二 諍い
「女、大人しく言うことを聞かねば、痛い目をみるぞ!」
そんな不穏な声が聞こえてきたのは、藤がいつものように市で買い物を済ませた時だった。今しがた買い求めたばかりの酒瓶を、鹿毛の背につけた籠に入れる。鹿毛越しにそちらへ視線を向けると、二軒先の店前にちょっとした人だかりができていた。
人垣の中心にいるのは店の女主人である椿と、その正面に立つ立派な着物の男。綺麗に剃られたさかやき姿は、見るからに朝廷の役人だ。
「お上はそうやって、あたしたちを脅して、金を巻き上げることしかできないんじゃないか! 悪人を捕らえるのも、漁の取り仕切りも、川や道の整備も、全部松柏組の人たちがやってくれてる。朝廷があたしたちに何をしてくれたって? いったい何のための年貢だってんだよ。あたしゃもう絶対に払わないからね」
見事な啖呵を切った椿に、周囲の幾人から拍手が湧いた。「いいぞ」「もっと言ってやれ」などと囃し立てる者もいる。
藤はすぐに、彼らがどういう状況であるかを理解した。
役人は朝廷への年貢の取り立てに来て、椿がそれに反発を示している状態だ。
こういったいざこざは、どこの土地でもよく目にする。だいたいは周囲が宥めて年貢を支払わせるか、騒ぎを聞きつけた組の者が駆けつけて、代わりに支払ってやるのだ。民の多くは組を慕っており、組に迷惑をかけてはならないと、次から年貢の支払いを渋らなくなるのが常である。
よくある諍いかと、藤が興味をなくして視線を外そうとした時。
「なんと無礼な、これは朝廷への反逆罪にあたるぞ!」
怒りで顔を真っ赤にしていた役人が、そう叫びながら腰にさしていた刀を抜いた。
白刃が日の下に輝き、悲鳴が上がった。野次馬をしていた人々の間にも緊張が走る。
藤は周囲へ視線を走らせた。様子を見ていた者たちが口々に、松柏組を呼べと叫んでいるが、まだ近くにそれらしき姿はない。
「今この場で斬り捨ててくれる!」
役人が激昂に任せて刀を振り上げる。周囲の人だかりが、難を避けるように割れて、怯んだ椿だけが取り残された。
藤は舌打ちを一つ。刀の柄に手をかけ、走り出した。
役人の持つ刃が椿に振り下ろされる寸前。抜き放った刀を間に差し入れ、受け止める。そのまま背後へ椿を庇うように体を滑り込ませ、刃を押し返した。
「貴様、邪魔立てをする気か!」
役人はいっそう柄を握る手に力を込める。交差した刃がギリギリと音をたてている。
「落ち着け。今この人を斬ったら、反感を買って村全体からの年貢がなくなるぞ。それは本意ではなかろう」
鍔迫り合いをしながら顔を寄せ、藤は押し殺した声で囁く。
藤は太刀筋を見て、役人の力量を察した。やろうと思えば、このまま役人の刀を弾き飛ばして圧倒することも可能だ。だが、今はこの場をおさめることが優先される。
「すぐに松柏組の者が来る。それで刀を収めろ」
周囲の野次馬には、聞こえないような声量で囁いた瞬間。
「お前たち、何をしている」
そう声がした。松柏組の男二人が遠くから走ってきている。
役人の力が抜けた。彼の戦意がなくなったのを見て取って、藤もまた一歩後ろへ退くと、素早く納刀する。踵を返し、松柏組の者が到着するよりも前に、人混みに紛れようとした。
「藤さん!」
椿に声をかけられ、藤は眉を寄せる。市の女たちに自分の名前が知れているのは承知の上だが、目の前にいる役人にも、松柏組の者にも、自分の存在を認知されたくなかったからだ。
「ありがとう」と熱を込めて告げられた感謝の言葉に、「いえ」と短く返して。
藤は急ぎ鹿毛に跨ると、村を後にした。
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