49話・熊野兵乱(外伝5)

 秀長の構想、自分が手塩にかけて育ててきた子飼い内衆を前に打ち出す構想が具現化したのは天正十三年(1585)の紀州征伐後、暫定的に泉州と紀州へ転じた頃である。

 それまで桑山と小堀程度だったが、羽田をはじめ横浜一安、井上源五の子飼いにも活躍の機会を与えることが出来た。

 無論藤堂高虎にも粉河猿岡山であったり、和歌山城普請の現場などで機会を与えてやったが、これは直後に始まった四国攻めの影響で然程の影響力は無い。

 四国での藤堂はそこまで目だった武功も無く、珍しく功を焦ったのか堀端で狙撃されたり、再三の矢留に従わず結局副将の秀次から説得されてようやく退くと言った様であった。

 兄秀吉が煩っているなかで、それに連動するように調子の上がらない藤堂というのも面白いものだ。

 そして戦後は長宗我部家から信頼を勝ち得た穏健な交渉人となったのも面白い。戦中既に宮部藤左衛門から「とりなし」を依頼されていた経験があるので、この頃は手足だけでは無く口も達者になっていたのかもしれない。


 夏の四国攻めが一段落すると、秀長は大和の国主として入国した。

 新たな陣容の中で重きを成すのは羽柴家の古参で筒井家の指南役を務めていた伊藤掃部であり、秀長の右腕たる小堀新助もまた伊藤の指南を受ける立場にあった。

 伊藤掃部は要衝宇陀を守り、高取には地味な古参本田武蔵守が配せられ、羽田は小泉を得たという。

 紀州では和歌山から和泉にかけて権益を持つ桑山重晴が重鎮に思えるが、城の目と鼻の先にある紀の川河口紀之湊に配された吉川平助よしかわへいすけが「紀伊国大将」として重用された。彼は元々長浜の舟手だったが、鳥取城攻めで動員され頭角を現した。

 平助は高虎の同期ともいえる存在で、他に秀長養子仙丸の祖父杉若越後も同じ時期に羽柴家へ転じている。越後守は先の紀州征伐で「芳養はやの城」を任された。

 この同期三名は秀長の重臣となったが、武功に比べてやっと一万石の高虎の禄は低い。


 郡山の城下には諸将の屋敷が置かれたが、中でも近江衆の一角小川氏は後世名が遺るほど厚遇されたらしい。

 小川氏は近江衆の中でも柴田勝豊に配されたり、秀吉直下の将・一柳直末の娘を娶るなど異色の存在である。秀吉直下の将との縁戚でいくと尾藤二郎三郎は兄が高名な知宣で、彼の婿が本田武蔵守の倅である。


 秀長のあからさまな態度を、近江衆の両頭ともいえる多賀と池田は不満を抱くが、それでも自分たちも雇って貰えるだけ有り難いので表立って文句を言うことは出来ない。

 不満を、高虎に対する同情という形で昇華する程度である。


「与右衛門が大和に拠点を持てないというのは、美濃守殿も中々考えたものよな」

「いやはや池田殿。私はそこまで思うことはありません。紀州も良いところは御座います。山に神社仏閣、川は海へ注ぎ、大海は諸国へと通じる。これほどまでに豊かな国で文句を垂れれば、罰が当たります」

「もう少し欲を持て与右衛門」

「いや過分は毒です。日向守殿や五郎左衛門様のように忙しくなるのも嫌だ。それに私は常々一番激しいところを寄越せと言うておりますが、この紀の国には未だ従わざる国人連中も居ります。そうしたところで藤堂隊は必ずや役立ちましょう」


 秀長は己の腹心と伊藤掃部を以てして大和を改革すると決めたのだ。

 政務は政治家に任せれば良い。この頃までの高虎はそのように考えて、一先ずは紀州で力を蓄えることに専念しようとしていた。曲がりなりにも粉河一帯の領主となったからには、足下を固め、家臣候補の顔も直に見て定めたい。

 それに紀州には親父殿と慕う桑山重晴がいる。今は経験豊富な男に羽柴家を学ぶことも大事だろう。(もっと言えば腹心も婿であるから、何かあれば声が掛かるはず、という計算もあるが)

 いつの間にか秀次への指南役も終わり、代わりにいとこの喜左衛門を側に侍らせた。



 しかし世情は実力者の静観を許さなかった。


 年が明けた或る日。

 人の噂に接した高虎は、和歌山城内の宿所で但馬以来の側近居相孫作に愚痴を溢す。


「全く殿には困ったものだ」

「それは、自省ですか?」


 高虎の思わぬ言葉に孫作は鼻で笑う。


「バカモン、殿と言えば宰相様のことだ」

「あ~」


 孫作はまた鼻で笑う。仕方の無いことだ。秀長は伊藤掃部の紹介で会って間もない国人の娘を、手籠めにしたのだから。


「彼の御方も、わからんもんすねえ」


「いや男とはそのようなものだろう」

「ただ、御子が出来、無事に生まれたとして、男の子であれば非常に気まずいですな」

「ああ。仙丸君が気の毒だ」


 秀長の後継者候補仙丸が故郷近江の中郡を治めた丹羽長秀の子息として生まれたからには、高虎が仙丸を守ることは義務に近い。

 その為には、やはり池田殿が説くように欲を持つ必要がある。その為にやるべきことは――。


 大和に入国した秀長は伊藤掃部の手を借りながら政務に着手していた。

 その中で領国の検地計画を策定するが、このとき問題となったのが熊野山間部である。

 形式上、反羽柴連合の総大将となった有力国人湯川直春は羽柴家へ従属していた。しかし彼は長年の苦労が祟り、呆気なく郡山で病没。その後、誰が国人を纏めるかも不明瞭となり、山間部の検地は暗礁に乗りかかった。


 秀長は事情を良く知る十津川玉置山の篠ノ坊を聴取するなかで、北山地域の周参見、入鹿の態度が怪しい。そして田辺の南側、富田川流域に根付くかねて要注意人物の山本主膳は不穏であることを把握した。


 鶏が先か、卵が先か。郡山の疑心暗鬼は容易に熊野山中へ伝播するもので、彼らは早くも反秀長で徒党を組み、蹶起の時期を待った。折しも秀長は発病し有馬で湯治の身で蠢動には好機である。


 夏、秀吉政権は熊野の討ち漏らした国人連中などは忘れたように、対島津の方策に専念していた。

 そうした頃に彼らは蹶起したのである。

 秀長は怒り徹底的な処断を決意し、八月の末に自らも出馬し熊野へ兵を進めた。


 流石の兵力だけあって敵を追い詰めていく。将士誰しも、労せず平定することが出来ると思った。

 しかしその矢先、不意を突かれ伊藤掃部が討ち取られたのである。


 豊臣兄弟の古参にして大和の重鎮が死んだ。

 秀長はどうにか敵将山本主膳を降伏させ、内外に勝利を喧伝したが、北山の始末は不十分に終わり、完全に平定できたのは熊野本宮周辺程度であった。

 こうした現状は近江にも伝わっており、池田伊予守の知り合いなどは誰某へ宛てた書状に、成敗し損ねた風聞があることを記している。


 伊藤掃部は死んだ。

 目下その話題は、その跡目、特に郡山城内の曲輪に設けられた伊藤屋敷跡に誰が入るか、に移っていた。

 その中で本能寺の変に荷担し、何とか助命をされたくせに偉そうな近江衆は、秀吉の覚えめでたく武功一番で、いつの間にか秀長側近を婿に従える藤堂与右衛門を推したのである。



「いやいや、まだ拙者の出る幕では御座らん。やはりここは宰相様が育てた羽田殿が宜しかろう」

 と与右衛門は言うのだが、その運命を受け入れる準備は調っていた。

 冷静に考えると秀吉一家に近づいた以上、秀長を支える役目、家中一番になるのは宿命でしかない。


 一方で秀長は周囲に寵臣羽田忠右衛門を据えたいらしく、近江衆と秀長周辺には良からぬ空気感が漂う。

 高虎自身は羽田とも仲良くしたいと考えているし、自分の影で隠れ噂話をする輩は叩きのめしたくなる。

 だが、秀長家中に於ける自身の立場を確実なものとするには絶好の好機であることには変わりない。


「羽田殿とは仲良くしておいた方が良いと思いましてな」

「それは手前も同様に御座います」

「間もなく三遠駿甲信の太守徳川殿が上洛されるというのに、足下の和州が揺らいでいては天下の笑いものだ」

「如何にも」


「どうだね。其方は家中に顔が広く、拙者は羽柴御一家に何故だか通じている。我々はお互いの強みと弱みで補うことが出来ると思う。一つ組んでみないか。其方も同じ、近江の、元は六角方の生まれではないか」


 忙しいなか陣容が定まる。

 伊藤掃部の屋敷跡に藤堂高虎、伊藤掃部が治めた宇陀には羽田正親が経験豊富な加藤遠州の指導を受けながら入ることに決まった。

 人は高虎屋敷が置かれた曲輪を「与右衛門丸」と呼んだ。


 いつの間にか季節は十一月となった。この頃には「帰参」していた山本主膳も内衆の十数人と郡山城下の宿所に暮らしていた。


「大右衛門」


 高虎は矢倉大右衛門、元は村山与介として秀次に仕えていた男だが、この頃には故あって名を改めていた。その先祖は、高虎の先祖とも縁のある人物であった。


「頼まれていないこと行うことは、些か面倒ではある」

「殿は……実質的な大和の大将です。誰が他人を大将と言うても、私どもは殿がそうだと信じ、お慕いしております」

「買いかぶりすぎだよ大右衛門。とまれ万事、大木長右衛門、服部竹助、居相孫作に話してある」

「流石は三功臣。真砂一党の折と」

「いや。彼処まで面倒なことはせんでも良ぇ」

「畏まりました」


 郡山の策として、間もなく熊野本宮周辺の赦免を赦免することが決まっていた。しかし桑山や高虎は、些かの不満があった。不遜な連中に対して

「背いた者は断罪する、従わぬ者は捕縛し連行するように」

 と命じても、実際にどうなるか、を見せてやらねば文字通り示しが付かない。

 そして兵乱の鎮圧が不十分であったとの風聞を払拭するためならば、何だってやる覚悟が、この男たちにはあった。


 十一月四日。

 山本主膳一党は、突然宿所を男たちに襲われ処刑された。

 男たちは遺骸を手早く処理し、山本主膳一党の首は奈良大安寺の東通りにかけられた。晒し首である。

 道行く人は、突然かけられた十数もの首にただただ驚いている。


 急報は京都の豊臣兄弟、そして上洛した徳川家康の耳にも届いた。

 高虎の振る舞いは秀長にとって想定外でも、関白秀吉にとってみれば想定内のことであった。ただ弟の顔色を一瞥もせずに、迅速に事を起こす手際の良さは薄ら寒い。


 そして徳川家康は小さな事でも粗相があれば、次に晒し首となるのは自分たちであることを察し、同時に藤堂高虎という名は鮮烈に刻まれた。

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