外伝・風起こす虎<秀長視点高虎物語稿>

45話・藤堂与右衛門なる男について(外伝)

 天正十年六月、摂津。羽柴小一郎は頭を抱えていた。

 大返しの先で接したのは織田信重が謀反人として主従討ち滅ぼされたという報せであった。大逆人明智光秀の婿だから仕方の無いことだ。

 頭痛の種は、信重主従の首桶にすがり泣く大男だ。

 この男藤堂与右衛門は、謀反人織田七兵衛を慕っていた。

 その信望は現主として悩ましい。

 そして兄筑前守のもとに逐次もたらされる情報によって、小一郎長秀は卒倒しそうになった。

 織田家の旗本たる近江衆の過半が明智光秀方に付いたのである。

 問題は藤堂与右衛門は、そうした近江衆の親類として頭角を現してきた、という点だ。ただの図体の大きさだけなら良かった、困るのは頭の切れる男というところだ。

 だから此方の動きは藤堂を通じて、筒抜けなのではないか。


 藤堂与右衛門はそれまでの羽柴家にはない武人であった。由緒正しき京極被官の血筋、そして六角の時代にはなかぐんきっての有力国人として名を馳せた多賀貞隆の一族でもある。

 尾張の村、恵まれず名字すら怪しい家に生まれた長秀とは対照的な存在だ。

 ……どうにもだ。羨望、いや妬いているのかな。

 初めて会ったのは天正七年の秋口であろうか。但馬が一段落付いた頃、更なる増強をと兄が安土に頼み、派遣された時である。

 羽柴家の誰よりも高く太く、傷の多い侍で、声も大きな男で頼もしさがあった。

 しかし後から来歴を聞くと、危うさへと変わる。

 藤堂与右衛門は問題の多い男だった。


 最初は木下一族と叩き上げの手勢、そして臣従国人で十分であるから、と長秀は兄の増強案を蹴り飛ばしていた。

 しかし但馬の国人連中の中でも素知らぬ輩共は臣従すら怪しく、それに対する将士の増強は急務であることに変わりは無い。

 天正七年の秋、吉川元春は敵の動きを察知し「小一郎二丹波衆少々相副」との風聞を報告している。


「丹波衆ということは日向守様か。隣国で誼もあるし、頼もしい事この上ないな」

 報告を聞いた長秀は少し肩が楽になる。宮部や一族から聞いた但馬情勢は、彼の肩を強ばらせるものであった。

 だが、待てど暮らせど援軍は来ない。

 ようやく、ようやく年明けに高島七兵衛の母衣武者が三木城包囲陣へやって来た


 その男は着陣するや

「一番激しそうなところをくれ」

 と言う。そして

「ああ兵粮の心配は無用に御座る。拙者、鮒寿司があれば日が暮れるまで闘えますから」

 とも言う。


 計算が好きな長秀にとって、湖国からやって来た母衣武者の存在は計算外で扱いに困る。仕方なく、仕方なく先駈けに据えてやると、兄秀吉直々の要害各個撃破作戦に於いて彼は抜群の働きをする。それどころか城から打って出た別所の名の有る者の首を取って、付け入りの切っ掛けを作った。

 その間に高島から来た母衣武者は、自身の家人が用意する鮒寿司だけで戦った。

 計算外であるが、その言葉に嘘は無かった。


 こうして三木城が落ち、最後まで抵抗した端谷城も降伏した頃、長秀の元に光秀の使者伊勢伊勢守が訪ねてきた。今更ながら丹波衆を派遣しなかったことに対する謝罪である。

 ――やはり日向守様は丁寧な御方だ。こうした心遣いが出来るからこそ、上様の信頼が厚いのだろう。


 話はあの男の話になった

「それで藤堂与右衛門尉の働きは、如何ほどでしたかな」

「ああ。最初は声も身体も大きいだけの男かと思ったら、頼んでもないのに先駆けで敵を討つのだから、さすが日向守様が見込んだだけありましたな」


 長秀がそのように言うと、伊勢守はばつの悪そうな顔をした。

 話は天正五年いや、もっと前に遡っても良いかもしれない。

 織田信重の側に仕えていれば自然と明智家との接点は生まれる。家人が揃える装束のお陰もあり、その大男は明智家中でも徐々に人気が出る。それを舅は温かい目で見ていたし、作事、縄張りでは直接質問を受けるなど、良い関係であった。


 明智光秀は義秋の逃亡の中で高島国衆と接点があり、元亀争乱下の饗庭野争奪戦でも関わりがあった。

 山城破城のなかで、婿殿の家来への難癖が舅に伝わる。更に係争地鵜川を巡る問題でも、舅と婿の間を切り裂こうとするような醜聞が耳に入る。そして婿に仕える声も身体も大きな男が風聞の的になるのは自然の流れだ


 天正五年秋、明智光秀は丹波攻めをしながら相変わらず各方面に忙しくしていた。波多野氏攻めに本腰を入れたい時期に大和へ出張。仕方なく、婿殿に援軍を乞うた。

 波多野氏が籠もる八上から南東の山間部に籾井という地がある。この籾井は峠を越すと北摂にも接する多紀郡の要衝の一つで、光秀は攻略の拠点として天引峠の高地に陣を築き、援軍を入れることにした。あわよくば八上の波多野や荒木といった同郡の国衆を誘き出そう。そうした目論見である


 だが目論見は外れた。

 大和から丹波へ戻ってみると、誰の許しも得ずにその谷は戦場と化していたのである。

 婿殿の母衣武者藤堂与右衛門尉の働きは、それは見事なもので、あっという間に籾井郎党を追い詰めてしまった。その間に光秀の兵は別の攻め手で痛い目に遭っているのだが。



「それで日向守様がお怒りになったのです」

「勝手なことをするな、と?」

「左様です。しかし藤堂は、意に介さない。反省するどころか翌夏のオヤマ攻めでも問題がありましてな」


 丹波オヤマは大山とも、小山とも書く。古く東寺領大山荘としても知られ、同地を納めた中沢氏は幕臣としても活躍した名族だ。

 この頃は黒井の萩野赤井、八上の波多野氏に通じ反織田勢力であった。特に赤井の本拠黒井城からすると南の守りの要であるため、この城には黒井からも援軍が来るなど最重要拠点と目されていた。

 織田方も明智光秀に長岡親子、滝川一益に高島七兵衛など蒼々たる顔ぶれが見える。中でも長岡藤孝の嫡男与一郎は元服し、更に光秀の娘を娶った直後の一戦であった。

 愛娘を娶った婿殿、更に恩人長岡藤孝の嫡男ともなれば、手柄を取らせたいのは情として当然である。


 そのような魂胆を目敏い近江衆が見逃す訳も無い。

 彼らは「京衆に後れを取るな」とか「こっちも婿だぞ」と気炎を上げる。

 そうして三方より攻め寄せたのだが、ここで総大将光秀は号令があるまで攻めるべからずと厳命する。もちろん、婿の与一郎に一番乗りをさせる工作なのは諸士の知るところである。


「そうして藤堂は近しい衆を率いて号令よりも前に乗り込んでしまったのです」

 結果としてオヤマの城はあっという間に落ちて明智光秀は大勝利を収めた。

 しかし信重隊では嶋新六が亡くなるなど、必ずしも良い結果では終わらなかった。


「そのようなことをすれば、流石の日向守様もお怒りであったと思うが」

「ええ。なかなかの怒りようでしたね。お諫めするのが大変でした。実は、あれの一族と私の一族が夫婦でしたね。私もしばらく口を聞いていただけませんでしたから」

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