三 船旅
と、藤が元気だったのは、ここまでだった。
「ほら、気が済むまで吐いたら水を飲め」
浄に水筒を差し出され、藤は船甲板の手すりにぐったりと凭れたまま受け取る。手すりの上に頭を乗せて完全に脱力し、顔面蒼白で目を閉じたまま、返事をする気力もない。疑いようもなく、船酔いだ。
藤は川を渡る小舟には乗ったことがあるが、海を行く程の大型船に乗るのは初めての体験だった。先程から幾度も嘔吐を繰り返し、もはや戻すものも残っていないが、それでも体調は改善しない。藤は大病に罹ったことはなく、今まで彼自身が体験してきた体調不良の中で、最悪の状態であると感じていた。
「浄は……何故平気なのだ」
ぐったりとしたまま、か細い声で藤が問う。水筒を握りしめたまま飲もうともしない様子に、浄は吐息を一つつくと甲板に腰を下ろして手を伸ばした。
藤の体を抱き起こすように片腕で支えながら引き寄せ、自分の立てた膝に凭れさせる。水筒を口元に当てて、咽ないように少しずつ飲ませていく。藤ははじめ驚いたように目を瞬いたが、唇に触れた水の清々しさを感じて、大人しく嚥下した。
「俺は昔、長い間船に乗っていたからな。慣れている」
「慣れの……問題なのか」
「ある程度はそうだろう。体質的なものもあるだろうが」
少しずつ藤に水を飲ませ終えると、今度は藤の体を横抱きにして立ち上がった。
「何を、するっ……」
藤は一瞬抵抗を示したが、全身に力が入っていないので、浄にとっては何の支障もない。しっかりとした足取りで、階段を下って船内部へと向かう。
「また吐きそうだ」
だから甲板に戻してくれ、と言う藤に、浄は笑う。
「もう吐くものも残っちゃいないだろう。船は下の方が揺れは少ないんだ。悪いようにはしないから、しばらく黙っていろ」
口は悪いが、浄の話す様子に迷惑そうな色は感じられない。むしろ楽しんでいる気配さえある。藤もそのことを感じ取り、身を任せることにした。暗殺しようとしている相手に介抱される情けなさは覚えたが、今はそんなことを気にしている余裕もない。
浄はそのまま木で組まれた階段を降り続けて、船の最下層にあたる倉庫にまでやってきた。月の光も届かないそこは、ひどく暗い。他の船員もここには来ないため、くぐもる波と、小さく軋む船の音だけが響いている。
藤は船の中央部に、進行方向に頭を向ける形で横たえられる。浄はそこに足を投げ出すように座ると、藤の頭を引き寄せて、自身の太ももに頭を乗せさせる。
藤の脳裏には、朝に娼館で見た光景が思い起こされていた。
「ほら、揺れが少なくなっただろう」
浄の言葉に、藤はおとなしく頷いた。どうせ開いていても見るものもないので、目を閉じて体から完全に力を抜く。
「波の動きに呼吸を合わせると、もっと楽になるぞ」
波の動き、と言われても、藤には今、波がどういう状態なのかはわからない。藤が戸惑っている気配を感じ取り、浄はその掌を引き寄せて、自身の胸元に押し当てた。
浄の、人よりも少し早い鼓動と、肺が上下する様子を掌に感じる。
「俺の呼吸に合わせろ」
促され、藤はゆっくりと息を吐いて吸う。そうして浄に合わせて呼吸をするたびに、先程までの最悪の気分が、少しずつ和らいでいくのを感じていた。
浄の空いている方の片手が、藤の長い髪をそっと梳く。
藤は意識が溶けるように、いつしか眠りについた。
次に目を覚ましたのは、船が異常な揺れ方をした時だった。大波に煽られたというようなものではなく、何かにぶつかった時のような衝撃。
「何だ……?」
同じく眠っていた浄が顔を上げ、様子を伺う。
遠く頭上、甲板の方で慌ただしく足音が響いているのが聞こえる。何を言っているのかは分からないが、人の怒声のようなものまでしている。
「いやに騒がしいな。松柏に見つかったか?」
「まさか。この船は白虎のものではない、ただの商船だぞ。仮に松柏に見られたとして、何の問題もない」
藤の言葉に、浄はふっと笑った。
「なるほど、では海賊か」
「何だと」
藤は飛び上がるように体を起こした。同時に、鳩尾のあたりに収まっていたむかつきが増幅して、また全身を支配する。
思わず口元を手で抑えながら、それでも上の様子を伺おうと、階段の方へと這っていく。
浄は遅れて立ち上がると、藤を押し留めるため行く手を塞いだ。
「おい待て。そんな様子で向かってどうする。本当に海賊なら、こちらから行かなくとも、そのうちここに来るさ」
二人がいるのは、船に積み込まれた全ての荷物が置かれている倉庫だ。海賊が狙うならここしかない。
「その前に、もし乗組員が殺されたら航行できなくなるだろうが」
「商船の乗組員だってそんなに柔じゃない。お前だってさっき見ただろう、奴らの屈強な体格を」
「それとこれとは話が別……」
藤は目を見開いた。
階段の方から微かに漏れてくる、上層階の硝子灯の光。その光が浮き上がらせたのは、音もなく刀を振り上げた男の姿。彼は階段に背を向け立っている浄の背後に迫っていた。
危ない、という警戒の言葉を発しはしなかった。藤は浄を殺したがっているのだ。これは、絶好の機会のように思われた。浄の刀は今、先程藤が横になっていた辺りに置かれたままだ。
男の刀が振り下ろされる、その瞬間。
今まで鷹揚と構えていた浄の体に、突然気迫が漲った。
降ろされた刃を横へ飛び退いて躱し、着地と同時に男の懐へ入るように身を屈め、踏み込む。左手で男の刀を握る手を抑え、右手で男の顎を掌底で突き上げた。
あまりにも滑らかな一連の動きは、まるで演舞のようだ。顎への強烈な打撃に気を失った男は刀を取り落し、階段の方へと吹き飛ぶ。
浄は床に落ちかけた刀を空中で受け止め握り込むと、階段に倒れた男の
「テメェ、なんでこんな所にいやがる」
そのうちの一人に問いかけられ、浄は口角をあげた。
「それはこっちの台詞だ。お前ら、乗る船を間違えたのではないか」
物怖じしない浄の態度と、階段に倒れた仲間の死体に、海賊の方が殺気立つ。
「うるせぇ、大人しく道を開けやがれ」
「うおおお、死にさらせぇ!」
口々に怒声を上げ、浄へと斬りかかる海賊。
その振るう刃を避け、奪った刀で受け止め押し返す。浄は逆に一歩一歩踏み込んで、圧倒しながら階段をのぼる。途中、階段で倒れた死体の胸ぐらを握って引きずっていく。浄の太刀筋には余裕が感じられ、あえてその場でとどめを刺していないことが伺い知れた。
背後に残した藤を振り返ることなく、浄は上の階層にまでのぼると、戦いながら倉庫に通じる階段の上蓋を閉めた。
唯一の光源を失い、閉ざされた倉庫に広がる真の暗闇。
誇張されているのではないかと疑っていた、噂に違わぬ浄の実力を目の当たりにして。
藤は、力なく床の上に倒れたまま。浄が上層階で、甲板で、瞬く間に海賊たちを殲滅していく音を聞いていた。
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