自覚していた。
藤が低めた体勢を立て直す前に、再度袁が仕掛ける。今度は袁も姿勢を屈め、ごく低い位置からの撫で斬り。と、その攻撃に息を合わせるように、号の横にいた男も藤の首をめがけて同時に刃を振りかぶる。
左右からの高さの違う斬撃に、瞬時に逃げられないことを認め、そして対策を講じる。
藤は、袁の刃から足を庇うように刀を下げ、地面に突き立てる。袁の刃が弾かれたと同時に、首めがけて差し込まれる刃を、真正面から左腕で受け止めた。藤の掌を刃が貫く。
「くっ……あああ!」
鮮血が流れ出し、焼けるような痛みが走る。だが、藤はそのまま刃の根本まで掌を貫かせると、男の胸をめがけてその刃の柄を押し込んだ。
力まかせの反撃に不意をつかれ、男が怯む。
藤は地面に突き立てた己の刀を引き抜くと、袁を牽制するように刃を振り回しながら、よろめいた男の首を斬り落とす。これで、二人目。
「藤、やめろぉっ!」
力の限り叫ぶ号の声が、藤にはどこか遠く聞こえる。
「お前も六堂の忍なら、戦え、号!」
袁の言葉に、号は目をいっぱいに見開く。その間、藤は深く刺さった左掌の刃を抜き、地面へ落とす。止めどなく熱い血が溢れ出し、左手の感覚はなくなっていた。
袁は号を駆り立てながらも、目にも留まらぬ連撃を繰り出しはじめる。
藤はそれを受け流すだけで精一杯だ。感覚のない左手を庇うように動くが、避けきれない斬撃は、藤の頬や首元、腕、足と肌を幾重にも掠っては血を流す。のどかだった竹林に、熱く鋼を打ち合う音が響く。
じりじりと後方へ押しやられながら、藤は袁だけに集中し、彼の様子を注意深く観察した。かつての恩師に呼吸を合わせ、技と技の隙間を探る。
藤は袁の戦いの型や手の内を知っている。それは袁からしても同じだが、しかし藤には白虎組にいた時間で身につけた別の技術と力がある。
短く息を吸い姿勢を整え、吐きながら刃を繰り出す。その合間。
一瞬、藤には外の世界が、ゆっくりと流れているように感じられた。熟練の技を繰り出す袁の手元に、ごく僅かな緩みを見つける。藤はすかさず、その隙を突くように刀を振り上げた。
刃の切っ先は袁の手首を切り落とし、握っていた刀ごと地に落ちる。
吹き出す鮮血と、袁の上げる、耳をつんざく叫び声。仰け反った袁の体めがけて、藤は袈裟斬りに刀を振り抜いた。
体を両断され、どうっと倒れる袁。
気を抜きかけた瞬間、藤の腹部には、深く刀が突き刺さっていた。
息を吐くのと同時に、藤の口から、真紅の血が溢れ出す。袁に集中し続けた彼の背後にまわっていた号が、その腹部を貫いたのだ。号は、刀の柄から震える手を離す。
「藤……俺……」
弱々しい声で、号が何事か呟く。
言葉の先に何が続くのかを聞く前に、藤は勢いよく振り向く。遠心力を刃に乗せ、藤は号の首を斬り落としていた。
「はぁ……はっ、ぐぅ……」
まともに呼吸ができずに、藤は呻き声を漏らしながら、四人の死体が転がる地に立ち尽くす。腹に刺さったままの刃を抜こうと手をかけたが、腹部側に出ているのは刃。刃を握っても血に濡れた手が傷つくばかりで、少しも動かない。
全身から血を垂れ流し、藤は一歩、また一歩と歩き出した。足を向けたのは、家のある方向だ。だが、すぐに力尽きる。
膝をつき、前へと倒れ込む。
朦朧とし、薄れ行く意識の中で、幾度も呼ばう名は――。
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